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【私小説】動の西村賢太、静の車谷長吉を読んで、何が得られるのだろ?

5日前から本屋さんで、 
毎回、手に取る本がある。
それはまるで悪魔みたいだ。
買おうか?買うまいか?
これらの本を読んで何が得られるのか。
心が引き裂かれるかのよう。

東京神田神保町の東京堂では、
没後一年の、西村貫太の本が
ズラリ並んでいます。
こんな風にフェアで
西村賢太本が並べられるのは
きっと没後一年の今が
最後ではないだろうか?
 
この際だから、
文庫を全部買っておこうか?
いや、でも、たぶん全部は
読まないだろうなあ。(汗)。

西村賢太のフェアでしばらくいると、
今度は、同じ私小説作家で、
よくライバル視された
車谷長吉を読みたくなります。
ほぼ反射神経なみに。

《動の西村賢太、静の車谷長吉》

でも、車谷長吉の私小説は
読んでいると、
生きていく気持ちが萎えてしまう。
破滅的に消えたくなる(汗)。
後ろ向きでもいいじゃないか?
もうポジティブ、ポジティブなんて
背伸びしなくていいじゃないか?
そんな悪魔の囁きが、
車谷長吉の本からはダダ漏れしてくる。

ヤバイ、ヤバイ!
こんな本を読んで、
何が得られると言うのか?!
でも、なぜだろう?
時折り、定期的にこの車谷イズムが 
聞きたくなる、なぜだろう?

でも、アカンアカン、
と、理性的な私は、
車谷長吉はやめとこうよと言う。
人生を放棄するなよ!と。

でも、待てよ。
西村賢太と車谷長吉は
やっぱり違うな。
西村賢太はあまりに情けない自分を 
堂々と書いて余りに痛々しい。
車谷長吉はインテリな匂いがして
少しカッコつけている印象だ。

と、今週はこの平成の2大私小説家の
棚の間を行ったり来たりすることに。

で、結局、どちらも買わずに
ガマンして帰ってきました。
なんなんだろうなあ?

破滅的な小説をズブズブに
読んでいくのは
時間がもったいないじゃないか?
と心の中の私が言っている。

もっと前向きになれる本を
読むべきじゃないか? 
私小説に手を出す時間は
もったいないんじゃないか?

なのに、読みたくなるのは
どうしてなんだろう?
何の得もしなさそうなのに…?

いや、待てよ、
読書は自由にしたらいい。
こんな本を読むべきだとか、
こんな本は読まない方がいいとか、
語るような読書論は間違っている。
好きなように読めばいい。
自由に読めばいい。

そう思っているはずなのに、
何か得する本を読もうと考える、
クソ野郎な打算的な自分がいた。
ビックリというか、ショックだ。

ああ、私小説作家2人に
引き裂かれながら、
本から何かを得なくちゃと
思っているクソ詰まらない自分。
やれやれ。

西村賢太と車谷長吉。
感覚的にはかなり違うけど、
無性に読みたくなる。
悪魔のささやきみたいだ。


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