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僕の知らない世界…

僕は今年39歳になります。
結婚歴はなく、子供もいません。

今日一緒にいた3歳下の友人は子供が3人いて一番下のお子が3歳で、平日は保育園に入っており、今日ひょんなことからお迎えの付き添いをして2度目のご対面を果たした。

初めて逢った時は3姉弟みんなとあって、末っ子のこの子は当時まだ赤子。
そのお子が3歳になったらまぁおっきくなってしまって!

それで覚えたての言葉を使いたくてしょうがない様子で、まぁ元気いっぱい一生懸命しゃべるしゃべる!


昼間話していた友人との会話の内容は、ビジネス4:ゲスい話5:昔話1くらいなもんで、学生の友人みたいな会話内容なのに、3歳のお子が入った車の中の会話は、3歳のお子がその全てを支配した。


今日は仕事が押したのと中央道が渋滞していた事も影響して、帰宅予定時間が大幅に遅れた。

ひょんなこととはつまりそういうことなのだが、友人は保育園にお子を迎えに行き、僕を自宅近くまで送るというルート選択を取らざるおえなくなったのだ。

友人のお子が入っている保育園は、18時を越えると、30分毎に400円というシステムだそうだ。

最初は17時半には僕を自宅近くに送った後、保育園にお子を迎えに行くというのが本日の友人のスケジュール組みだった。

しかし仕事が押し、予想を超える渋滞で我々の地元に着いたのは19時の10分前。。最初渋滞にハマり始めた時には400円無駄な出費が増えることにイラついていた友人だが、その時の顔はまだ友人の顔だった。

しかしいよいよ地元に到着する時間が19時ギリになった時、友人の顔は完全に友人から父親の顔に変わっていた。数時間前まで他愛のない話で盛り上がっていた友人は、独り寂しく保育園でパパの迎えを待っている我が子に思いが全集中していて、渋滞を抜けた時のアクセルの踏み込みは半端なかった…助手席の僕の手には汗が滲んでいるほどに。

保育園についた時には駐車場に車を入れたとたん、勢いよくドアを開け走ってお子を迎えに行く友人。

そして車内で待っている僕は、もしかしたら独りで待っていた事に寂しくて泣いているお子の手を引いてくるパパ(友人)を想像していたが、それは杞憂に終わった。

好奇心旺盛な3歳の男の子は、見慣れない知らない助手席の男(彼は僕のことを“あたらしいひと“と呼んだ)に鼻を垂らしながら笑顔を向け、パパ(友人)に『〇〇、こんばんは!は?』と僕への挨拶を促されると、『こんばんは!』とあいさつをしてくれた。

僕の自宅までの道中、彼は覚えた言葉を『あの…』『あのね!』を何度も接続詞に使いながら一生懸命楽しそうに話した。

友人はお子の前では汚い言葉を極力使わないようにしているらしい。僕もその調子に合わせてお子の話をオウム返したり、リアクションしたりすると、お子はとても笑った。人見知りをしない、屈託のない笑顔の素敵なお子。

…な ん だ こ の 天 使 は …

もう可愛いしかない。可愛いは正義。もう一度…なんなんだこの天使は…!?


世の大多数なまともなお父さんお母さんは、この天使たちのために、世の中の理不尽と闘い続けているのか。。そして子供のためなら自分が犠牲になっても厭わないという人間のごくありふれた感情は、こうして生まれ継がれているのか。。

夫婦間は所詮他人だから、その関係が冷えたり温度を保ったり、家族ごとに差があれど、天使たちは自分の血を半分引いているワケだから本能で大切に、愛しく思う。と。つまりそういうことなんだな。。

結婚歴がなく、こどものいない僕は、そんな夫婦間のノイズにばかりに目が行って、結婚は人生の墓場だという言葉に大いに賛成していた。

恥の多い生涯を送って来た僕は、今さら天使たちを育てるという選択肢に舵を切ることは恐らく、今後もないのだろうが、過去の選択によっては自分の元に彼ら天使が舞い降りて来た世界線もあったのかもしれない。

羨ましさはないが、マジョリティである一般家庭の日常に一瞬でも足を踏み入れた僕は、自分のことを歪に感じた。しかしこの感情は自分の感情なので、歪さを感じても負の感情ではない。僕の主観では、彼らは僕の人生の登場人物にすぎなくて主役は僕なのだから。

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