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「ほんとうのさいわいは一体何だろう」

夜の散歩が好きだ。それも雨上がりの晴れた夜がいい。空には満天の星。水たまりに反射する街の灯り。
白、黄、赤、青。
宝石箱をぶちまけたような色の洪水。

そこには宮沢賢治の世界が広がる。

銀河鉄道の夜は色にあふれている。
一章の午后の授業の中だけでも、「ぼんやりと白いもの」「どぎまぎしてまっ赤に」「まっ黒な頁」「ちょうど水が深いほど青く」4色。読み進めていくと明らかな色の描写だけではなく、色を思わせる描写も多い。そうだ世界はこんなにも色があふれているじゃないか。当たり前だけど、見ようとしていなかったものに気がつく。

今回、キナリ読書フェスに参加するにあたって3社の「銀河鉄道の夜」の文庫本を読んだ。新潮文庫、角川文庫、集英社文庫だ。新潮文庫の「銀河鉄道の夜」は何度も読み直し、手擦れでそろそろカバーが破れそうだ。天沢退二郎さん選書でとてもバランスがいい。

今回指定図書にもなっている角川文庫は、はじめて読んだ。読み終わった後に襲ったのはなんとも言えない重苦しい疲れだった。同じ「銀河鉄道の夜」でこうも読了感が変わるのはなんなんだろうと考えた。結果、思いついたのは「死」の色の濃さなのかと。角川文庫は解説で河合隼雄さんも触れているが「星」つながりの短編を集めた。結果、読後感は重苦しく、絶望的な気持ちする抱いてしまった。


同じ作書、同じタイトルでも選書によって印象が変わるのは面白い。個人的には新潮社文庫が選書のバランス、収録数、お値段を総合的にみると「お得」だ。カバーイラストも素敵でおすすめだ。(「新編・銀河鉄道の夜」2020のプレミアムカバーになっているので要注意ではある。)


宮沢賢治が生まれ育った岩手のことはあまり詳しくはない。ただ、決して恵まれた土地ではないことは知識として知っている。
火山に飢饉に冷害。「イーハトーブ」という理想郷を作り上げ、宮沢賢治の紡ぎ出した童話の中に描いたことは基礎知識程度には知っているが、じゃあ宮沢賢治の描いた童話の世界は希望にあふれ、豊かな土地で皆が幸せに暮らしているかというとそうでもない。火山に苦しみ、冬の厳しい寒さに命をとられ、理不尽に苦しむ姿がある。理想郷であっても、綺麗事ではない。


イーハトーブのことを思うと浮かび上がる作品がある。上橋菜穂子さんの「守り人」シリーズの2作目「闇の守り人」だ。主人公バルサは女だてらに用心棒をしている。故郷に戻ってきたところからこの物語ははじまるのだが、この故郷というのが、どうにもイーハトーブ、岩手に似ているように思えるのだ。


さて、「銀河鉄道の夜」の話をしよう。
何度読んでも、難解な物語だ。今までは読んで読みっぱなし。不思議で面白い話だが、感想にはできんとほったらかしておいたが、どうや感想という形にする時がきたようだ。

どんだけ書いてもいいし、書かなくてもいい感想文だが、好き勝手に書いてしまうと、収拾がつかなくなるので、3つのポイントで書いてみようと思う。

「らっこの上着」の意味

ジョバンニが何かとからかわれる「らっこの上着」が何を意味するのだろうか。子供の頃に読んだときはただの冷やかしだろうと思っていたが、どうやら違うようだ。
なんでそう思ったか。
まず、ジョバンニのお父さんが漁師であること。お母さんは

「漁に出ていないかもしれない」(角川文庫p157)

と拿捕の可能性を示している。違法行為すれすれの漁をしている可能性が考えられるわけで、当たれば大金が手に入る。息子のために、高級品であるらっこの上着が買えるし、学校に寄贈できるようなものを手にして帰ってくる。一方で、捕まればただの犯罪者だ。

かつて住んだ漁業が盛んな町に住んでいたことがある。その町ではスーツのサラリーマンなど見向きもされない。地声がでかくて豪胆な漁師さんだ。荒波にもまれた話はリアルで、冒険談。多少話は盛っているだろうが、今ここにいるということは無事生還したわけで、それだけで英雄。毛玉のついたスウェットに、なんなら足元は便所サンダル。禿頭もしくは角刈りで、おしゃれでもないし、垢抜けてもいないが、腹巻から帯付きの札束が出てきた日にはホステスさんの歓声が響く。そんな話をサラリーマンの父は話してくれた。

ジョバンニのお父さんがそうだとは言わないが、似たようなものはあるんじゃないだろうか。「蟹の甲羅」や「となかいの角」を寄贈する父のこと、自分より年上であろう六年生の授業で使われることを誇らしげに思う気持ち。ジョバンニが母に語る言葉に誇らしさとともに自慢げなものを感じる。それはきっと同級生を前にしても滲み出ていたのだろう。

ザネリは「らっこの上着」が意味するものはおそらくわかっていない。
だけど、ザネリの親はジョバンニの父のことを面白く思っていないのではないだろうか。やっかみ半分で「らっこの上着」という言葉だけがザネリに聞こえように話しているのではと察する。親の話口調やそぶりでそれが嫌味以上のジョバンニを傷つけることは伝わっている。もしくは日頃のジョバンニの口ぶりに鼻持ちならないやつぐらいの感情は抱いているかもしれない。そうなると「らっこの上着」は冷やかしではなく、むしろ「揶揄」に近いものに変わるんじゃないだろうか。


「子ども」の終わり

そうはいってもジョバンニは健気な少年だ。父は漁に出て不在、母は体が弱く伏せ気味だ。家計を支えるために、朝は新聞配達、学校が終わったら活字を拾う。もらった給金でパンを買い、料理こそできなさそうだが、食べたお皿は自分で洗うし、届いていない牛乳に気がつき、受け取りに行くとまで口にする。

この年頃の自分をを振り返れば、朝は家族に起こしてもらうし、おやつは買い置きがあるし、ご飯は母が作ってくれるのが当たり前だ。勤労意欲などこれっぽっちもなく、頭の中にあるのは遊ぶことと食べること。子どもであることを目一杯楽しんでいた。それが当たり前だと思っていたし、今でもどこかで当たり前だと思っている。

だからジョバンニに伝えたいことがある

ご飯を食べて、風呂に入って、寝ろ。
大事なことだから、2回言う。
ご飯を食べて、風呂に入って、寝ろ。
君は働きすぎだ。

人間、疲れているとろくなことをしないし、ろくことを考えない。例えば、朝8時に出勤し、翌朝5時に退勤し、シャワーを浴びて仮眠をとって、また、出勤。そういう生活を繰り返すと些細なことに苛立つし、覚えていたはずのものが思い出せないし、言いたいこともうまく言えなくなる。君はまさにそういう状態になっている。子どもでいられる期間に目一杯遊んで、笑って、喧嘩して、仲直りするのがいいんだ。泣いて、悔しさを感じて、苦しんでそうやってゆっくり大人になればいいんだよ。急いで大人になる必要なんてないんだよ。

ふとした瞬間にジョバンニは少年らしさを発揮する。

(ぼくは立派な機関車だ。ここは勾配だから速いぞ。ぼくはいまその電燈を通り越す。そうら、こんどはぼくの影法師はコンパスだ。あんなにくるっとまわって、前の方へ来た)(角川文庫160p)

一人遊びをするジョバンニ。一人遊びは女の子より男の子のほうが可愛げがある。男の子はいつも見えない何かと闘っていたり、機関車になってみたり。とても、自由な発想を持っている。銀河鉄道の夜がジョバンニとカムパネルラという二人の男の子の旅で、すごくしっくりくるのはそういうことなのかもしれない。子どもだけでどこかへ行く。それは誰にとってもワクワクするし、冒険心をくすぐるものだ。兄弟ではなく、友達とあれば、なおさらドキドキもワクワクもする。なんならちょっとはしゃいだ気持ちになる。

「ぼく、飛び降りて、あいつをとって、また飛び乗ってみせようか。」(角川文庫172p)


ジョバンニのはしゃいだ気持ちが現れている。心の中では親友と思っていたカムパネルラがジョバンニの忙しさが主な理由とは言え、学校ではザネリのグループにくっついている事実。気を遣われていることに、胸がチクチクする。だけど、今、こうやってカムパネルラと一緒に鉄道に乗ってどこかへ向かおうとしている。カムパネルラの親友は僕なんだと確信めいた気持ちを持ち、かっこつけようとする。かわいいところがあるじゃないか。

「ああ、ではわたくしどもは失礼いたします。」(角川文庫180p)

そうかと思えば急に大人びた態度をとることもある。ここにジョバンニの少年期の終わりを感じてしまうのだ。旅の序盤はカムパネルラもジョバンニも少年らしさを隠そうともしない。行きたいところに行き、理屈にあわないものは「おかしいね」という。そういう率直さを持ち合わせている。だけど、どこかでその率直さが失礼なのではないかと気になりだす。

「僕はあの人が邪魔なような気がしたんだ。だから僕はたいへんつらい。」(角川文庫193p)

赤ひげの人と、鳥捕りの人が相乗りしたあたりから、ジョバンニの心が揺れてくる。少年のような無邪気さより、大人に対する警戒心めいたものが強くなる。実際、鳥捕りは物分かりのいい大人を装っているが、胡散臭さを感じる。鳥捕りという商売もなんだかよくわからないし、答えもケムに巻かれたような気分になる。カムパネルラとどこまでも行くんだ。序盤でははりきっているジョバンニだが、どこまでも行けることは難しいんじゃないかとうすうす気がつきはじめている。

「銀河鉄道の夜」は子どもの終わりの物語なんじゃないかと、読み直して改めて思った。じゃあ子どもの終わりっていつなんだろうって考えたら、仲の良い友人との別れが見えた時なんじゃないだろうか。物理的な別れだけではなく、進む道が別れた時、もどかしさを感じる。だけど、自分ではどうにもできない苦しさ、別れがくる瞬間に襲われる寂しさ。もしくは置いてけぼりをくったような悲しさ。それを受け入れて乗り越えるか、溺れるか、あとはジョバンニ次第だ。きっとジョバンニは受け入れて、乗り越えられる。


「ほんとうのさいわいは一体何だろう」

カムパネルラは旅のはじめではこんなんことを言っている。

「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。」(角川文庫173p)

カムパネルラは一貫して「わからない」と言っているんだ。私だってわかりゃしない。

先ほど触れた「闇の守り人」にこんな一文がある。

「自分の命さえあぶない、恐ろしい仕事だったのに、チャグムを守っているあいだ、わたしは幸せだったんです。‥‥‥ほんとうに、幸せだった」(新潮文庫p118)

過酷な仕事に「幸せ」を感じたのは事実。
幸せ、さいわいというのは「瞬間的」なんじゃないんだろうか。

もしくは、温泉に入り、体がほぐれた瞬間に「あー、しあわせー」と声が出る瞬間がある。それだって幸せで、そういう瞬間を積み重ねていくことが「ほんとうのさいわい」に近づくんじゃないかと思ってみる。

一方で、お金があれば、家族がいれば、子どもがいれば、車があれば…。どれもさいわいだろうし、さいわいではないだろう。

ある人にとっては「さいわい」であっても、他の人にとっても「さいわい」でないかもしれない。立場が変われば「さいわい」の基準だって変わるだろう。
なんでこんな答えのでないものを考えなくてはならないんだ。と、若干、腹立たしさめいた感情すらこみあげてくる。

そして、この感情は記憶にある。かつて大学生だった頃、私は授業で今でいうLGBTQや亡命者を主題にした短編を読んで議論するという状況に置かれた。当事者ではないものが、語るナンセンスさを思いながら渋々とその状況をこなしていた。そんな時に詩人で比較文学者で翻訳をされている管啓次郎さんの講演を聞く機会があった。そして、講演後の質疑応答で私は管さんにこんな質問をした。

「当事者ではないものがそれを考えることに意味があるのか」

管さんはこう答えてくれた。「基本的には人間、一人の人間というよりも一人がどのどんいろんな形に変化していくほうに興味があるし、一人ではなくてその一人の人間と見えてるものの背後に百人ぐらいのその人がいるっていそういうイメージのほうがずっと生産的だとそれこそ思うんで、当事者でない人が当事者のことを考え、それについて何かを語ることは多いにやろうじゃないか」

意味合いはちょっと異なるけれど、「わからない」ことをわからないなりに考えて、こういうことじゃないか、ああいうことじゃないか。そうやって語ることに意味はあるし、そうやって人それぞれに「ほんとうのさいわい」を見出して、それにむかって歩ける未来であるし、ありたいと思う。

こんなご時世だから今は、命があって、食べることに困らず、暖かい部屋でこうして感想文を書くことができ、働く場所があることをさいわいとしたい。


今回、このような読書フェスを開催してくれた岸田奈美さんに心から感謝申し上げます。
開催のお知らせを目にした時から、今これを書き終えるまで、こんなにもワクワクとして、うんうんと苦しみながら過ごした時間全部が楽しかったです。


#キナリ読書フェス

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