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おかえりなさいの絵

絵を描くことが好きと言えなくなった

子どもの頃は絵を描くことが好きだったし、高校の美術の時間も毎回楽しみでした。でも高校を卒業して以来、絵を描くことはなくなりました。

数学や物理、体育のマット運動と同じように、授業で取り組むことでも無ければ「絵を描くこと」は生きていくうえで必要無いものだったから。

ふと思い立って「何か」を描いてみようとしたこともありました。

でも、描けませんでした。

形が上手く捉えられないし、見たとおりに描けない。すると脳が判断します。

「全然上手じゃない」って。

そうなるともう、絵を描くことに「楽しさ」なんてありません。

「高校の頃までは、好きだったのにな…」

そう思って、終わりでした。

ただ、クレヨンを動かしている間は、少しだけ無心になれた気がしました。

絵のワークショップ

それなのに、絵のワークショップに参加してみようと思ったのはやっぱり「知らなかった自分に出会えるんじゃないか?」という予感があったから。

最近の私の予感は、外れることがまず無いのです。

 2021年5月、熱海で画家の中村峻介さんらによって開催されたワークショップに参加しました。同じく画家で主催メンバーの一人だった大野幸子さんと出会い、彼女とのご縁でワークショップへの参加を決めました。(大野幸子さんは、たった3ヶ月のアートプログラムをきっかけに「説得されて」画家になった異色の経歴の持ち主です!)

絵のワークショプと言っても、絵の描き方を教えてもらうわけではありません。主宰してくださっている方は皆様画家として活動されていますが、そういえばほとんどお話しってしなかったかも!!

ワークショップでは何をしていたか?というと…

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みんなで大きな紙に思いつくままに何かを描いたり

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自分の中にある「種」と向き合ったり

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近くにある神社までお散歩したり。

ワークショップに参加して気づいたんですが、絵を描けるようになるのに必要なことって、技術とかじゃなかったみたい。そりゃそうですよね。絵を描くことなんて、3歳児くらいからできるわけです。43歳(当時)の私が「絵なんて描けない」って言ってる方がおかしかったのかもしれません。

ただ、表現するための「場」があり、その中で参加者それぞれが自分に向き合い、互いに影響を与え受け取り合う。

そんな空間で、気が付いたら絵に没頭している自分がいました。

絵を描くのは高校の美術以来なのに、「絵なんか上手に描けない」そんな自分に幻滅し、すぐに描くことは辞めてしまったのに、絵の描き方を、教えてもらったわけでもないのに、そのワークショップでは何の戸惑いも無く絵に向かうことができました。

理由のひとつは、ワークショップの主宰者のみなさまが、「安心して自分の内側と対話するための場」を整えてくださったこと。人と比較する場所にならないように、細心の注意を払ってくださいました。

そしてもう一つの理由はたぶん、前回の記事でお伝えした奄美でのヌード撮影を経たこと(なぜか奄美大島でヌード撮影した話はコチラから)。

奄美でヌード撮影したことで、私は「美しさに対する評価軸」を手放すことができました。

ヌード写真を撮ってみて気が付いたことは、「美しい」だとか「きれい」だとかいう軸と、姿かたちが整っているとかハリ艶がある、あるいは若いとか老いているみたいな軸が全く別次元のものであるということ。誰に見せるわけでもない、自分だけの「美しさ」があるということ。

だとしたら「自分が描く絵」だって、自分だけのもので良いんじゃないかな?って。

何も、売れるような絵を描こうってわけじゃないし、人に見せるわけでもない。今振り返ると「そもそも一体何のために絵を上手に描く必要があったのだろう?」と思います。的確に描写できているかどうか?や、イラストレーターや画家が描いたみたいに雰囲気のある絵かどうか?なんて、本当にどうでもいいことでした。

自分が描きたくて、自分のために描いているだけ、なんだから。

技術がなくても絵は描ける

普段私は、論理的に文章を書くことが多いです。話の筋道を立てて、わかりやすく相手に伝わるように書いたり話したりすることがとても得意な方だと思います。

以前絵を描いて「つまらない」と感じたときも、頭で考えて描いていました。「ここに線を引いたらシャープな雰囲気になるな」とか、「屋根の色は茶色で草の色は緑、太陽は黄色」みたいに、既知の事実や理論に基づいて。

でも、キャンバスを前にしてみたら、その思考が一切使えませんでした。

アクリル絵の具に使うことも初めて、触れることすら初めてで、もちろん書き方や使い方も教わっていない。真っ白なキャンバスをまえに「何を描けばいいのか?」もわからない。

だからもう、感覚に頼るしかありませんでした。絵を描くためのスキルを、全く知らないから。

どの色を使うか?どこにどんな線を引くのか?どの筆を使うのか?ナイフなのか?

よくわからないけど、霧吹きでぼかしてみようか?

全ての意思決定は感覚でしか無く、予測さえできず、かろうじて予測の上に行った意思決定すら、大きく覆されて…

描いた絵は、どれも自分が思ってもみなかった姿で完成しました。

おかえりなさいの絵

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2泊3日のワークショップで私は、合計4枚の絵を描きました。そのうち1枚(一番下)はまだ途中です。
だから、完成したのは3枚だけ。

1枚目(左の絵)は、ぼんやりと感じている「自分の周りの世界」をイメージしてみました。

いろいろ破壊したり失敗したりを繰り返した結果、「小紋の柄」みたいな絵になりました。

2枚目(右の絵)は、何も考えずにただただ思いついた色を筆に取り、キャンバスの思いついた場所に塗っていくところからスタート。

最終的にとてもエネルギッシュな雰囲気になり、「命が生まれるときってこんな感じなのかな?」とコメントしてくれた人もいました。

そして3枚目(上の絵)。3枚目は、「おかえりなさいの絵」です。

1枚目と2枚目を描いて、「次に何を描こうかな?」と考えたときに「そうだ、新居に飾る絵を描いてみてもいいかもしれない。」と思いました。4月に新居が完成したんですが(引っ越しは8月の予定!)ちょうど玄関に、何か絵を飾りたいなーと思ってスペースを設けてあったのです。

本当に飾れる出来になるかどうか?はともかくとして、挑戦してみることにしました。

玄関に飾る絵は、家に帰ってきた家族をお迎えする絵。だから、家族を迎える気持ちを絵にしてみようと思いました。

すると思い出したのが、8年前に亡くなった母のこと。まだ私が実家にいたころ、学校や仕事から「ただいまー!」と帰ってくると、いつも母が迎えてくれたんです。子どもたちを迎えるときの母はいつも本当に嬉しそうで、それは私が大人になってからも変わらなくて。

あるとき、たまたま私と妹が同じタイミングで家に帰ることがありました。当時私は2度目の大学生、妹は社会人でもう立派な大人だったのに、母は一緒に帰ってきた私たちしまいに向かってこう言ったのです。

「あら、あんたたち一緒に帰ってきたん?マルやな!!」と。

マルって、〇のことなんですけどね。

もう大人になっていた私たちに、母はよく〇をくれました。よく眠れただけで「〇やな!」。食の細い妹なんて、朝ご飯を食べただけで「〇あげるな!」と言われたりして(笑)。私が夫と一緒に帰省すると、夫にも○をくれることもありました。

「マル」って言うだけなんですけどね。

でも、いい大人になって「マル」をもらえるのが嬉しくて。私と妹はわざと母に「今の、〇くれる?」と聞いたりして、母からの〇を喜んでいました。

でも母が亡くなった今は、もう実家に帰っても「お帰り」と迎えてくれることは無いし、マルをもらうこともできません。そのことが寂しくて「家族を迎える絵、おかえりなさいの絵は、マルの絵にしよう」と決めました。「この絵には、〇しか書かないぞ!」と決めて。

そうして本当に、キャンバスに向かってグルグルと〇を描くことから始めました。暖かい、明るい黄色の絵の具をたくさん筆に取ってグルグルと。

「おかえり、今日も学校頑張ったね。マルだね。」

「元気に帰ってきたから、マルだね。」

そんな言葉を思い浮かべながら、子どもたちの背中をなでるような気持ちで、グルグルと筆を動かしました。そうして黄色い大きな丸を描いたら、真ん中にぽっかりと空白ができました。

「マルの真ん中には、何があるんだっけ?」

その問いに対する答えはすぐに出て、それは「許し」でした。私にとって家の中は、「何もできない自分でも許される場所」だったから。

私は子どもの頃から内弁慶で、外では良い子だったけど家の中ではジャイアン。外では言いたい事もグッと我慢して、そのぶん家の中では横暴でわがまま放題。でも、そんな自分でも許されたし(もちろん、度が過ぎると叱られたけど)、たぶん家の中がいちばんの救いの場所だった。

だから、どんなに外で失敗しても、家に帰ってきたら〇。

学校で0点取ったとしても、家に帰ってきたら〇。

仕事で辛いことがあっても、家に帰ってきたら〇。

生きて帰って来てくれただけで〇。

家族をそんな想いで受け入れる場所の中心には、やっぱり「許し」があるべきだと私は思い、水色のクレヨンで〇の中心に「おかえりなさい 愛してるよ」と書きました。上から絵の具で塗ってしまったので、その文字はもう見えないけれど。(せめてスマホで撮っておけば良かったな…と、後から後悔。)

そこから、どんどん〇を足していきました。

子どもたちにとっての私のイメージであるピンク色(ママはピンクが好き!と、子どもたちは思っているようです。)。わたしの好きな新緑の緑色。小さな点でいくつもの〇を描き。再び大好きな紫色をローラーで重ね、またいくつもの〇を描いて…

気が付くと、最初に描いた黄色い〇はほとんど見えなくなり、最初のイメージからどんどん変化し、とはいえほとんど迷うことなく手が動いて完成、は絵が教えてくれました。

他の絵は「完成したかな?」と思ってからも、何度か手を入れたりしたのですが、不思議とこの絵だけは「できた」と思ってから、一度も手を入れることはありませんでした。

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うまく描こうとかきれいに描こうとか一切考えず、ただただ心の赴くままに筆を動かして、まるでビギナーズラックみたいに描けた絵。

それなのに、見た人からは

「潤ピー(と呼ばれています!)そのもの」

「まるで潤ピーの分身みたい」

そういわれるほどに「自分自身」が表現されていた絵。

「絵を描く技術を知らないからこそ、自分の中から溢れたものしか描けない」

主宰してくださった、画家の中村峻介さんの言葉が胸に響きました。

「家族を迎える絵」と思って描いたけれど、結果的にはたぶん「自分のための絵」になったのかな?

万が一私に何かあっても、この絵が自分の代わりに子どもたちに「おかえりなさい」を伝えてくれるんだ…。だとしたら「今死んでも思い残すことが一つ減るなー」なんて。

描いた翌朝になってそんなことを考えて「ああ、この絵が描けてよかったな…」そう感じて、ぽろぽろと涙がこぼれました。

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今、「おかえりなさいの絵」は我が家の玄関に飾られて、毎日子どもたちや夫を出迎えています。正直、子どもたちはあんまり見ちゃいないんだけど(笑)

絵を描くという営み

ワークショップに参加していた48時間と少し、ずっと絵のことを考えていました。夜寝る前にはその日描いた絵のことを考え、「明日はどうしよう?」とワクワクした気分で眠り、朝起きてまた「さあ、絵をどうしよう?昨日描いた絵はどうなっているだろう?」と、ご飯もそこそこに絵に向かう。その感覚はまるで秘密基地を作った子どものようでした。

ずっとしゃがんだ体勢で筆を使い、首も背中もバキバキに凝っているのに、不思議と「疲れた」という言葉が出て来ません。身体に痛みはあったとしても、気持ちは全く疲れてはいないのです。ずっと気分は高揚したまま、それでいて、とても落ち着いて絵に向かうことができました。ごく自然に。

自分の中から湧き上がる気持ちに、ただただ向き合い続けることで時間が過ぎていく。

それは、とても自由で満たされた時間で。

こんな「営み」があるのか…と。

自分の人生の中にこの「営み」を取り入れることができたら、どんなに素晴らしいだろう?


ワークショップが終わって熱海から大阪の自宅に帰ってきてもも、「絵に向かう時の感覚」はまだ残っていました。

「ワークショップのように一日中キャンバスに向かうことは不可能だとしても、朝、自分の中に沸き上がったものを簡単な絵にすることならできるかもしれない。」

ワークショップで使ったスケッチブックも、まだページがたくさん残っていました。こうして、翌日からも私の一日は絵を描くことから始まるようになりました。

それ以来、1ヶ月くらいは毎日絵を描き続けました。描いている絵はとても簡単なもの。

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自分の中から溢れたものを、ただただ描いているだけ。ほんの数分の、楽しくて自由で満たされる、大切な時間です。それからも、ふと思い立っては絵を描くということが私の日常に加わりました。

正直、絵なんか描かなくても困りません。私の仕事にも、何の効果も影響もありません。

だけど、あの感覚。

絵を描いているときの、時間を忘れる感覚。自分の内側にあるものに、集中する感覚。気持ちがちょっぴり高揚する感覚。この感覚が自分の生活の中にあるって、すごく幸せです。

明日の朝はどんな絵を描こうか?どんな絵が浮かぶかな?そんなことを考えて、次の朝が来るのを楽しみにしながら眠りにつく…

そんな生活ができたら最高なのかもしれない。

グループ展をすることになりました。

正直「アート」っていう言葉にまだ戸惑うし、「アートって何か?」をわたしはまだ言葉にできていないんだけど、とにかくそんな状態で絵を描くことを始めました。

キャンプに行って、子供たちと一緒にスケッチブックに絵を描いたり。

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ふと思いついて、タイザンボクの花が描きたくなり、真夜中に絵の具を取り出したり、ふと思い浮かんだ情景を描いてみたり。

「楽しいから絵を描く」
「描きたいから絵を描く」

いま、絵を描くという営みが自分の生活の中にあることを、とても幸せに感じています。

その延長で、一緒にワークショップに参加した友人たちとグループ展を開催することになりました。

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みんな本業はネイリストだったりセラピストだったり色々なんだけど。

「絵を描く」ということを人生の中に迎え入れた7人が、それぞれの表現で絵と向き合っています。

私は文章を、ひとりごとをぼそぼそつぶやくみたいな感じで書くんですけど、そこは絵を描く時も同じかもしれません。

文章も絵も、私は「感情を乗せて書くあるいは描く」みたいなことは全然なくて、どちらも淡々と書いたり描いたりしています。(自分で書いたのを読んで感情的になることは多々あるけれど)

新しく描いた絵も、「おかえりなさいの絵」も、グループ展に出展します。もし興味がありましたら、見にきていただけるととても嬉しいです!!

▼グループ展『Art is…』
期間:11/11(木)〜11/14(日)
時間:11〜19時(予定)
(12日のみ11-18時)
会場:ギャラリーボルケ
大崎駅徒歩5分
入場料:無料

メンバーの詳細や描いている絵はこちらからご覧になれます。
グループ展 Art is… インスタグラム


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