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マンデラ主義

2024年7月18日のマンデラの誕生日(ネルソン・マンデラ国際デー)前夜に投稿。

世界をよりよくしたい。差別をなくし、苦しんでいる人を助けたい。そう心に思う人は少なくないだろう。
それなのに、わたしたちは無力であるか、過激であるかのどちらかしか選べず、いつも失敗してしまう。
無力ではいられないから過激になる。敵と定めた人をののしる。相手の話は聞かない。現実を見ない。歩み寄ることはしない。自分に酔う。目的を忘れる。無関係な人も傷つける。
やがて世間にうとまれて退場する――さらに無力になる。
しかし、わたしたちは無力にも過激にもならずに、世界をよりよくすることもできるはずだ。
ネルソン・ロリシュラシュラ・ダリブンガ・マンデラ(1918-2013)はその方法を示したひとりだ。
マンデラ――弁護士から反差別運動の闘士となり、終身服役囚からついには黒人初の南アフリカ共和国大統領となった人物――が実践した方法。それは、「恨まないこと」と「手本となること」を原則とする態度だった。
マンデラは、差別政策を進めた白人政府の暴力に対して、「野獣の攻撃を素手だけでかわすことはできない」とし、軍事組織を結成。ほどなくテロリストとして逮捕され、終身刑が科された。
けれどもマンデラは、奇跡的に27年後に釈放されても、仕返しはしなかった。むしろ獄中では白人の言語アフリカーンス語を学び、丁重に看守と接し、たがいの心を通わす準備さえした。
「白人を国から追い出せ」と主張する過激な黒人たちを説得した。あらゆる肌の色の国民が参加できる選挙を実現した。
自らも生まれて初めての投票をして、大統領となった。
マンデラは、差別をしない人間としての模範を示した。黒人の罪にも公正に向き合い、所属していた政党アフリカ民族会議の仲間や妻が関わった殺人の記録も公開した。
息子の死因であったエイズは、当時は蔑視されたが、ほかの病気と同等だとして隠さなかった。子どもの選挙権を主張した。白人向けの新聞も読んだ。
イギリス――かつて南アフリカを支配した国――の女王に気さくに話しかけた。「やあ、エリザベス。やせたんじゃないか」。
女王も「ネルソン」と呼ぶようになった。
マンデラは装いも重視した。
趣味のボクシングのグローブ、弁護士のスーツ、裁判ではコサ人の伝統服、潜伏中は農民服や軍服。その時々の舞台衣装を長身にまとい、役を演じた。
監獄では半ズボンの囚人服を強制されたが交渉し、長ズボン着用の権利を得て尊厳を守った。
白人たちが熱狂するラグビーの国家代表ジャージは、人種差別の象徴でもあったが、大統領マンデラはそれをあえて着用し、和解を表現した。
やがて公務の場で、批判は気にせず、派手な柄のシャツを着るようになった。おそらくは、自由と多様性の証として。
もちろんマンデラも、失敗や失意と無縁ではなかった。その闘争は、家族の安らぎも仲間の命も犠牲にした。
政治の自由は得ても、世界最悪の貧富の差は解消できなかった。
共産主義を恐れる欧米諸国の支援を得るために、南アフリカ共産党の幹部でもあった過去を秘密にして、生涯隠し通した。
最初の妻には「浮気をして、妻と子を放ったらかしにした、ただの男」と評された。
しかし、「恨みの念とは、相手を殺せると思って自ら飲む毒」としたマンデラは、後悔もまた「役に立たない感情」と断じた。
マンデラは、釈放を後押ししてくれた仲間と国際世論に感謝したが、聖人として崇拝されることはこばんだ。
「もしわたしが聖人なら」とマンデラはしばしば語った。「聖人とは努力をやめない罪人のことだ」。
肩書よりも、氏族名の「マディバ」と呼ばれることを欲した。
大統領を一期のみの5年でやめた。そして財団を作り、社会貢献活動を続けた――少なくないアフリカの国家指導者たちが長期の独裁政治を続け、不正に富を蓄える一方で。
80歳で三度目の結婚。95歳まで生きた。
世界をよりよくしたマンデラの方法――恨まず、手本となる――を、わたしは「マンデラ主義」と呼びたい。
もちろん、マンデラ主義者はマンデラを崇拝などしない。
世界をよりよくしたいけど、無力だったり過激だったりするわたしたちは、たんにその実用的な態度に学ぶだけだ。

とはいえ、マンデラが言ったように「自分を変えるのは、社会を変えるよりも難しい」。でも、挑戦はできる。一緒にやってみよう。

マンデラは獄中から妻への手紙に書いた。
「人生の四分の三を悪人として過ごしても、残りの四分の一で敬虔な生活を送れば、聖人の列に加わることができるかもしない」
アマンドラ! (力よ!)

【参考文献】


メモ:日本とマンデラ

  • 日本はアパルトヘイト時代、南ア政府への国際的な経済制裁に同調せず、希少金属や穀物を輸入。最大の貿相手国にまでなり、「名誉白人」とされた。そのうえ、日本政府は釈放の数カ月後に初来日したマンデラを失望させた。アフリカ民族会議(ANC)への資金援助要請に、日本政府はほとんど応えなかったから。当時、小沢一郎自民党幹事長も外務省に苦言を呈した

  • マンデラの初来日時に、人道活動家の津山直子さんが鍼灸師の植田智加子さんをマンデラに紹介した。南アでも続いた診療は、その長寿に寄与したかもしれないとのこと。
    植田さんの著書によるとマンデラは、「私のことなら何を書いてくれてもいい。どんどん書きなさい」と言ったらしい。

  • 「ネルソン」は学校の先生から与えられた英語名で、本名(アフリカ名)は「Rolihlahla」。コサ語で「木の枝を引っ張る者=トラブル・メーカー」を意味するとのこと。
    この「Rolihlahla」、英国放送協会(BBC)の説明では「khol-ee-HLAA-hlaa」と発音するそうだが、舌打ち音があり、日本語表記がやっかい。

    • 外務省では「ロリシュラシュラ」。

    • 書籍『自由への長い道』でも「ロリシュラシュラ」。

    • 書籍『私自身との対話』では「ホリフラフラ」。

    • 書籍『わが魂はネルソンとともに』では「ロリーラーラー」。

    • Wikipediaでは「ホリシャシャ」。

    • BBCの動画も参考になる。わたしには「ホリシュラシュラ」に聞こえる。現地ヨハネスブルグで(観光名所「マンデラの家」のガイド役のコサ人女子大生による)ナチュラルな発音を不意に聞いたときは、まったく頭の中でカタカナ変換できなかったが。

  • 2003年のイラク戦争開戦前、マンデラは講演でアメリカを世界で最も残虐な国とし、日本への原爆投下を強い口調で批判した

  • 外務省によれば、マンデラの訪日は3回。同時通訳者の小松達也さんも「マンデラさんはこれまで3度来日していますが、私は幸いにしてその中で2度、彼の通訳をすることができました」と述べている。
    しかし、Googleでいくら調べても、「ANC副議長としての1990年10月」と、「大統領としての1995年7月」の2回しかわからなかった(ChatGPTに訊いたら「1999年に昭和天皇の葬儀に来た」という、ひどいデタラメを表示した)。
    社会学者の立岩真也さん(故人)のウェブサイトでは、NHKによるマンデラの訃報記事を記録していた。そこにはなんと「マンデラ氏は生前2回、日本を訪れています」とある。結局これが正解なのではないかと、外務省情報を一瞬疑った。
    しかし念のため、立岩氏が転載元としていたNHKの記事アドレス(現在はリンク切れ)をコピーしてウェイバックマシーンを利用してみたところ、ついに見つけることができた。「国際新聞編集者協会の総会に招かれ1991年4月に」訪日(これが3回のうちの2回目)という情報を。
    先のリンク先2つの記事公開時間を見比べるとわかるが、NHKは当初「生前2回訪日」と報じたものの、数時間後に「3回」に修正し、上記の情報を追記したようだ。
    結論。マンデラは日本に3回も訪れていた。2回目の訪問先の京都では妻ウィニーへの土産を目的にショッピングも楽しんだ。外務省は正しかった。


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