マンデラ主義
2024年7月18日のマンデラの誕生日(ネルソン・マンデラ国際デー)前夜に投稿。
【参考文献】
『自由への長い道』ネルソン・マンデラ
『私自身との対話』ネルソン・マンデラ
『自由への容易な道はない』ネルソン・マンデラ
『未来を変える言葉』ネルソン・マンデラ
『闘いはわが人生』ネルソン・マンデラ
『ネルソン・マンデラ伝 こぶしは希望より高く』ファティマ・ミーア
『私の愛した大統領』ゼルダ・ラグレインジ
『信念に生きる』リチャード・ステンゲル
『カントリー・オブ・マイ・スカル』アンキー・クロッホ
『マンデラ―闘い・愛・人生』アンソニー・サンプソン
『インビクタス 負けざる者たち』ジョン・カーリン
『二人のマンデラ』ジョン・カーリン
『南アフリカらしい時間』植田智加子
『ネルソン・マンデラ: 分断を超える現実主義者』堀内隆行
「弁護士マンデラのプラグマティズムと真実和解委員会」阿部利洋
SAPeople Archbishop Tutu Reveals what he and Mandela Disagreed Upon
メモ:日本とマンデラ
日本はアパルトヘイト時代、南ア政府への国際的な経済制裁に同調せず、希少金属や穀物を輸入。最大の貿相手国にまでなり、「名誉白人」とされた。そのうえ、日本政府は釈放の数カ月後に初来日したマンデラを失望させた。アフリカ民族会議(ANC)への資金援助要請に、日本政府はほとんど応えなかったから。当時、小沢一郎自民党幹事長も外務省に苦言を呈した。
マンデラの初来日時に、人道活動家の津山直子さんが鍼灸師の植田智加子さんをマンデラに紹介した。南アでも続いた診療は、その長寿に寄与したかもしれないとのこと。
植田さんの著書によるとマンデラは、「私のことなら何を書いてくれてもいい。どんどん書きなさい」と言ったらしい。「ネルソン」は学校の先生から与えられた英語名で、本名(アフリカ名)は「Rolihlahla」。コサ語で「木の枝を引っ張る者=トラブル・メーカー」を意味するとのこと。
この「Rolihlahla」、英国放送協会(BBC)の説明では「khol-ee-HLAA-hlaa」と発音するそうだが、舌打ち音があり、日本語表記がやっかい。外務省では「ロリシュラシュラ」。
書籍『自由への長い道』でも「ロリシュラシュラ」。
書籍『私自身との対話』では「ホリフラフラ」。
書籍『わが魂はネルソンとともに』では「ロリーラーラー」。
Wikipediaでは「ホリシャシャ」。
BBCの動画も参考になる。わたしには「ホリシュラシュラ」に聞こえる。現地ヨハネスブルグで(観光名所「マンデラの家」のガイド役のコサ人女子大生による)ナチュラルな発音を不意に聞いたときは、まったく頭の中でカタカナ変換できなかったが。
2003年のイラク戦争開戦前、マンデラは講演でアメリカを世界で最も残虐な国とし、日本への原爆投下を強い口調で批判した。
外務省によれば、マンデラの訪日は3回。同時通訳者の小松達也さんも「マンデラさんはこれまで3度来日していますが、私は幸いにしてその中で2度、彼の通訳をすることができました」と述べている。
しかし、Googleでいくら調べても、「ANC副議長としての1990年10月」と、「大統領としての1995年7月」の2回しかわからなかった(ChatGPTに訊いたら「1999年に昭和天皇の葬儀に来た」という、ひどいデタラメを表示した)。
社会学者の立岩真也さん(故人)のウェブサイトでは、NHKによるマンデラの訃報記事を記録していた。そこにはなんと「マンデラ氏は生前2回、日本を訪れています」とある。結局これが正解なのではないかと、外務省情報を一瞬疑った。
しかし念のため、立岩氏が転載元としていたNHKの記事アドレス(現在はリンク切れ)をコピーしてウェイバックマシーンを利用してみたところ、ついに見つけることができた。「国際新聞編集者協会の総会に招かれ1991年4月に」訪日(これが3回のうちの2回目)という情報を。
先のリンク先2つの記事公開時間を見比べるとわかるが、NHKは当初「生前2回訪日」と報じたものの、数時間後に「3回」に修正し、上記の情報を追記したようだ。
結論。マンデラは日本に3回も訪れていた。2回目の訪問先の京都では妻ウィニーへの土産を目的にショッピングも楽しんだ。外務省は正しかった。