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神様の存在を考えてみる

はじめに

神様っているの?
ある人に聞かれたことがあります。
僕はこう答えました。

多くの人がイメージしているような神様はいないと思うよ。
ただ神様は信じていなくてもほとんどの人の心の中はいると思う。

神様の正体

最初に言っておくと僕個人は擬人化された神様は信じていません。
人間に奇跡や罰を与える人格を持った神様は神様に思えないからです。

もし神様がいたとしたら人の言葉では表現できないものだと思います。
だから神様が人間の言語を話すイメージが持てないのです。

では神様とは何か?

少し神様とは話が違いますが自分のことを冷静に客観的に見ているもう1人の自分がいることを経験したことがある方は多いのではないでしょうか?

物凄く辛くピンチの時になぜか冷静に状況と動揺している自分を見ている客観的なもう1人の自分、思考と感情に巻き込まれない自分。

また幼い時隠れて少し悪いことをした時に誰かに見られていると感じる。

つまり神様は抽象的な表現ではありますが自分を見ている(観察している)視線ではないかと思うのです。

こう考えると神様は自分の心の中にいると言えます。
心の中の神様は自分の思考と感情と同一化することはありません。

また心の中の神様は理論的ではなく直観のような形で感じる時もあります。

仕事をしていると理屈ではなく○○した方がいいのではないか?
この仕事ではなく○○の仕事をした方がいいのでないか?と

どうやら神様は理論的ではないようです。

神様は人の心

神様は実態がないことはハッキリとしてきました。

ただ神様を信じている人は
その人の助けになるなら従来の神様のイメージでいいと思います。

ただ先の神様が視線であると考えれば自分の感覚や直観を大切にすることが重要な気がします。

また「思考・感情=自分」という認識も考え直す必要があるでしょう。

心は本来身体と違って自由です。
例え身体が不自由でも心は自由になることができます。
自由なので広く複数の視点を持てる性質があります。

そのように考えていくと本来の心そのものが神様なのかもしれません。

人に優しくしたり善いことをすると人は気分が良いものです。

道徳的な言動は科学的に考えると人が他の人と共存して生存していく上で有利だから善行為をすると考えることは出来ます。

しかしそれだけではない気がするのです。

善いことをした時の心の満足感は自分が生きていく上で有利だから行ったという感覚とは違う気がするのです。

心が喜び満足する中にも神様はいるのかもしれません。








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