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【耳か目か】宮沢賢治は耳の人。三島由紀夫は目の人。あなたはどっちの人?

ふだんはほとんど音楽を聴きません。
カフェや書店のBGMには
感銘を受けやすいので、
つい聴き惚れてしまって、
泣きそうになることもあるし、
それがしばらく頭を占領する
ことがしばしば。

だからでしょうか、自分からは
音楽を求めることはありません。
ちょっと怖いのです。
影響を受けすぎるのが。

私は「視覚」の人で、
「聴覚」の人ではないのでしょう。

解剖学の養老孟司先生によれば、
三島由紀夫は「目」の人で
川端康成も「目玉」の人だった。
石原慎太郎によると、
川端康成はいつもその大きな目玉で
女性をまぶたに焼きつけ、
目のフィルムに記憶するかのように
凝視していたという。
一方、養老先生によると、
宮沢賢治は「耳」の人だった。
「クラムボンは笑ったよ」なんて
耳慣れないオノマトペを
うまく捻り出す力はやはり
聴覚の人だったからでしょう。

三島の文章は、
目の前の映像を克明に
説明していきます。
が、文章には不気味なほど静寂で、
リズムがない。
音感や体感、体のバネ感は感じにくい。
ひたすら視覚的な情景を思わせます。

夏目漱石は、最初の頃は
少なくとも落語みたいな
伝法な語りが旨かった。
太宰も二人称に向かって語る
告白形式が旨かった。
「視覚」よりも「聴覚」が
発達していたようです。

幸田文に『台所のおと』という
エッセイがありました。
その題の通りに日常を
描いたものでした。

開高健に『耳物語』という
聴覚に基づいた自伝小説が
ありましたね。

基本的には、作家は
視覚から世界を読み取り、
視覚で世界に発信する人が
多いんでしょうね。
宮沢賢治はレアな存在でしょう。

でも、脳の仕組みとしては
聴覚と視覚は実は同じ所で
つながっているそうです。
だから、聴覚を鋭敏にした方が
視覚的な能力が高まるし、
視覚を鋭敏にした方が、
聴覚的な能力が高まるそう。
「共感覚」というやつですね。

初期三部作の村上春樹は
読んでいるだけで、
何か音楽が頭にかかる感じが
します。村上春樹も元々は
聴覚的な人だった気がしますが、
それが『ねじまき鳥クロニクル』や
『海辺のカフカ』辺りからは
音楽がふと消えたようです。
目の前の映像を説明するような
文章に変わっていきました。

ちなみに、町田康さんは
さすがパンクロッカー。
源義経を書いても、
しょうもなき(笑)日常を書いても
どこか音楽がかかっていますね?

その代わり、ノイズもたくさん
混じってしまうから
元ミュージシャンの作家は
核心がノイズでブレブレになることも。

視覚、聴覚以外にも、
そうした目線で探せば、
触覚の人もいるでしょう?
嗅覚の人もいるでしょうね?

少なくとも、
視覚に偏重しない人でありたいと
私は願っているのですが、
音楽聞いたり、運動したりした方が
良い文章が書けるんでしょうか。








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