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「失われた30年」生まれの僕が「天気の子」の雨空に想うこと

天気ってとても不思議です。からっとした青空の広がる初夏の朝には自然と心も晴れますし、逆にじめっと蒸し暑い雨の日が続いたりすると、わけもなくムズムズイライラしたりします。私たちの心と天気はつながっているのです。
また、天気は僕たちの心身の状態を左右するだけでなく、ときとして生活の根本、生命維持にすら影響を及ぼします。冷夏で米や野菜が採れなくなったり、豪雨で河川が決壊してたくさんの家や逃げ遅れた人びとを呑み込んでしまったり、ということが起こり得ます。特にここ数年は西日本を中心に豪雨による大規模災害が頻発しており、毎年多くの人が被害に遭われていますよね。江戸時代末期の幕府の衰退は、天候不順による農民の困窮と社会の不安定化が原因だったともいわれています。天気=天候は、歴史の流れすら変えてしまうのです。

新海監督最新作「天気の子」はそんなもっとも身近でもっとも不思議な自然現象をテーマに、令和の時代にふさわしい、懐かしくて新しい「ボーイミーツガール」をみずみずしく描き出しています。「君の名は。」の次の作品ということで、鑑賞前のハードルは限界まで上がっていたのですが、それをゆうに超えてくるすばらしさでした。前作に引き続き、新海監督の作家性を極限まで生かしつつ、「いま、若者に向けてなにを伝えたいか」という現代社会にたいする問題意識に自覚的な、時事性あふれる作品にもなっています。なにより僕は「天気の子」は平成が終わり、令和を迎えた今、公開されたのが必然の映画だと考えています。なぜなら、天候の調和が狂い、雨が振り続ける東京は、まさしく帆高くんと僕たち若者が生きる日本の姿そのものであり、そんな世界の未来に向き合う僕たちの背中を強く押す物語だからです。どうして僕がそう感じ取ったのか?について、これから述べていくことにしましょう。


「天気の子」の話に入るまえに、ここで新海監督の前作「君の名は。」についてすこし触れておきましょう。くわしい感想は前のノートを読んでいただきたいのですが、僕はこの映画を「想像力と、忘却への抵抗」の物語であると考えています。何百世代も前から繰り返されてきた大災害の悲劇と、時空を超えた瀧くんと三葉ちゃんの出会い。ふたつの運命が「黄昏時」を境に交わり合い、ふたたび「忘却」の彼方へと引き離されそうなとき、それでも「忘れちゃいけない人」「忘れちゃいけないこと」のために、運命の因果に立ち向かおうとする二人の姿に、震災を経験した人びとの切実な祈りと、刹那の輝きへの強い願いが込められていました。

また、「君の名は。」において、糸守の住民を救うことは、そのまま瀧くんが三葉ちゃんを取り戻すことに繋がります。それはふたつのあいだに「忘却への抵抗」という結節点があるからです。この物語には「僕」=「想像力」と「忘却」=「糸守の消滅」=「三葉ちゃんの死」の対立があります。この軸を下敷きにして「君の名は。」では、時空を超えた入れ替わりや、ティアマト彗星の落下(=大震災)、古代から継承される神事とヒロインの持つ特殊な能力といったファンタジー要素が展開されているのです。


「天気の子」においても、未曾有の天候不順(=豪雨災害)や、「100%の晴れ女」としての能力と引き換えに天空の世界に連れ去られる「天気の巫女」の設定、そして世界の運命をかけたヒロイン救出劇など、類似する要素が多数見受けられます。僕も初見時はこの重複が商業主義的な制約に感じられて、少々ノイズになっていたのですが、2回目以降の鑑賞で、改めてこれらのファンタジー描写が「君の名は。」とはまったく異なる土台の上に成り立っていることに気づき、作品の評価が180度変わりました。その土台とは「ちいさな幸せの肯定」と「世界の運命からの解放」です。以下、このふたつの要素について、あらすじをたどりながら詳しく考えていきましょう。

舞台は異常気象により何週間も雨が降り続く東京。主人公である16歳の高校生・帆高くんは、離島からフェリーに乗って東京へやってきた家出少年です。東京まで来たとはいいものの、仕事も家も見つからず居場所のない彼は、フェリーで出会った男・須賀さんの紹介で、彼と彼の姪・夏美さんのもと怪しげなオカルト雑誌のライターとして住み込みで働くことになります。一方、帆高くんはとあるトラブルをきっかけに天気を自由に操る少女・陽菜さんと出会います。彼女は1年前に母親を亡くし、自分で生活費を稼いで小学生の弟・凪と暮らしていました。帆高くんと陽菜さんは生活の足しになればと「晴れ女バイト」を始めます。ふたりのビジネスは話題を呼び、依頼が殺到しますが、それに反して陽菜さんの体には異変が生じていました…。

帆高くんと陽菜さんには居場所がありません。帆高くんは地元の神津島が息苦しくて、身ひとつで東京にやって来ました。家出の理由はあえて描かれていませんが、フェリーの場面で顔が絆創膏だらけなところを見るに、家庭で何かしらの問題を抱えていたのかもしれません。また、陽菜さんは15歳にして両親を失い、凪と一緒に暮らすために年齢を偽ってバイトで生計を立てています。

しかも、帆高くんは家出少年、陽菜さんは法を破って一人(正確にはふたり)暮らしですから、体制の側から見れば「正しくない」選択をした、社会のルールからはみ出した人たちなんですね。そんな帆高くんと陽菜さんは歌舞伎町の路地で出会い、「ビジネスパートナー」として交流を深め、やがては沈み行く東京で身を寄せ合って逃げまわる関係になっていきます。不安定な足場の上で必死に踏ん張っているふたりだからこそ、互いに心通わせ、ずっと一緒にいたいって想い合えるようになったのでしょう。居場所のない3人が雨宿りの場として隠れるのがラブホテルなのは、彼らのしあわせが嘘で支えられた脆く儚いものであることを否応なしに突きつけてきて、非常に切ないですね(ちなみにこの場面は是枝裕和監督の「万引き家族」を彷彿とさせるという声をちらほら耳にしますが、僕は「ジョセと虎と魚たち」の貝殻のベッドを思い出しました)。
中盤以降、子どもたちを「普通の生活」に戻そうと躍起になる大人たち=高井刑事と安井刑事が登場しますが、彼らは徹底して「邪魔者」として描かれています。この「子ども」対「大人」の対立は本作において重要な軸になっており、最初から最後まで「子ども」側の目線から描くことで、新海監督は彼らの「ちいさな幸せ」を肯定しているのです。多数派から見ればインモラルな選択をする、居場所がない人たちのささやかな喜びに寄り添うこのまなざしは、「世界の運命からの解放」というもう一つのテーマにも大いに絡んでくることになるのですが、くわしくは記事の後半で触れることにしましょう。

「万引き家族」的連帯に生きる帆高くんと陽菜さん(そして凪先輩)の背後にはつねに「社会からの孤立」と「貧困」がつきまとっています。彼らにとって「贅沢」は空腹時のビッグマックであり、お腹いっぱいインスタントの焼きそばとからあげクンを食べることです。ポテチをちりばめたチャーハンとチキンラーメンのスープはりっぱなおもてなしの料理になります。「君の名は。」で三葉ちゃん in 瀧くんがパンケーキ三昧だったことを考えると、生活の質自体に大きな差があります。思い返せば、瀧くんは父子世帯とはいえ都心に住んできちんと高校に通っていますし、三葉ちゃんは町長の娘で、大きなお屋敷に住む地域のお嬢さま的存在でした。しかし、それはもう2019年のリアルではなく、主たる観客である若者にとって身近な話ではなくなっているのではないか、とも言えるでしょう。都心のカフェを巡ったり、六本木ヒルズのアート展でデートをするよりも、西武新宿のマクドナルドで夜を明かしたり、ラブホテルのカラオケですきな歌をうたう方がよっぽど共感を呼ぶのかもしれません。この3年間で、それだけ日本社会の閉そく感が強くなっていることでもあります。「天気の子」ではこうした日本のリアルを、少々極端ではありますが、ふたりの「お尋ね者」に仮託しているのだと思います。

そして、こうした少年少女の置かれた状況から浮かび上がる日本の現状や閉そく感を、もっとも端的かつダイナミックに表現しているのが「天気」なのです。僕は「帆高くん ⇔ 雨空の天気」の関係は、そのまま「僕たち観客 ⇔ 失われた30年」のそれに呼応していると考えています。さらにこのモチーフが本作のテーマである「ちいさな幸せの肯定」と「世界の運命からの解放」につながっていきます。

思い返せば、帆高くんが東京にやってくる前から、ずっと長雨が続いていました。陽菜さんも「こっちに来てからずっと雨だねえ」とつぶやいていた通り、帆高くんは天気の調和がとれた東京の空を知りません。彼の見る青空は、すべて陽菜さんが生命と引き換えに見せてくれた、彼女の犠牲の成果です。帆高くんの来京からはじまる「天気の子」の物語において、天候の狂った世界こそが「正常」であり、逆に青空は「異常」であるとも考えられます。彼は東京へ向かうフェリーの甲板の上で雨粒を浴びて喜んでいましたから、そもそも雨が好きなのかもしれません。一方、大人たちは降り止まない雨を憂います。間宮夫人(=須賀さんの義母)は、雨空を眺めて「いまどきの子どもは可愛そうね」とぼやいていましたし、娘に喘息の持病がある須賀さんは陽菜さんのお祈りの成果を大いに喜んでいました。

この「雨空しか知らない子ども」と「空の青さを知る大人」の対立が極限まで先鋭化し、カタストロフを迎えるのが、線路の上を走り、廃ビルで警察官を振り切って天空の世界を目指す、帆高くんによる陽菜さん救出劇です。池袋のラブホテルでしあわせなひとときを過ごした帆高くんは、陽菜さんに誕生日プレゼントの指輪を渡します。彼はこのとき、ずっと陽菜さんと凪先輩の3人で暮らすことを願っていました。しかし、無情にもその想いは裏切られます。「天気の巫女」として晴れを祈り続けていたことが祟って、陽菜さんは人柱として遠い入道雲の上に連れ去られてしまったのです。空から降ったきた指輪を拾った帆高くんはすべてを悟ります。そして、彼を捕まえに来た警察の制止を振り切り、ふたたび陽菜さんに会うため、天空の世界を目指すのです。ここでもうはっきりしているのが、陽菜さんは世界に調和をもたらすために犠牲になったのであり、彼女を救うことはすなわち雨によって東京を滅ぼす、ということです。大人たちは「ひとりの犠牲ですべてが元通りになるなら」と、世界の秩序に従うことを選択するのでしょうが、帆高くんははっきりとそれにNOを突きつけます。「仕方ないから」と弱き者に諦めや不幸を押し付け、最大多数の幸福を追求するような「正義」に真っ向から勝負を挑むのです。彼にとって、もはや世界がどうなろうが関係ありません。ただ陽菜さんと一緒にいたいという想いがあるだけです。そのために彼は遠い空の向こう=彼岸まで、人生のすべてを捨てる覚悟で飛び込んだのです。ここにおいて好きな女の子と一緒にいたいという、多数から見れば「ちいさな幸せ」が肯定され、帆高くんと陽菜さんは「世界の運命」から開放されます。「天気なんて狂ったままでいんだ」という彼の叫びが、この映画のぜんぶがあります。

僕はいま24歳ですが、16歳である主人公の帆高くんを含め、平成に生まれた僕たち「若者」世代はずっと「失われた30年」を生きてきました。物心付く前にバブルは崩壊し、とっくの昔に最盛期を終えてしまった世界しか知らないのです。しかも、長引く不景気とか、少子高齢化だの、暗い話ばかりで未来に希望も持てません。僕たちは雨空の日本しか知らないのに、おじさんおばさんたちは「あのときは楽しかった」なんて思い出話に花を咲かせて、「青空を知らない今の子どもたちは可愛そうだ」と憐れみます。僕たちの知る世界はそんなに狂っているのだろうか、本当に未来は楽しくないのだろうか。僕はずっとそういう気持ちを抱えて生きてきたのですが、「天気の子」はそんなモヤモヤした心にすっと入り込んでくる力がありました。もう、青空か雨空かなんて関係ない。陽菜さんが「天気の巫女」である必要もありません。役割があるから存在する価値があるのではなく、ただ存在することに価値があり、あなたがいる世界にこそ意味があるのだということ。そして、大事なのは僕が彼女の「大丈夫」になれるかどうかなのです。青臭いといえば青臭い、大人から見れば未来への責任放棄に映るかもしれません。しかし、生まれたときからずっと「全然晴れそうにないね。このまま雨だよ。」と言われ続け、心まで雨空になってしまった僕からすれば、「天気なんて狂ったままでいい」から、いったん「多数の幸福」とか「みんなの求める正しさ」なんてものは忘れて、あの子=自分のしあわせのために全力で走ってみようと背中を押された気がして、とても晴れやかな気持ちになりました。これこそが「愛/僕にできることはまだあるよ」ってことなのだと思います。

最後になりますが、「天気の子」において最も新海監督の変化を感じたのが、須賀さんと夏美さんのキャラクターです。夏美さんは大人と子どもの間的立ち位置にいますが、須賀さんはこれまでの新海作品にいなかった「落ち着いた大人」です。もちろん、彼とまた自分の人生に悩む血の通った人間であり、情けなさや弱さもたくさん抱えた、どちらかというとしっかりしてない方の大人ではあります。会ったその日に帆高くんにビールをたかるし、間宮夫人からは信頼されていません。きっとたくさんの「仕方ない」を積み重ねてここまで生き抜いてきたのでしょう。一時は、帆高たちの生活よりも、娘との面会権を自分かわいさで優先した(それもまた悪いことではないのですが)須賀さん。そんな彼が帆高くんの「俺はただあの人に会いたいんだ」という叫ぶのを聞き、自分ができなかったことを、彼岸へ飛び込もうとする帆高くんに託すのは、「天気の子」屈指の名場面です。そしてこの若者に選びたい未来を選ばせる、「世界の運命」の責任から解放してあげる、という須賀さんの態度こそ、新海監督の目線なのだと思います。この「大人目線」が説教臭くならず、むしろ若者と同じかそれ以上に熱く、そして青臭いのが「天気の子」の優しさであり、いまや邦画トップクラスのストーリーテラーとなった新海監督の若さと素晴らしさなのだと思います。

僕はもう映画館で3回みて、みてない間もサントラを聴いたり、このブログに書く感想を練ったりしていたので、この1週間は「天気の子」漬けでした。完全に日常生活に支障をきたしていますし、自分でもどうかと思うのですが笑、これだけ好きになれる映画に出会えてしあわせです。「君の名は。」でもうやりきっただろうと思ったのに、「天気の子」でそんな不安を軽々打ち破ってきた新海監督。気が早すぎるかもしれませんが、次回作がたのしみです。個人的に、今度はもっと家族要素を盛り込んでくるのでは?と思っています。それではまた。

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