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【長編小説】 孤羊よ、創れ!

負け犬野郎(ハードコア・パンクス)、徒手空拳で自然農に歯向かう。

モノづくりへの愛とフラストレーションが詰まった、疾走する青春小説。

【ご注意】
本作品は購入者様ご自身でお楽しみいただくようお願い申し上げます。無断での転載や配布はご遠慮ください。

プロローグ


 指紋にしつこくこびりついた土埃は、いくら洗っても取れやしない。
 隣でハンドドライヤーに両手を当てているおっさんが、訝しげにこちらを仰ぎ見ている。
(ジロジロ見てんじゃねえよ、この野郎)
 僕は無言の圧力を視線の端に込めた。全身土まみれで悪かったな。
 濡れそぼった両手をつなぎのあちこちで拭い、頭から作業帽を引き剥がす。剃ったばかりの頭が痒くて仕方ない。ガシガシガシ。
 おっと、最初の商談開始まで二十分程度しか残っていないじゃないか。それほど余裕はないぞ。急がなくては。
 奥の個室に入って鍵を閉め、リュックのチャックを開ける。そして、もみくちゃに突っ込んだシワだらけのスーツジャケット、スラックス、ワイシャツ、セール品のガラクタじみた皮靴を取り出す。
 便座にそれらを置くと、一目散につなぎを脱いでパンツ一丁に。冷房の効き目が弱い個室内には、まとわりつくような真夏の熱気がこもっていた。
 靴下を替えて、スラックスに足を通し、それから新しいティーシャツ、もとい、戦闘服を着装する。今日のバンドティーシャツは、敬愛してやまないハードコアパンクバンド「Black Flag」のヴィンテージもの。太字のバンドロゴと中指を立てた手のイラストが描かれた、どこまでも挑発的で気合抜群の一枚だ。
 ワイシャツ越しに透けて見える危険性もなくはないが、厚手の綿素材だから多分問題ないだろう。
 よし、これで着替えは完了。最後はネクタイだ。ネクタイ、ネクタイ、ネクタイは、と……。あれ、もしかして忘れてきたのか? なんてこった、クソ! 
 あ、あった! 良かった。大丈夫、大丈夫。深呼吸しろ。落ち着け、落ち着け。
 さっき潤したばかりの喉が早くも乾いて、口内がまたもや粘ついている。水筒の麦茶をがぶりとやると、ほてった喉元と後頭部に冷たい衝撃が走った。
 それにしてもひどい暑さだ。このホテル、空調がぶっ壊れているんじゃないのか? 世のビジネスマンたちは、どうしてこんな日にジャケットなんか羽織っていられるのだろう。
 蓋を開けて便座に座り、耳のイヤホンを外す。疾走する怒りの音世界から一転、シンとしすぎて耳鳴りのする、味気ない現実世界へ。
 麦茶をもう一度口に含んでから、スマホを手にしてYouTubeアプリを開く。「ネクタイ 締め方」と検索して、適当に選んだ動画を再生。
 思えば、ネクタイを身につけるのなんて高校の時以来だ。あの頃は難なく締められていたのに、今では動画を視聴しながらでもなかなかうまくできない。こんなことなら畑を出る前に着替えてくるべきだった。
 
 よし、結び目がちょっと不格好な気もするけれど、これで体裁は整えられたはず。商談開始まで、あと十分弱。
 僕はリュックのなかから紙袋を取り出し、中身を念入りに確認していった。
(会場の見取り図、名刺、ショップカード、試食皿、プラスチックスプーン、ブルーベリージャム、メモ帳、ペン。水筒はサイドポケットへ)
 立ち上がって、つなぎがパンパンに詰まったリュックを背負い、ドアを開けて歩き出す。と、そこで、肝心要の紙袋を鞄掛けにかけたまま忘れていることに気がつく。
(ああ、駄目だ。俺、動揺しすぎだろ)
 気を取り直していざ出陣だ。 

 すまし顔のホテルマンが、軽く一礼してから重厚な趣の扉を開けた。
 目の前に広がる大きな空間を満たすのは、クーラーから放たれる生ぬるい弱風と、昔ながらの理容室を連想させる整髪料の匂い。視界を刺すシャンデリアの光に、条件反射でビビってしまう。
 会場にいるほぼ全員がクールビズだと分かって、慌ててジャケットを脱いで腕にかける。
 何十と並べられた長机には、社名と番号の記載された三角札が置かれ、スーツ姿の男たちが椅子に腰掛けていた。
 紙袋から見取り図を取り出して、最初の商談相手を確認する。三十三番の「(株)ルプスフーズ」か。ルプス、ルプス、ルプス。あった、あそこだ。
「平成二十六年度・函館市篤農加工品個別商談会、開始まであと五分です。ご参加の皆様は所定のテーブルまで移動してください」
 さっきのホテルマンがマイク片手にアナウンスを行った。いい加減、ここまできたら腹を括るしかない。

 僕は再び麦茶を呷ると、一思いに呼吸を止めて所定のテーブルへ向かった。
「はじめまして。ルプスフーズのオリバナです。今日はよろしくお願いいたします」
「あっ、はじめまして。青木ブルーベリー園の青木盤吾っす。よろしくお願いしゃす」
 こういう時、どんな二の句を継げばスマートさを演出できるのだろう。無理矢理口角を上げて、受け取った名刺をまじまじと見つめることしかできない。
(代表取締役って肩書き……、なんかすげえな)
 立ち上がった初老男性は想像以上に背が低く、僕の胸の位置に頭があった。少しだけ薄くなった頭髪をオールバックにセットし、手首には数珠に似た細身のブレスレットと、いかにも高級そうな金の腕時計。
 赤茶色の肌を包む糊の効いたワイシャツは、僕の着ているものと同じ白なのに、まるで別物に見えた。
 小ぶりな体躯に反して、覆いかぶさってくるような存在感を放っている。目はにんまりと笑っているにもかかわらず。これが修羅場をくぐり抜けてきた男の凄みってやつか。僕はふいに、図体ばかりでかくて中身の伴っていない己の小ささを恥じた。
「おかけください。じゃ、早速ですが説明をどうぞ」
 さっきまでの表面的な笑みは完全に消え去り、値踏みするようにこちらの一挙手一投足を観察している。その目つきは、大木の幹や枝にしつこく絡みつくアオノキを連想させた。
 僕はさりげなく喉仏を鳴らして、紙袋のなかから、瓶詰めのブルーベリージャムと、封に収められたプラスチックスプーンを取り出した。
 あらかじめ練習しておいたプレゼンをたどたどしくこなしながら、ジャムとスプーンを机の上に置く。
 手を伸ばしてスプーンを掴み、その封を開け、それから瓶の中身をすくって口に含んだ彼は、微塵も顔筋を動かすことなく、
「うん、とても美味しいと思います」
 と、確かにそう言った。
 よし、これならいける。あとは焦らず、だけど素早くリールを巻き取ってフィッシュオンだ。
 自分が栽培しているブルーベリーの特徴について前のめりになって説明していると、
「ちょっと待ってください。それより……」
 こちらの早口言葉を遮り、商品規格書を提示するよう要求してくる。
 慌てて紙袋のなかに手を突っ込み、瞬時に青ざめた。しまった……。よりによって、一番大切な書類を入れ忘れているじゃないか。
「あの、すんません。忘れてきちゃったみたいっす」
 小学生の頃、宿題を忘れて先生に怒られた時のことを思い出す。
 特に驚く様子もなく、手元のメモ用紙を一枚破いて、
「それじゃ、ここに下代と上代を記載してください。あとロット数も」と彼。
 僕は汗でベタつくペンを握りこんで、要求された情報を記載した。
 すると彼は、素早く受け取ったメモを一瞥してから再度ジャム瓶を手に取り、裏面に顔を近づけてしげしげと見つめ始めた。
 よしよし、きっと、あまりのクオリティーの高さに面食らっているに違いない。なにせ、伸び切って使い物にならなくなっていた五百株あまりのブルーベリーを一から剪定し直し、文字通り泥を啜りながら、三年以上もの年月をかけて結晶化させた渾身の自信作だ。一時は畑を手放しかけた父さんも、このジャムなら農園を立て直す立役者になってくれるはずだ、と太鼓判を押してくれた。母さんの三十年来の並々ならぬ思いだって、ギュウギュウに詰まっているんだ。どこへ出したって引く手数多に決まっている。
「いるんだよねえ。こういう売れないものを一生懸命つくっている生産者さんって」
 ラベルにプリントされたブルーベリーの版画調イラストを見つめたまま、彼は溜息混じりにそうつぶやいた。今のは聞き間違えか? 心臓がキュッと縮まった感じがした。
 そもそもブルーベリーは昔から供給過多で、特に最近は物余りが激しいこと、このクオリティに対してこの定価ではリピーターを獲得するのが明らかに困難なこと、ラベルを含め全体的なプレゼンテーションが弱く、こだわりポイントを明示できていないことなど、次から次へとダメ出しが繰り出される。
 早い話が、卸値を思いきり下げられるのなら取引を考えてやらんでもない、ということらしい。
 ぴったりと貼り付いてしまった上下の唇をこじ開けて、僕はなんとか喰らいつこうと踏ん張った。
「っとっすね、値段は、申し訳ないすけど下げられないっす」
 萎縮しっぱなしの闘魂を鼓舞して、崖下へ飛び降りるような心持ちで強気に出てみる。
「裏面の表示を見ると、ゲル化剤とか添加物は入っていないみたいだけど? 混ぜものを入れたら、それなりに安くできるんじゃないの?」
 うなじのあたりがカッと火照った。
「いや、あのっすね、原材料はブルーベリーと、必要最小限の砂糖だけにしたいんすよ。混ぜものを入れるなら、僕がつくる意味はなくなるんで」
「そうですか。それじゃ、今回は残念ですが」
 ふと彼の背後の壁に掛けられた時計を見ると、商談の終了予定時刻まで十五分以上も残っている。
 早々と破談の結論が出て、これほどまでに居心地の悪い雰囲気のなか、こんなにも長い時間、一体何を話せば良いのだろう。
 こちらが途方に暮れていることを素早く察知したらしい彼は、少し表情をほころばせて、
「退場しても大丈夫ですよ」
 嫌に優しく語りかけてきた。
 これ以上こいつとは話すことがないと、見切りをつけたに違いない。あの値踏みするようなおっかない目つきは、今やすっかり鳴りを潜めている。お眼鏡には叶わなかったというわけか。
 僕はジャム瓶とスプーンを紙袋に突っ込み、
「あざっしたぁ」
 浅く会釈すると、逃げるように会場を後にした。
 さっきのトイレへ駆け込み、再び個室にこもる。
(初めての商談で、見事なまでに鼻っ柱を折られる。残り三社との商談が憂鬱で仕方ない)
 紙袋から取り出したメモ帳に、分からないなりにも今の感情を書き留めてみる。
 続きを綴ろうとして、やっぱりやめた。胸中を埋め尽くすこの不快な「何か」が、悔しさによってもたらされたものなのか、情けなさによって発生させられたものなのか、全くもって判然としなかったからだ。

 結局、案の定とでもいうべきか、残り三社との商談も見事なまでの敗北を喫した。端にも棒にもかからない、とはまさにこのことだ。
(この数年間の苦労は一体なんだったんだ……)
 一刻も早く落ち着きを得たくて、会場からほど離れた人気のない廊下へ移動する。
 暗がりのなかで白蛍色の光を放っている自動販売機の前に立ち、スポーツドリンクを購入。水筒の中身は、ふたつめの商談が始まった時点で空っぽだった。今日は死ぬほど喉が渇く日だ。
 乾ききっていた喉を潤しても、動悸が落ち着く気配は全くない。首筋を伝う汗が、ワイシャツの襟にこれでもかと染み込んでいく。
 ペットボトルを思いきり握り込むと、一時は落ち着けることに成功したはずの自尊心が、突如として壮烈な火柱を上げた。
(アーッ、クソッ!)
 今更逆行した怒気を押さえつける間もなく、僕は鉄製の大きなゴミ箱に力任せの蹴りをお見舞いした。
 瞬間、親指のつま先に激痛が走る。思わず情けない声を発して、ペットボトルをそっと地面に置き、革靴と靴下をゆっくりと脱ぐ。爪に走った細く小さい亀裂から、真っ赤な血がぷくっとにじみ出ていた。
 今度は、まだ中身がなみなみ入ったペットボトルと、首からむしり取って丸めたネクタイを、憎たらしいゴミ箱の底めがけて叩きつける。
 目の前の壁に点々とこびりついたシミが、自分そのもののように思えた。


 壁に点々とこびりついたシミを目で追う。僕は漫画本がズラリと並べられた棚を横切ってドリンクバーへ向かった。軽くびっこを引きながら。
 氷水をコップに注いで、蜂の巣房のような個室のひとつに入る。
 見慣れた黒のリクライニングチェアにもたれかかり、痛いほどに冷たい水を、燃え盛るような疲労感に覆われた全身へ注入していく。
 今日は家に帰る気力までをも絞り尽くしてしまった。スーツを脱ぐ余力すら残っていない。
 絆創膏の内側で激しく脈打つ親指の爪。精魂尽き果てた気力とは裏腹に、この身体は、生存本能から与えられた「今すぐに負傷部を治癒せよ!」との指令を忠実に遂行しているらしかった。
 明日のアルバイトは、いつもよりやや早い十七時からのスタートか。さすがに日中の農作業はやめておこう。
 相変わらず財布のなかの手持ちは少ないけれど、こればかりは仕方がない。今夜はこのままここで寝てしまって、朝一番の電車で帰るとするか。これほどまで心身ともに消耗した一日は、たかだか二十数年あまりの人生といえど初めてだ。
 嗚呼、朝を迎えるのが憂鬱で仕方がない。明日なんて一生来なければ良いのに。
 僕は個室に備え付けられたヘッドホンを頭にかけ、PCの電源を入れた。ウェブブラウザを開いてYouTubeにアクセスし、いつも視聴している動画を再生する。
 そこには、瓶底眼鏡を版画板に目一杯近づけ、狂ったように彫刻刀を振るう棟方志功の変わりない姿があった。
 大人になった今でも、彼の版業に触れる度、僕の魂は、少年時代と全く変わらない熱量で打ち震える。そんな自分を確認するにつけ、本物の安心感を得ることができるのだ。
 それにしても、僕が志功みたく魂を存分に燃やすことのできる日は、一体いつになったらやってくるのだろう。願わくば全ての面倒事から逃れ、死ぬまで作品づくりに没頭したい。
(わだばゴッホになる。その宣言通り、志功は本当にゴッホになった。俺も叶うものならいつかは味わってみたい。彼らに何度となく訪れたであろう、聖なる創造の瞬間を)
 そんなことを考えながら、僕は今日一日の出来事を手帳に殴り書きすると、力尽きるようにして夢の世界へ旅立ったのだった。
 備え付けのヘッドホンを耳にかけたまま。革靴を足から引き剥がすことも忘れて。空腹に悶える胃の腑を満たすことすらしないうちに。

 今日もいつもと同じ夢を見たんだ。二年前、真冬のカナダで体験した、あの不思議な夜の出来事をそっくりそのまま繰り返す夢だ。
 その日、ひとりで飲んだくれた末に終電を逃した僕は、深夜のバスターミナルで冷えきったベンチに腰掛けていた。
 夜空からちらほらと舞い落ちてくる粉雪だけが、侘しい夜に遠慮気味な優しさを添えていた。
 だだっ広いターミナル内には、床を清掃している眠たげな女性職員と、世捨て人そのもののホームレスと、僕の三人しかいない。
 氷点下二十度の気温に気圧されて、鼻先と頬の感覚は先刻からすでになくなっていた。肺の隅々まで入り込んでくる悪魔みたいな冷気は、全力で僕の命を奪い取ろうとしていた。
 幸い、分厚い壁とドアで密閉された室内には寒風が入ってこないから、外よりは幾分かマシなものの、バスが到着する前に凍死してしまいそうだった。
 彼方から、トラックのそれとおぼしき低いエンジン音が聞こえてくる。
(俺のクソ人生なんて、もうどうにでもなりやがれ)
 ダウンジャケットのポケットに手を突っ込んで、CDショップで買ったばかりのアルバムのケースを取り出す。それからブックレットを開き、ほとんど理解できない英詞を斜め読みしてみる。
 なんとなく、ため息ついでに窓の外の夜空を見上げてみると、名前も知らぬ一等星が爛々と輝いていた。
 そのまま視線を下げた僕は、口のなかで小さな舌打ちを鳴らした。さっきまでは遠くのベンチに座っていたホームレスの男が、こちらを見つめたまま、ヨタヨタと近づいてくるではないか。
(ったく。俺が恵んでほしいくらいだよ)
 CDケースをポケットにしまい直し、目を合わさないよう黙ってうつむいていると、案の定、そいつは僕の目の前までやってきて、ハタと立ち止まった。酸っぱい匂いが鼻孔を突いてくる。
 あいにく小銭は持っていないよ。そう告げようと思って顔を上げると、そいつはホームレスにしては珍しく、欧米人の青年だった。
 歳の頃は、きっと僕よりも少し上くらいだろう。顔の下半分が茶色い髭に覆われているせいで表情はほとんど読み取れないものの、吸い込まれそうなほどに青い瞳をしている。それは、誰ひとりとして立ち入ったことのない、山奥の滔々とした湖を連想させた。
「Did you know pal? You can be anything you want.(知ってたかい? 人はなんにでもなれるんだぜ)」
 彼は静かにそう言った。とても誠実な口調で、はっきりと。
 僕は呆気にとられてしまった。僕のことを知り合いか何かと勘違いしているのだろうか? いや、どうもそんな様子ではなさそうだ。
「嘘じゃないって。スポーツ選手にでも、宇宙飛行士にでも、なんなら大統領にだってなれるんだぜ。なれないものなんて、何ひとつないんだ」
 全くもって予想だにしていなかった台詞を投げかけられたものだから、返す言葉がひとつも浮かんでこなかった。
「さてはお前、疑ってるな? 無理もないけど、本当なんだって。誰もなったことのないものにだって、お前次第でなれるんだよ。俺だって今はホームレスなんかに身をやつしちまったけど、まだまだこれからさ」
 踵を返し、窓の外の夜空に顔を向ける男。
「それにしても寒いな」
 そうぼやき、ドアを開けて出て行ってしまう。一体なんだったんだ、今のは……。
 勢いの強まった寒風にたなびく彼のコートが、遠くの闇夜と徐々に同化していく。僕はその後ろ姿を、磁石に引き付けられた鉄屑のごとくいつまでも見送った。
(誰もなったことのないもの……)
 あの日、あの瞬間、僕は確かに、ホームレスの姿を借りた「何者か」に語りかけられたんだ。
 自己否定の嵐が吹きすさぶ混乱の日々のなかで、彼の口から放たれた言霊は、灰色の人生を照らす一筋の光明だったのかもしれない。
 そう、その時、間違いなく、僕は人智を超えた何かに語りかけられたんだ。 
 
 この無機質な空間には、人智を超えた何かが舞い降りてくる余地なんてこれっぽっちも残されちゃいない。深夜帯のギフトショップは、大小様々な無機物が整然と並べられた、ただの四角い箱だ。
 スーパーマーケットだって、ドラッグストアだって、ホームセンターだって、誰もいなくなれば、同じようなただの箱。
 僕は商品棚の最上部に並べられたバルサミコ酢ドレッシングを裏返し、食品表示をバーコードリーダーでピッと読み取った。
 腰にぶら下げたティッシュ箱大の端末の「3」ボタンを中指で押して、小指でエンターキーを叩く。
 ふと、制服の胸ポケットで携帯が小刻みに振動した。周囲に他のアルバイトスタッフがいないか確認し、そっとしゃがんで、先日インストールしてみたラインアプリを開く。
 今日の午前中、ブルーベリー狩りをしに来てくれた親子連れのお母さんからメッセージが届いている。畑をバックに三人で撮影した記念写真も添付してあった。
 彼女が身にまとっている、様々な色や模様の布をつなぎ合わせた個性的なワンピースは、一体どこで買ったものなんだろう。写真には、ワンピースの裾と彼女の息子の長髪が風に優しくたなびいている瞬間が、しっかりと捉えられていた。
「今日はとても楽しかったです。ありがとうございました。そのうち作業のお手伝いをしに行ってもいいですか?」
 とのメッセージに、僕はすかさず
「もちろんっす♪」
 と返した。
「青木! 仕事中に携帯いじるな!」
 背後でチーフの怒鳴り声が響く。
「次やったら今度こそ上に報告するわよ!」
 でかい図体を小さく縮こませる僕。草葉の陰でアオダイショウが通り過ぎるのをじっと待つ、ちっぽけなアマガエルになった気分だ。
 首をすくめたまま立ち上がり、二段目のカウントに。
 ラ・フランスのジャム、個数は十個、エンター。
 函館ジャム工房のりんごジャム、個数は五個、エンター。
 Tomatito Tomato Jam、個数は三個、エンター。
 グリデール・マーマレード、個数は三個、エンター。
 Little Forest Milk Jam、個数は八個、エンター。
 まごころイチゴジャム、個数は二個、エンター。
 まごころキウイジャム、個数は九個、エンター。
 まごころブルーベリージャム、個数は二個、エンター。
 まごころジャムシリーズのラベル裏面には、「販売者:ルプスフーズ」と記載されていた。奇しくも、昨日の商談会で見事なまでに鼻っ柱を折られた、あの社長の会社じゃないか。
 考えるまでもなく、この商品棚を獲得した各ブランドは、熾烈な競争を勝ち抜いた猛者たちだ。だからもちろんのこと、彼らの商品を頭ごなしに否定するようなことはしない。というかそんなこと、できるわけがない。
 だけど、僕ならもっとやれるはずなんだ。もっと凄いものを創れる。その確信があるんだ。にもかかわらず、深夜バイトにすがりつく他ない自らの現在地が、どこまでも歯がゆくて情けない。
(周回遅れも甚だしいな。何をどう頑張ったって、彼らに追いつくことなんか不可能さ)
(お前は、まだ自分が若いという事実に甘んじているだけだよ。大仰な夢を見ていられるのもせいぜい二十代のうちだぞ)
 ひと思いに息を止めて、残りの商品のカウントを一気に済ませる。
 
 ふぅ、ようやく今日のシフトが折り返し地点に到達した。やっとのことでたどり着いた、オアシスみたいな十五分間だ。
 休憩室のドアを開け、端っこのパイプ椅子に座る。タバコの煙と、汗と、入り混じった男女の体臭と、侘しいコンビニ弁当やカップ麺の匂いが、一刻も早く帰宅したい思いに拍車をかけた。
 売り場が綺麗にしつらえられたギフトボックスなら、休憩室は体裁なんてお構いなしの薄汚れた飼育箱だ。
 僕たち現代人の人生なんて、学校とか、職場とか、家とか、大小様々な箱を行ったり来たりして終わっていくだけの、取るに足らないものなんだろう。
 チーフを含めた女性スタッフ陣は、給湯室を挟んだ喫煙スペースに居座り、いつものごとく古参社員のおじさんの悪口を言い合って盛り上がっている。
 こちらまで筒抜けで響いてくるペリカンみたいな笑い声を背に、僕はリュックからメモ帳を取り出し、新たな栽培品目についてのブレインストーミングを開始した。
 ブルーベリーと収穫期がかぶらなくて、広い栽培面積を必要とせず、なおかつ加工品にできるものといえば……。
 例えばトマトはどうだろう? いや、収穫期が思いきりかぶるから駄目だ。
 ラズベリーの二期なり品種なら、秋にも収穫できるはず。だけど、露地栽培だと雨で実がカビてしまうから、ハウスは必要不可欠だろう。今のところ、新しい設備を導入できるだけの資金的余裕は到底ない。これもダメ。
 それなら枝豆なんかはどうだろう? ずんだペーストをつくって商品化してみるとか? でも枝豆は結構な作付け面積で植えないと利益なんて出ないだろうから、徒労に終わってしまいそうだな。
 すぐに考えが煮詰まった僕は、パイプ椅子の背もたれに体重を預け、天井を見上げた。所在ない雨漏りの痕が、どことなく知らない土地の地図のように見えてくる。
 あ、そうだ。いっそのこと旅にでも出てみるか。自分の頭であれこれ考えたところで、堂々巡りを繰り返すのは目に見えている。ネットや本を見てみても、得られるのは通り一辺倒な情報ばかりだし。
「それより青木なんだけど、あいつまた仕事中に携帯いじっててさー」
「またですかー? ったく、作業のペースも遅いしよ。マジで使い物になんないすね」
「ねー。それに、何考えてるのか全然分かんないですよね。入ってきた頃、気ぃ効かせて何回か飲みに誘ってやったのに、『酒は飲まない主義なんで』の一点張り。タバコも吸わないし、女っ気もまるでないし。何が楽しくて生きてんだか」
「あとあいつこないだ言ってたんだけど、なんかカフェインを一切摂取したくないとかで、コーヒーも飲まないんだって。エナジードリンクも飲まないし、さらには緑茶とか紅茶まで。マジでこだわりが謎すぎるわ。アハハ……」
 普段なら、僕は駐車場に停められた社用車のなかで休憩を取っている。だから、悪口を言っている当の本人がすぐそばにいることに、彼女たちは気がついていないのだろう。
(ストレートエッジは、ハードコアミュージックの浸透していない日本だと変人扱いされる、と。自分の悪口を直接耳にしてしまって、とても嫌な気持ちになった、と)
 胸ポケットからペンとメモ帳を取り出し、特に印象的だったセリフと、心に湧いた感情の姿を素早く書き出す。
 それから僕は、充電器にセットしておいたリーダーを取り上げ、体裁だけ整えられたギフトボックスへ、しょんぼりとした足取りで戻ったのだった。
 早くも、頭のなかは旅の予定でいっぱいになっていた。

第一章:探求

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