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戯言遣いが選ぶ推薦マンガ(yuyaさんボルボラさん共同企画)

まえがき

みなさんおはこんばんちは。ざれこと、戯言遣いです。前回の「推薦図書10冊」から引き続き企画された今回の「推薦漫画5冊」、今回でラストとなりました。

正直言うと実は私、推薦漫画ってホントにやるとは思ってなかったんですよ。前企画の反省会という名の雑談twicassで「じゃあ次は漫画やろうか~ww」みたいな話だったんで、その場のノリで言っただけかと思ってたんです。
けど、twitter上ではyuyaさんやボルボラさんがなんか書いてる報告してたので「あ、これほんとにやるんだ」とちょっと焦った記憶があります。

とはいえ私も漫画を全然読まないわけではないので、選別にあたっては特段困りはしませんでした。ですが、かといってボルボラさんほどの量を読んでいるわけではないので選んだ漫画が名作かといわれるとちょっとわからないです。あくまでざれが推している、というだけ。
といった感じで予防線を張りつつでは本編に行きましょう。


1.チェーザレ ~破壊の創造者~

ルネサンス期のイタリアには多数の偉人が誕生した。ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロといった芸術家やマキャベリといった著述家、メディッチ。数え上げればきりがないこれら著名人の中で、しかし、ひときわ異彩を放つ存在がある。
名を、チェーザレ・ボルジアという。スペインの富豪ボルジア家の人間であり、またのちの教皇であるアレクサンドル6世、歴史においては「史上最悪の教皇」として悪名高いロドリーゴ・ボルジアの息子である。
もとからしてカトリック教会においては聖職者は子供を持たないという建前から、公式にはロドリーゴの「甥」として扱われている彼は、その出自や所業から悪評には事欠かない(妹ルクレツィアとの近親相姦話まである)。が、同時に指導者、統治者としてはマキャベリ著の「君主論」のモデルになったほどの功績を残しており、結果として後世には毀誉褒貶相半ばする評価の難しい人物として伝わっている。

本作はそんな彼に対して、既存のチェーザレ評を踏襲しながらも、昨今の研究を盛り込み、今までとは違った切り口で新しいチェーザレ像を描く意欲作である。

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チェーザレ・ボルジアの肖像(アルトベロ・メローネ画)
大変な美男子であったと伝わる。


本作の見どころを上げろと言われれば、まずその時代背景描写の緻密さと、そこを踏まえて改めて彼の人間性を描いたところであろう。

物語は彼の学生時代から始まるが、すでにその時点で当時の「大学」が持つ社会的役割が学生生活を通して読み解けるようになっており、そこからチェーザレの持つ政治的地位もわかるようになっている。また狂言回しとして市井人である架空の人物を登場させ、彼の視点からチェーザレを見つめることによって、第三者視点からチェーザレの状況を見極められるようにもなっている。このことからも、本作が単純にチェーザレを中心とした英雄伝にならないよう配慮されていることがわかるだろう。

話は大学だけにとどまらない。当時イタリアでは教皇の死去やフランスに代表される諸外国からの圧力にさらされており、また教皇の死去後行われる次期教皇選挙、通称「コンクラーヴェ」の開催もあって、枢機卿である父を持つチェーザレも無関係とはいかず、学生の身分でありながらも様々な謀略に関与することとなる。

謀略という言葉の響きから、彼の人間性を問う声もあろうが、しかし先述のようにイタリア半島の情勢は風雲急を告げており、とても善人だけではやっていかれない時代に彼は生きた。殺さなければ、殺されるという状況であればむしろ先手を取って行動に移す人間こそが当時は求められたのだ。人間性(ヒューマニズム)という言葉だけにとらわれていては彼に対する正当な評価は不可能である。
現に、本作では彼を単なる冷酷無比な人間として描写していない。謀略に手を染めながらも、貧民の原因を教会の腐敗にもとめ、祈りと儀式だけでは食べていかれない現実に対して、仕事を与えることで技術と糧を与える。そこには政治家として、統治者としての力量(ヴィルトゥ)を確かに見いだせる。聖人に政治家はできない。

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リアリストたれ。彼は現実を見据えるまさしく政治家であり統治者であった
チェーザレ 破壊の創造者(8)

評価が毀誉褒貶相半ばすると先ほど書いた。しかし、本書を読むとそれは人間を単純に見すぎる近代の悪癖ではないかと私は思う。というのも、善悪二原論には還元できない人間の複雑性を誠実に見つめると、本書のように、善行も悪行もするチェーザレのほうが、よっぽど人間を正確に描いていると思えるからだ。褒められるだけの、貶されるだけの人間などいないのである。


当時の時代背景を含めて濃密なヒューマンドラマが展開される本作だが、それだけに刊行速度は遅い。現在は休載中で、正直完結が危ぶまれる作品ではある。しかし、それを補ってなお続きが読みたくなる魅力が本書にはたくさん詰まっている。

チェーザレは享年31。本編ではようやく大学を卒業した後のころで、チェーザレが本格的に活躍しはじめる直前で連載が止まっている。しかし、これだけの密度を誇る本作なら、安易に再開せず、きちんと構想と時代考証を踏んで、クォリティの高い作品として世に出してほしい。そうしてこそ、チェーザレの姿に迫れると、私は信じる。


2.聖おにいさん

目覚めた人:仏陀、神の子:イエス。
世界三大宗教の二角のトップが東京立川に降臨。目的は布教でも救済でもなくバカンス。宗教ネタ6割、日常あるあるネタ4割のギャグマンガ。
聖人として崇められるお二人(日本的には二柱)が現代の東京で繰り広げる愛と衝撃(主に腹筋に対して)の物語。


まさか宗教ギャグマンガの書評を書くことになろうとは。いや私自身宗教については教養として、またネタとして宗教関連書物を蒐集する癖があるので、こういった漫画はむしろ大好物なわけだが、それにしたって仏陀とイエスを主役に据えたギャグ漫画が世に出るのはまさに日本ならでは。ヨーロッパじゃかけないよねこんなの(まぁ日本文化に何かと理解あるフランスは翻訳して出してるらしいけど)。
世が世なら異端審問官が日本に向けて出発するレベル。


お話は冒頭にも書いた通り、千年単位で働く聖人が休暇を取って(よりにもよって)東京にバカンスに訪れるのだが、その聖人的価値観から俗人的価値観を理解できず、妙な解釈をするというのが本作の面白み。ダメージジーンズを現代の糞掃衣と勘違いしEDWINブランドに対して祈りをささげるなど、なるほど文化が違う。

またギャグマンガの宿命なのか、主人公たち仏陀やイエスが聖人であるはずなのに全く聖人らしいところがない。どちらかといえばよその文化圏からきた外人さんという扱いをされている。

他にも百均ショップに衝撃を受けるというまさしく外国人ムーブを展開したり、聖人エピソードをおもしろおかしく現代に適応してみたり(お中元のハムとイサクの犠牲をからめたりしている)と、そのフリーダムっぷりを容赦なく披露してくる。


時代や空間をごとの価値観の違いというものを利用した作者の慧眼は見事であり、宗教という日本人にはあまりなじみのない文化を笑いに昇華するセンスは脱帽ものだ。出てくる宗教エピソードも比較的日本人にもなじみ深いものであるし、そうでなくとも聖人というにはあまりにも世間ずれしすぎた二人の生活あるあるネタも笑いを誘う。

コメント 2020-06-10 174249

  天界にも経理という概念があるらしい
聖おにいさん(5)


笑いというのは日ごろの疲れがちな生活には必要なエッセンスであり、だからこそ世にはギャグマンガというものが存在する。本作は数多あるギャグマンガの中でイエスと仏陀を主役に据えたかなりの異色漫画だ。それだけに、いままでにない笑いを提供してくれる。本作をきっかけに宗教に興味を持ってみるのもいいかもしれない。そうしたら、宗教ネタを理解できている分、この作品をより深く楽しめるだろう。


コロナだ不況だと、なにかと苦労続きで笑いに飢えている現代人。仏陀とイエスはそんな私たちを楽しませるために漫画を通して降臨されたのです。いくらギャグの世界に身を置こうともやはり聖人は聖人なのでした。


蛇足
さすがにムハ〇マドを絡める度胸はなかったらしい(というかそれはさすがに出版社が止めると思う)


3.乙嫁語り

遊牧民に限った話ではないが この地域の女性は皆一様によく働く
羊の世話はもちろんの事、紡績、機織り、刺繍、合間を縫って保存食作り等々
それでも暮らしぶりがそれほど楽に見えないのはただ生きていく事にすら多大な労力要する土地柄だろうか
考えてみれば、ずっとこの土地に暮らしてきた人たちなのだ
ただ生きていく事にすら多大な労力を要する
そういった土地に、代々暮らしてきた人たちなのだ
                         ヘンリー・スミス


物語は19世紀・中央アジアの地方都市を舞台に繰り広げられる。主人公は中央アジアを旅行中のイギリス人の20代青年、ヘンリー・スミス。本作は彼が出会う中央アジアの人々の生活、結婚、戦いを描いている。


人間の生活というのは時代の移り変わりによってがらりと変わってしまう。私たち日本人が50年前の日本を正確に理解できないように、19世紀の、それも中央アジアの生活といわれれば、これはもう容易に想像できるようなものではない。我々はお湯を沸かすのにガスを使うが、彼らが火を起こすにはマキを使う。遊牧民の生活とはどういうものか?食事は何をとっていたのだろうか?建物ってどんな感じ?

むろん、知識だけだったらネットから拾えばそれですむ。だが現代人がそれを真に理解できるかというと無理だろう。生きる前提があまりにも違う。だからこそ、本作では主人公スミスは研究旅行で見聞きする体裁で様々な事柄を説明してくれている。彼がいなければ我々は彼らの生活の何を理解できただろうか。青年スミスは西洋世界との接点を担い、現代日本の読者のガイドとなってくれている。


ところで19世紀といえばイギリスでは産業革命がおこり人類史を大きく変化させ、いわゆるブルジョワジが貴族にとってかわって政治を動かす、社会構造の大幅な変化が見られた時代であった。しかし、それはあくまでヨーロッパでのお話。機械文明花開くイギリスとは違い、いまだ牧畜にたよる、素朴といえば聞こえばいいがその実引用にも書いたように、日々の生活厳しい中央アジアがこの物語の舞台だ。牧畜の世話や紡績、機織。本作で描かれるその美麗な刺繍は病気から身を守るためのお守りである。医療はいまだ祈りが多分に含まれる土地柄だったのだ。スミスという比較的我々に近い価値観からのぞかれる彼らの生活は、苦労を感じさせるものが多いが、それでも彼らにとってはそれが日常であり、当たり前だった。


本作の魅力をはなんといってもそのため息をつくほどの美麗な作画だ。緻密に描写された衣装や家屋の書き込みの量がすさまじく、とりわけ動物たちが素晴らしい。舞台が中央アジアの遊牧民の生活を描く以上、当然、登場する人々の生活には家畜のほか騎馬や狩猟の様子が随所に登場するが、動物の躍動感は漫画としては驚くほどに繊細で写実的。登場人物が馬に乗り乾燥したステップ地方を疾駆する様は、まさに一枚絵として額に入れても惜しくはないほど美麗である。

作者の作画一連動画。刺繍の一つ一つまで丁寧に描かれている。


美しい絵と文化や生活ぶりに焦点があてられた物語。しかしそこでの生活は厳しく、病や飢えとの戦いが今以上に切実な問題として迫っていた。
しかし同時に、それを当たり前のこととして力強く生きる姿を、読者は本作を通してみることができる。そしてそこには苦労だけではなかったということを、本作では楽しみを持って確認することができる。

4.ヒストリエ

「寄生獣」で有名な岩明均の歴史漫画。完結は期待していない。

主人公はプルタルコス英雄伝にて登場するエウメネス。歴史上では「カルディアのエウメネス」として名高い。本作ではこのエウメネスを主人公に据え、紀元前は4世紀、アレクサンドロス大王の時代を描く。

原作といってもいいプルタルコス英雄伝からよくぞここまで、というほどの想像力で物語を描いており、本編においてはいまだアレクサンドロスの父であるフィリッポス2世が生存している状況、つまり英雄伝においては開始5ページにも満たない内容で単行本11冊を刊行している。
むろんその内容は創作部分が大半ではあるが、英雄伝と矛盾しない形でエウメネスを描くその技量は卓越しているというほかなく、またその創作部分(不明であるとされる彼の前半生)は英雄伝にて伝わる彼の知性を確かにうかがわせる内容となっており、ついのめりこむほどの魅力を持っている。


ここで少しエウメネスについて紹介する(正直マイナーキャラではあるので)。エウメネスは記録によると最初はアレクサンドロスの書記官として仕えたが、のちアレクサンドロスの東方遠征において軍を指揮することになる。なおこの際任されたのは騎兵部隊であるが、当時のアレクサンドロス軍(マケドニア軍)においては、いわゆる「金床戦術」(歩兵が敵主力を足止めしている間に騎兵が背後に回り、殲滅する戦術)が戦術として定着しており、そしてこの金床戦術の肝が騎兵戦力であったことから、騎兵部隊を任せられるということは、エウメネスがアレクサンドロスから信用され、ひいては地位も高かったということがうかがえる。

アレクンドロスはその死にあたって帝国を「最も強いものが統治せよ」という(はた迷惑な)遺言を残したが、そのこともあってエウメネスは「ディアドゴイ(後継者)」の一人として各有力諸侯と刃を交え、ついにはディアドゴイの中でも有力者として数え上げられるアンティゴノスの手に落ち、生涯を終えることになる。

彼の戦術手腕はかなりのものがあり、英雄伝においては、兵士は「エウメネスが指揮を執らないのなら戦わない」と、敵を目前にしながらストライキしたと伝えられるほど信頼厚く、力量があったらしい。ほかにも政治面においても知恵が働き、アレクサンドロス亡き後反目する諸侯をなだめるため、会議においてはアレクサンドロスの椅子を用意することで、御前会議の体をとることで無事会議を運営するなど、多方面において才能を発揮するかなり頭の切れる男として伝わる。

そして、これら英雄伝におけるエピソードは作中本編においても活かされている。というのも、作中、エウメネスは「パフラゴニア」という今でいうアナトリア半島北辺地域で少年期を過ごすことになるが、実はこの地方、歴史上ではエウメネスがアレクサンドロス死後太守として任命される土地である。著者の、史実を創作に活かすという姿勢がこのことからうかがえる。

コメント 2020-06-10 002522

            パフラゴニア現在位置


本作における最大の魅力は、そのストーリーもさることながら、描かれる人間の表情にあると私は見る。例えば、作中エウメネスは先述のパフラゴニア時代において、住んでいた村落が紛争に巻き込まれた際、心ならずも悪役を演じることになった。紛争の落としどころとして、自らを悪役に仕立て上げ、結果彼は村を去ることになるのだが、その際の村民の表情が絶妙なのである。
村民とて、彼のおかげで紛争が解決したことはわかっている。ただ、状況が状況だけに彼が村を出て行ってくれた方が事が丸く収まる。感謝と迷惑が混同した複雑な心境を、村民は持っていた。その表情。感謝、友情、安堵、不安、羨望。同居するにはあまりにも相反する感情を本作ではセリフなしで見事に描いている。


本作は歴史登場人物を題材としたヒューマン・ドラマだ。たとえ時代は違えど、描かれる人間の複雑さは今も昔もそうかわらない。エウメネスは以上の他にもかつての友人との再会や婚姻、戦争といったイヴェントをくぐることになるが、そのたびに描かれるのはやはり人間である。その人間を、本作では表情を巧みに駆使することによって、細やかなニュアンスや感情が読み取れるよう描いている。


冒頭にも書いたように、私はこの作品の完結を期待していない。いや、最初は期待していた。これほどの歴史漫画には出会えないと当時直感したからだ。だが、同時にこれほどのクォリティを出すためにはいったいどれだけの想像力と、地道な作業が必要なのだろうか。歴史を描くというのは、確かな史実に基づくことも大事だが、何よりも想像力こそが試される。そこに思い至ると、とても著者を責める気にはなれない。

完結は期待できない。しかし、それでありながらも続刊を待ち続けることができるのは、ひとえに著者の持つ表情を描く力量が私を強く引き付けて離さないからである。

5.シュトヘル


作者は「皇国の守護者」のコミカライズで好評を博した伊藤悠。
最近ではガンダムシリーズ「鉄血のオルフェンズ」のキャラクターデザインも請け負い、今後の活躍が期待できる作者であるが、本作で彼女が描くのは、モンゴル国によって滅ぼされつつある西夏文字を救うために旅を続ける少年・ユルールと、モンゴル国への復讐に生きる女戦士・シュトヘル、二人を取り巻く無数の人々と思惑とが苛烈に交錯する壮大な歴史群像劇である。


「漫画」という媒体に対して評価の対象となる点はいくつもある。
作画、ストーリ、キャラクターの魅力、コマ割り、セリフ、幕引。
これらが高レベルにまとまった作品は「名作」と呼ばれるにふさわしい。
本作、シュトヘルもそういった作品の一つだ。上記評価点をいずれも押さえ、特にストーリーは今まで見た漫画の中ででもトップレベルである。
映画には「一スジ、二ヌケ、三ドウサ」(スジ=脚本、ヌケ=撮影技術、ドウサ=演技)という言葉があるが、これはどうやら漫画にもあてはまるようで、シュトヘルの脚本=ストーリーがこの作品を唯一無二のものにしている。

文字か。そんな模様がなぜ、いとしい?

兄さん。文字は生き物みたいだ。
記した人の思い、願いを伝えようとする。
その人が死んでも、文字は、託された願いを抱きしめているようで…
生き物みたいだ。焼かれるとつらい

そんなものに人を費やすからたやすく攻め入られる 
              
               主人公ユルールと彼の兄ハラバルとの会話

本作のテーマはずばり「文字」である。主人公ユルールは養母が西夏人だったこともあって文字について特別な思いを抱いている。戦乱の世の常として、破壊され失われていく命にやりきれなさを感じ、せめて彼らの生きた証として後世に残る文字に価値を見出す。

ユルールは作中で必死に文字の持つ意義を唱える。

出来事を記すのが只今の勝者のみであれば、勝者の気に入らぬ過去は死んでしまう。
いつ何者が勝者であっても常に敗者の筆が-例えば勝者の不名誉であっても余さず記す筆があり続ければ。
そして勝敗に関わらず人々の筆が生まれ続ければ、誰もが筆を持ち記すすべを選ぶようになれば。

ー敗者の名誉が救われるか。いや勝者も不名誉を侵さなくなる、と?ー

いいえ。救われるのは争いのなかで無用に殺される人々です。

文字は歴史と伝統を伝え、過去の願いや想いを束ねることができる。記録された文字とそれを伝える文化と文明の連なりが、遠い昔に思いをはせることを可能にし、戦火に蹴散らされた人々の無念の記憶を、文字の糸の中に編み込み明日へと繋げる。

しかし一方で、文字そのものは向けられる刃の盾とはなってくれない。筆の連なりが幾千万幾億となってやっと刃は鞘に納まる。その夢を見るためには、途方もない年月と目の前で積み重なる死体を見続けなければならない。遠い未来の誰かの安寧は、目の前の近しい人間を犠牲にしなければ辿り着けない。

だからこそ、ユルールの兄、ハラバルはこう応えた。

国も人も移り変わり名前も忘れられ、法も変わる。文字というのは時の長の勢いを示すだけに生まれ、ゆえに水泡のごとく消える。

愚かな弟よ。お前は傲慢だった。

連なり語り継いでいくべきなのは、頭や口先から出たものではない。
喰らい殖え暮らし営む。縁そのものなのだったものを。

ユルール、ハラバル両名の出身部族であるツォグ族は、ユルールが守ろうとした西夏文字が原因でモンゴル族により滅ぼされた。ハラバルが守りたかった縁は、弟が守ろうとした文字によって絶たれてしまった。

戦乱のなかで焼かれないよう、過去と現在の目に見えるつながりに価値を置いたハラバルと、将来と、目に見えないどこかのだれかにも価値を求めたユルールの、これが分水嶺だった。


ユルールは文字に未来を見る。いつか、文字によりだれもが事実を物語れるようになるのなら、それを集められるだけ集められるなら。

そのかたまりは誰のものでもなく、何色にもならない。
その出来事と心のかたまりで、時代というものさえ読めるようになるかもしれない。
そのかたまりは生きていて、偽られ忘れられ葬り去られようとする人々の、
背に苦しみを灼かれた子供の力になる。
人と人とを結び、かけられる土砂をはねのけて、文字たちは人と生きようとする。

目の前にある戦火を変えられないものとして呑み込み、あきらめることをユルールは拒んだ。目前でかなわないから夢を見ないなんて弱音と彼は無縁だった。
時間を超えたその先にあるものを瞳の裏に写しながら、あなたは私が覚えている、伝えていくと言って、ユルールは文字を片手に焼野をどこまでも駆けていく。

あとがき

以上、ざれの推薦漫画5冊でした。あ、ええわかってます。5冊中4冊が歴史系とか趣味に走りすぎですね。けどしょうがないんですよ。私もともとそこまで漫画買うわけじゃないし。買うとなればそりゃあ自分の好みになります。今回改めて自分の本棚眺めてみたらなるほど私の人性格表してるなぁと実感しました。

あとなんでしかしらん漫画の推薦文のほうが書き上げるのに苦労しました。まぁもとは絵なんですから文章にするとどこかで伝えきれない部分が出てきます。それを無理に文字に起こすんだから大変です。どうやったらこの漫画の魅力を伝えられるだろうかと頭をひねりひねり、結果5冊の推薦文書くのに1週間ほどかかっちゃいました。さらに言えばどうして約9000字と、10冊企画と文字数が変わらないんでしょうか。これも絵の魅力を文字で伝えようとしたからこうなっちゃったんでしょうかね。ボルボラさんやyuyaさんの文章力がうらやましいです。

番外編

本編においては紹介する気がなかったのですが、本日6月12日に発表された「シャーマンキング 完全新作アニメ」情報をうけ急遽番外編として追加。

何を隠そうこちらの作品、私の青春ど真ん中の作品でして、連載当時はジャンプと言ったらまずはコレ。毎週の楽しみとしておりました。

ですが、作品そのものについては(見る目のない)編集部の判断で、作品完結に向けてラストスパート!というところで打ち切りを食らい、また続編、「シャーマンキングFLOWERS」も掲載雑誌が廃刊になったりとなにかと不遇な遍歴をたどる作品でございました。

まぁとはいえ、冷静に作品を振り返れば人が死んだと思ったら生き返ったり、ロリショタに対する妙な(性的)こだわりをみせたり、極めつけは主人公夫妻(旦那年齢15歳)子作り疑惑(のち確定)など、少年誌的にはグレーゾーンをこえたギリアウトな作風となっていましたので、今となっては「まぁ…しゃあないかな」と諦観の念を抱く次第でございます。

しかし、のち完全版が刊行され物語はきちんと完結してますし、最近では画展が東京、大阪で開催されたりとコアなファンが多い「ウケるひとにはウケる」作品です。
単行本では32巻、完全版27巻と少しボリュームのある感が否めませんが、興味ありましたら漫画喫茶等で一読してみてはいかがでしょうか。

新作アニメは来年4月。期待にむねをワクワクさせながら、なにより恐山ルヴォワール編を希求しながら、待て、続報!

ボルボラさん、yuyaさんの推薦漫画のリンクはこちら!


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