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創作論 〜前半戦〜

 ・はじめに 〜誰向けのnoteなのか〜

 難しい。いや適当なことを言えば「世の中の創作をしたいと思っている人へ」みたいなことも書けるが、一方で「私みたいな変わった事例にファーストコンタクトで出会していいんだろうか?」という迷いもある。全体的にこのnoteを書いている人は初心者に向かない考え方と性格をしているので、想定している層としては「昔やってたこともあって全くの初心者ではないけどべつに最近創作に熱心なわけでもない」とか「ハマるジャンルがあればいいんですけどね〜」とか「インターネットにつかれちゃいました」とかそのへんの、やや枯れ気味かつガツガツした人たちに消耗され尽くして萎え傾向……という人、または「若い子たちで楽しんでるみたいだけど自分みたいなオトナ(またはそれに類する年齢侮蔑表現、明記はしない)が創作なんてやって大丈夫なのかな」という人だろうか。まちがっても「Pixivでビュー12万くらい稼ぎたい」とか「なろう発の小説家になって自作をアニメ化してほしい」とか「界隈の神字書きになりたい」とかの夢がある人の助けにはならない。おそらくこのnoteの内容はそれらの欲求と対極にある。なので考え方によっては、このnoteと真逆の行動に勤しめばそれらの夢に近づくかもしれない。当然のことながら責任は取れないが。
 作り手と類される人間には当然のことながらいろんな人間がいるが、外から見ればそれらはすべて一緒くたにされる。中にはこういう人間もいるし、こういう人間でも創作をしていいし、そもそも「創作をする人間」などというカテゴリがない、という方向に持っていく記事でありたい。あくまで趣味として長く楽しんできた人間がどうやって楽しんできたかという話に過ぎない。この気軽さがどこかの誰かの背中を押せたら喜ばしいと思う。陽気なギャングは地球を回すのである。たぶん。
 

 ・このnoteを書いている人

 20代後半の字書き。字書き歴は18年ほど。中学から大学まで文芸部だった。ファンタジーとBLと夢が不得手(後述する)。二次も一次もやる。同人。このnoteでは主に映画やドラマの感想を書いている。綾野剛と吉沢亮がすき。


 ・おおまかなこのnoteの構成

 前半
 はじめに/このnoteを書いてる人について
 ①創作とは「べき論」をどうにかするマインドセット
 ②マネしてはいけない自分の創作過程
 ③本を作る営みは基本的に気が狂っている

 後半
 ④一次創作から二次創作に行って一次創作に戻った話
 ⑤ぶっちゃけ文章って絵ほど見られないよね問題
 ⑥承認欲求と創作意欲を混同したがる人たち
 ⑦表現の自由と性描写とチョコレート
 まとめ


①創作とは「べき論」をどうにかするマインドセット

 マインドセットという言葉を社会人になってから知った。曰く価値観や信念、思い込みといったものは多面的に「セット」された「マインド」の集合体に過ぎないため、いくらでも更新していけるという極めて前向きな発想である。いかにもビジネスパーソンが好んで用いそうな用語。教育で人は操れる。アットホームな社風も滅私奉公の社訓もお手のものだ。そう、マインドセットならね。

 ビジネスパーソンへの偏見がひどいが、私もまた社会の歯車のしがない一員である。小説を書く感性を殺さないように日々社会へ出て働き、小説同人誌を出すために正業に従事している。これが他人のやってることなら涙ぐましいが、自分の愚行だと思うと奇怪が過ぎて別の意味で泣ける。
 創作のきっかけは実に様々だ。今までの20年足らずの創作生活において、私の周りを実に様々なクリエイターたちが通り過ぎていったが、ひとりとして同じモチベーションを語るものは居なかった。あるものはどうしても萌えた自カプのラブシーンを描きたくてペンタブを握りしめ、あるものは「本を出したい」がゆえに小説を認め始めた。絵と文だけではない。写真に手芸に短歌に切り絵、アプローチの多様性は枚挙にいとまがない。さすがにまだエッチング作家には出会ったことがないが、そのうち出会うかもしれない。乾漆像やフレスコ絵画を作っていた人には出会ったことがあるのでいないことはないと思う。
 創作は自由だ。例えば私は今この文章を退勤後の快速電車の中、充電ギリギリのスマホから打っているが、これもまた自由だ。スマホしか持ってなくても同人誌を作れる時代はとっくの昔にきている。逆にすべて手書きで作る方が難しい。
 創作はツールを選ばない。正解は常に存在せず、人の数だけやり方がある。創作論を語ると意気込んだnoteで冒頭からこんなことを宣う程度には創作は自由である。自由には責任が伴うとよく言われるが、厳密に言えば「創作交流の世界には責任があるが、作ることそのものには原義的な責任がない」。もちろん作ったものを無秩序に公開し、公序良俗や法に触れた時点で公衆道徳の観点から別種の責任が生じることはあれど、基本的には何をどんなふうにどう作ってもいい。

 多少乱暴な言い方にはなるが、創作とはなにを作ってもいいよ、と自他に対して言い続けることである。現実がクソでも恋人が出来なくても、創作の中では全てを覆すことだってできる。憧れのあの子の世界に住むことだって可能だ。都合の悪い人間を消すこともできる。頭の中では何をしても良い。たぶん。そうやっていろんな名作が生まれてきたはずなのだ。だから私は創作に対していつもこう言うことにしている。「〜べき」ってやめませんか、と。漢文じゃないんだから。そして人に言うからには、自分自身も創作に関してはべきべき言わない。そういうのもあるよね、それもいいよね。たかが言葉尻だが、けっこうマインドの見直しになった。そして巷の創作界隈にいかに「べき」論が溢れているかを改めて痛感する運びとなった。
「もっと評価されるべき」「どれくらい刷るべき」「原稿すべき、遊ぶべき」エトセトラ、エトセトラ。
 すべからく見直すべし。誰も責任は取ってくれないのだから、好きに作れ。
 頭の中の恥部を晒しながらだれかのディレクションに従うバランスの悪さを言いたかった。従順であったとして誰も褒めてくれない。創作とはそういうものである。誰のご意見も聞かなくていい。だからここまで読んだあなたが「うっせぇカス」と思ったら、おそらく末長く楽しく創作ができることだろう。
 創作は誰でもできるし、誰だってやっていいのだが、私の観測域内では長く楽しく創作を続けている人ほど人の言うことを聞かない。もちろんその筆頭が私である。


②マネしてはいけない自分の創作過程


 MIU404というドラマがあって、主人公の伊吹についてもう1人の主人公である志摩が情報収集をした際、元同僚たちが口を揃えて「足が速い」と形容するシーンがある。とにかく足が速い。ろくでもない問題児だが足は速かった。速さというのはそれだけ人の印象に鮮烈なものを残す。なぜこの話をしたかというと、私の印象としておそらく最も多くの人が同じ形容をするからである。筆が速い。前の晩に言ってたものが翌朝には出来上がっている。精度はともかくとして(よく誤字脱字をする)、遅い速いで分類するなら間違いなく速い方には入る。2人いる。精神と時の部屋に住んでいる。ニートに違いない。後半は散々な言われようだが、たしかに筆は速い。理由は簡単、速く書き上げないと書いたことを覚えていられないからである。

 文章を書くのが幸か不幸か割と「大好き」の部類に入るため、感情が高まると文を書く性癖があり、そういうわけで火のついた感情を撫で回して温存することができない。灰は灰に、塵は塵に、エモはエモに。最大瞬間風速の感情を浮いた側から記録しないと消滅するので、しゃーなしに記録していたらいつの間にか体をなしている。ちなみにプロットはいくら事前に練っても文章本体とは途中から著しく乖離し、最終的にはいつもプロットと本文の物語がパラレルワールド状態に落ち着く。自由の名の下にきわめて好き勝手やっているのは作業工程も同じだ。だから計画的な原稿というのが成し遂げられたことの方が少ない。流石に大人になってからは人と何かを拵えることも多くなり、約束を破るわけにいかないので自分で自分のケツを叩くようになったが、それにしても計画的とは言い難い。そういうわけで「マネをしてはいけない」というか、私と同じようにやってても決して「上手く」はならないし、ギリギリでいつも生きることになってしまうのでブランクの長い人や経験のない人に教示できることがなさすぎて我ながら反省している。申し訳ない。クソの役にも立てなくてごめんね。お前のやり方を探してくれ。ただ慣れるまではやはり練習に勝るものがない。色々言い訳して書かないことは簡単だが、書き出してしまうこともまた同じくらい簡単である。迷っている人はとにかく書いてほしい。書けばなんかできる。
 
 書くのが速くて得をしたことといえば、かつてとあるジャンルで800字のSSを毎日更新するという自己縛りプレイに手を出し、これを見事達成して1冊の本にしたという経験だろうか。自カプの解釈の合う小説が100日間で100本出来上がるのはまたとない経験だった。「界隈」との交流をほぼ持たなかったため常に孤独な壁打ち作業に過ぎなかったが、そういう自分の足をかじるタコみたいなことができるのは筆の速さあってのことで、珍しく己を褒めたいと思った。
 逆に、筆の速さのゆえに構想5年だかの話を書き上げる筆力のなさは常に痛感していて、そのあたりは己の底の浅さを痛切に思い知る次第である。寡作だが一作ずつのクオリティが高い創作者、多作だが筆力のなさを悔やむ創作者、色々な特性があり優劣はない(と思いたい)が、常に自分と異なるスタイルへの憧れは介在している気がする。一般論として、かけた時間、向き合った時間とクオリティは比例する。誤字脱字も減る。そりゃそうよ。ここでしかし、人は人、自分は自分、と図々しく思った人間は創作を長くストレスなく楽しむのに向いている。隣の芝生はどうやったって青く見えるので、「青いっすね〜キレーっすね〜」で終わらせたいところ。できないことに注目する生き方は、おそらく絵を描く人にも同じことが言えるのではないだろうか。
 いつもゴミみたいなプロットしか立てられないので、原稿は常に直書き、直で書き直し。夜より朝の方がマシな文章を書けるので、テキストは常に出勤前に書くようにしている。作業中はYouTubeの作業用動画を聴いている。テーマに沿ったジャズが多い。「雨の日曜日に聴くジャズ」とか「パリの街中で聴きたいジャズ」とか。ちなみにいま、この文章を書くときはSUPER BEAVERのプレイリストを聴いている。クソの役にも立たない作業環境語りでした。SUPER BEAVERは最高なので全人類聞いてくれよな。

 やはり何の参考にもならなかった気がするが、Twitterにいるとプロット立てるか立てないかみたいな話をよく見るから自分の話をした。立てません。立てても活用できません。世の中可視化で思考整理する人間ばかりではないということだろうか。わかんないけど18年やってて活用出来ないとある種の諦めもつきます。なので「立てられない」人は「立てない」で強くいきましょう。型は大事だけど型に拘泥しても実戦では役に立たないのです。

③本を作る営みは基本的に気が狂っている

 ここで言う本とは説明の必要もないが当然「同人誌」のことである。言うなれば自費出版し、同好の士にお渡しする代わりに印刷代ちょっとカンパしてもらってもいい? というやつだ。二次創作はともかく(この話だけで長期化するので個人的にここではほっときたい)、一次創作は一般的に発行部数も少ないのでよりその向きが強い。
 先日Twitterで「同人誌を作る」ことに関するちょっとしたツイートが話題になっていた。「本を出してみたら手に取られて仲間ができた! ではなく、本ができた! とかでとどめておくべき」というやつだ。同人誌は実質人との交流ツールみたいなところがあり、実際の対面が即売会という場でほぼ義務化されているだけに、人との関わりが「本来的には」不可欠な代物だが、だがしかし待ってほしい、今は令和である。反応がリアルタイムに数字で可視化される令和だ。皮肉にもコロナ禍においてそのアクセシビリティが格段に向上した令和である。その気になればのべ何万人もの人間に指先ひとつで自作を見てもらえるし、何も紙媒体にこだわる必要はない。というか、冷静に考えて「自分の幻覚を形にして残してそれを人に見せる」という行為はなかなかにクレイジーだ。しかもお金だってかかる。印刷代は決してタダではない。仮に自宅でコピー本(簡易な製本を施すかホッチキスどめなどが主流)を拵えるにしても紙代、インク代はタダではない。基本的にコストのかかる代物なのだ。そして忘れてはいけない己の原稿執筆にかかる労力、時間等の人件費。残業はクソだが時間外手当が出る。原稿はそうだろうか? 仕事から疲れて帰ってきて、もしくはメチャクチャ嫌な仕事を控えた出勤前になぜ労を惜しまずパソコンに向かうのだろう。そう考えていくとものすごく割に合わないのではないだろうか?

 結論から言おう。同人誌を作る人は大なり小なり気が狂っている。同人誌というものはその存在が既にイレギュラーの権化、世間の効率重視への「叛逆」なのだ。なるべくなら便利に、親切に、スマートに物事を進めようとする世の流れに真っ向から逆らう、非効率と浪漫の結晶が同人誌と言っても過言ではない。仕事で疲れて帰ってきて黙々とペン入れをしたりパソコンに向かったり、同じ作業をしている仲間と通話を繋いで励まし合ったり、その健気な働きぶりに涙を禁じ得ない。やらなくていいことなのに。誰にも強制されてないのに。しかも出すために自分で決して安くないお金を払うらしい。正気じゃない。だから世に出ている同人誌を見るたびに思ってほしい。
 これを出した人は気が狂ってたんだなあ。
 別に褒めなくていい。やりたくてやってることなので、褒められたいとは思わない。ただその狂い様を受け取ってくれたらいい。頑張って狂う様をカタチにすることで、どこかでまた誰かの狂気とも言うべき情熱を喚起することが出来るかもしれないし、新たな名作を生むかもしれない。創作の可能性は無限大である。その希望が狂人を今日も踊らせる。シャルウィーダンス。それより僕と踊りませんか。

 また、狂っている仲間が嬉しいので、往々にして創作クラスタは創作クラスタのことがうっすらと好きになる。神作家と神作家が友達なのもそういうのが関係しているかもしれない。
 個人的な話だが、「同人誌作ってみたい」「イベント出てみたい」は5万回くらい聞いたことがあるが、私はタカ派なのでそういう言説を言説で止めるのを良しとせず、3人ほど実際にこの狂気に放り込んだことがある。3人とも今も楽しそうに始めの沼とは異なる沼ではしゃぎ続けている。喜ばしい限りだ。反対に5年間「〜してみたい」を言い続けている人とは見事に疎遠になった。生き方が似ているオタク、狂い方が似ているオタクをぜひとも大事にしたい所存である。

 宣伝は基本なので宣伝しておくとこれを書いている人はこんどの1月23日、関西コミティアにサークル参加する。一般参加や売り子では何度かその地を踏んだコミティアだが、サークル参加は初めて。一次創作の同人誌を実地で頒布するのも初めてである。所在不明のボトルシップを流しつづけるかのような、山の奥でひとりろくろを回しているような創作姿勢だけに当然「持って行ったままを持って帰る」があり得るのだが、未知の楽しみをまだまだ満喫できるのが有難い。
 ちなみに「このnoteを読んだ」と言ってくれた人には特別ノベルティをつけるので現地で気軽に伝えてほしい。クソの役にも立たないこんな与太話でもカップ一杯の幸せくらいにはなる。


 後半へ続くらしい

頂いたサポートは映画、文学、芸能、またはそれに類する業界に正規の手法で支払います。より良い未来を、クリエイターの幸福を、未だ見ぬ素敵な作品を祈って。