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日記。テラスハウスのことなど、最近のモヤモヤをつらつらと。

緊急事態宣言が解除され、一昨日は久しぶりに近くの居酒屋に妻と行って呑んだ。呑み屋で呑めるというそのことがどれほど嬉しくて楽しくて幸せを感じられることか。「なに頼もっかな」と壁に貼られたメニューを眺め、「すいっませーん」と店員さんを呼んで「あれとあれとあれと、あとあれも」とテキトーに注文するその行為ひとつに「ああ、この感じだよなぁ」とじんわり喜びを感じている自分がいた。「すいません、いま〇〇〇きらしちゃってて」「あ、ほんと?  じゃあ、かわりに〇〇〇ちょーだい」っていうだけの店員さんとの会話がもう嬉しく思える。家呑みにはないものがそこにある。

ステイホーム生活になってしばらくの間、家での飲酒が毎日のこととなり、やがてそのことに危険を感じるようになった。

「お酒で脳が縮む」という記事を読み、まじか?   いやでもなんかわかる気がする。近頃の僕の物忘れ度合の酷さはただ事じゃない。と、怖くなった。それで「毎日呑み」をやめようと意識するようになった。

酒を断つなんてのは自分には無理だ。が、呑む日を減らすことならできる。そうしていまは、1日呑んだらなるべく2日はあけるようにしている。している、というか、そう意識、または努力している。

ジムにはまだ行けないが、公園を走ることはほぼ日課となった。夏に向かって温度あるいは湿度の高い日が増えてきたので、走りに行く時間帯も早くなった。6時代に起き、7時代に走ってスッキリして1日を始めると、日が長く感じられて得した気分になる。

走っているとき、最近は音楽よりもポッドキャストを聴くことが多くなった。初めのうちは妻がそうしていて、自分はというと走るときは「話」より「音楽」のほうがリズムにのれていいと思っていたのだが、最近はポッドキャストでひとの話を聞きながら走ることに慣れた。

Spotifyの「SIGHT RADIO 渋谷陽一といとうせいこうの話せばわかる! 政治も社会も」をよく聴いている。コロナ問題や政治についてなどあれこれ日々動いている状況が専門家によってわかりやすく語られ、渋谷さん・いとうさんの投げかけと咀嚼によってことの大筋がスッと入ってくる。情報とそれに対する見方・考え方が整理できて、とてもいい。

ところで4月~5月は、本来ならフェス三昧のはずだった。4月はアラバキに行って、(フェスじゃないけど)黄金週間明けにカナダでストーンズを観て、今月23・24とグリーンルームフェスに行って、29日に橋の下世界音楽祭に行って、30日に長野に動いてFFKTを楽しみながらキャンプするはずだった。並行世界の自分は「ひゃっほー」と浮かれながら生きてる実感を味わいまくっていたはずなんだが、現実世界では全てが中止または延期となり、何に生き甲斐を持てばいいのかわからなくなった。

そんななか、日本経済新聞による「新型コロナ: フジロックも中止 フェスなき夏、音楽ビジネスの修正不可避」という記事がネットに流れてきたのは22日のことだ。フライングというより、中止になった際にいち早く流すべく用意された記事(=仮原稿)で、日本のあるフェスの主催者のコメントまでとられていた故に信憑性があったが、日経はその後、それを削除して誤配信と認め、謝罪文を出した。

最悪だと思った。このときの自分の感情は下のツイートと同じだ。

誤配信それ自体が最悪なら、「フジロックフェスティバルが今年の開催中止を発表したと記述していましたが、中止は発表されていませんでした。」という謝罪文の記述も輪をかけて最悪だ。「中止は発表されていませんでした。」って、なんだそれ?!

この一件に関しては、七尾旅人さんのした下のツイートに完全に同意。なので、これをリツイートした。

速度と話題性重視で、心も想像力もそこにない。近頃そんなのばっかりだ。

この翌日、23日のこと。妻と下北散歩してランチして家に帰って少ししたタイミングで、「なんかあったみたいよ」とスマホのツイッターの画面を見せられた。傷と血だらけの腕の写真があり、すぐにリストカットを撮ったものとわかったので思わず目を背けたのだが、発信者が木村花さんとわかって驚いた。ギリギリで未遂だと思いたかったが、亡くなったことを別のツイートで知って「え?  嘘でしょ?」と声を出した。そのときにはもうさっき見た写真はツイッター社で削除されて見れなくなっていたが、あまりの衝撃に動けなくなった。ニルヴァーナのカートがショットガンで自ら頭部を撃ち抜いたことを知ったときと同じくらいの衝撃だった。しばらくツイッターを追い、それから数時間何もできなくなって、僕は酷く落ち込んだ。

「テラスハウス」はもう何年も欠かさず楽しみに見続けている番組だった。だいたいは月曜の深夜にNetflixでオンタイムで見て、翌日夕方頃にYouTubeで配信される未公開映像までも追っていた(山チャンネルはある時期から見なくなったが)。呑みの場でテラスハウスの面白さを語っても誰にも理解してもらえず、大抵は笑われるだけだったが、話していいと言われれば何時間でもその面白さを語ることができるくらいに好きだった(果てがないのでここには書かないけど)。

そうやって欠かさず見ていれば当然のこと、出演者たちをいいなと思ったりやだなと思ったり、共感したり反感を持ったり、自分ならどうしただろ?と考えたり考えなかったり、感心したりしなかったり、この子と知り合いたいと思ったり思わなかったり……まあ程度の違いこそあれ何らかの感情を持つようになるわけで、花さんに対してもこういうところが魅力的で、でもこういうところは純粋すぎるよなぁとか勝手に思ったりしていたものだった。

比較的最近の未公開映像で、心配して話しにいったヴィヴィの言葉を受け入れられずに泣いてしまう花さんを見ていて相当精神的に追い詰められてる状態なのが伝わってきたが、でも志遠くんの不安を親身になって聞いてあげながらあたたかなアドバイスをしている回を見ていて、彼女はきっといろいろ吹っ切り、笑顔でみんなとハグして卒業するのだろう、そういう回が近々あるのだろうと思っていた。

テラスハウスで見るまで、自分は木村花さんを知らなかった。レスラーとしての彼女を知らなかったし、いまもそうなのだが、表情豊かな表現者だったことは番組内の少しばかりの映像からも窺い知れた。一昨日「何より”魅力的なレスラー”だった」と題された下の文を読み、辛い・悲しいという気持ちにもったいない・あまりに大きな損失だという気持ちがさらに乗った。

恋愛に関してのときめきなどよりも、ひとの心の暗部をわりと多めに映した作りをする傾向に番組がなりだしたのは、前の軽井沢編からだったか。とりわけ田中優衣さんのそれは自分を含む視聴者をグイっと引き付けたし、実際話題にもなって恐らく視聴率もあがったのだろう。昨年からのTOKYO編は、だからそこの部分の切り取り方がエスカレートし、とりわけ水越愛華さんに対するスタジオの芸能人たちの言葉は見ていてさすがに残酷すぎないかと感じたものだった。花さんに関しての切り取られ方も主にそれで、こんなこと書いてもしょうがないが仮に昔のテラスハウスだったらこういう結末を迎えることはなかっただろうと考えてしまったりもする。

これを聴いた。ニューヨークというお笑いコンビの屋敷裕政さんの見方に大きく頷いた。中和の役目を果たしていた徳井義実さんが出られなくなったことで山里亮太さんの見方がスタジオ内の主流となり、トリンドル玲奈さんらもそっちによりだして、番組そのものが暴走化しだしたという見解だ。

木村花さんが亡くなり、ショックを受けたあとに自分がまず考えたのは、残された出演者たち……とりわけヴィヴィと志遠くんのことだった。特にヴィヴィは卒業インタビューでも花さんのことをすごく心配していた。心配だ。残された出演者たちのケアをどうかちゃんとしてほしいと、そう思う。

下のこれを読んで胸が詰まった。

木村花さんの訃報から一夜明けた24日・日曜日。午前の早めに妻と下北の家から代々木公園までブラブラ歩き、ハンバーガーなど買って公園でピクニック。フリスビーをしているカップル、ヨガをしている集団、子供と追いかけっこしているお父さん……。いま世界で起きていることを忘れるくらい平和な光景で、天気もよくて気持ちがいい。そうだ、今年はフェスがないなら、その分ピクニックやキャンプをたくさんしよう。そう決めた。

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帰りはそのまま渋谷駅まで。まだ緊急事態宣言解除前だったとはいえ、日曜の昼の公園通りで下の写真のようにほとんど人がいないというのはなかなかすごい。当たり前にそこにあったお店もなくなっていたりで、すっかり景色が変わっていた。僕の住む下北沢は生活しているひとがたくさんいるから、商店街はいまテイクアウト・ストリートみたいな感じになってて意外とにぎわってもいるのだが、渋谷に暮らしている人は多くなく、そうなると街はこんなふうに死んでしまうんだなと思った。

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木村花さんのことはそれからもいろいろ考えてしまっている。SNSの誹謗中傷に関する問題と報道は日々広がり、それをまた誹謗するひとも利用するひとも現れる。このことについてはさらりと書き流せないのでこんなところで何か言うつもりはないが、昨日、下のような記事が出たことと、これを鵜呑みにして番組のことをボロクソ言ってるひとがたくさんいることに関しては、どうにもモヤモヤするばかりなので少しだけ。

これは女性セブン2020年6月11日号掲載分の配信記事であることが文末でわかるが、鵜呑みにしているひとがやけに多いのはなんなのか。ひとつは明らかに番組に対する先入観だろう。自分のフェイスブックを見ていても、普段のいろんな事件に関しては比較的冷静に見ているようなひとが、なぜかこの記事は鵜呑みにして、やらせと断定していたり、クソ番組とまで言い放っていたりする。そしてたいてい「見たことはないけど」と、「見てない」ことを誇らしげに前おきしたうえで自論を展開してたりする。先入観がそうさせている。

「確かに台本はありません。でも、ストーリーはこちらで作っていました」

と、記事にある。まあそうでしょう。が、それを「やらせ」と断定したら何も始まらない。ドキュメンタリー番組だってプロレスだって成り立たなくなる。出演者たちは演技をしているわけではないのだから。

上は社長と呼ばれている出演者のツイートだ。こうした出演者の言葉よりもインパクト大き目にかかれた記事のほうが信用されて伝播される。それはどういうことなのか。ことの本質はどこにあるのか。

森達也さんがもうずっと著作などで言い続けていることだが、「視点によって景色は変わる」「編集は取捨選択」であることを考えず(理解せず)にいるままのひとがまだこんなにもたくさんいるのかと、今回の件で驚き、そしてまたモヤモヤが増していったのだった。

ありゃ~。日記のなかでさらっとふれておこうと思ってただけだったのに、なんだか長くなっちゃったな。でも自分のなかでこれは忘れたくないことだったのでとりあえず書いておきました。

ツイッターでは普段、僕はこういったことをもうほとんどつぶやかない。140字内で的確に意見を伝えるのはやっぱりすごく難しいし、それこそクソリプと呼ばれるものが飛んで来たら自分は簡単に落ち込むことをわかっているからだ。

最近は、時間があるような、ないような。あるようで、1日1日が意外と早く過ぎていく。映画とか見てないなー。ドラマは、今頃だけど『ブレイキングバッド』を少しずつ見ていて。昨日ようやくシーズン5に入りだしたところ。シーズン4、しびれたね。

音楽は、ノラ・ジョーンズがコンスタントに自宅から弾き語り映像を届けてくれてることにとても救われている。本当に素晴らしいよね、音楽家としても、ひととしても。新作も早くみんなに聴いてもらいたい。

あと、少し前だけど、リアン・ラ・ハヴァスのこれは胸の深いところに沁み入った。

それからビリー・アイリッシュが公開したショートムービーがガツンときた。「あなたは私のことを知ってるの?  本当に?」「あなたの見解で私の価値は決まるの?   それともあなたの私に対する意見は、私の責任ではないの?」とつぶやくこれ、花さんの事件にも繋がるところがあるよね。

あ、そうそう。最近noteで、過去に書いたライナーノーツとプレスリリースの原稿を再活用するということのトライをしてみてます。埋もれてったり、2度と読んでもらえなくなったりしていく原稿たちがかわいそうで。少しずつでもアップして積み上げていったら、それなりの価値がでてくるかなと。

それではまた。

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