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悪い音楽

20240730

長年にわたって12歳から15歳の子供に囲まれて生活していると気が変になり、論理的判断が難しくなってくるのは私にもとりあえず理解できる。就職した当初から同僚は変人ばかりなので、この程度の不条理が降りかかることに私はたいして驚かなくなっている。

いくつもの時間外労働と感情労働の果てに

「でもさ、アナタは笑ってるつもりじゃなくても、こう、人間って感情が自然と顔に出ちゃうものでしょう?」
「たしかにウケる状況ではあったよ。考えてもみてよ、色ボケ中学生に振り回される7人の大人たち」
「エモすぎ」

仮説。人間の感情を拡大させたすべての元凶は、音楽家や画家といったアーティストである。そこに詩人や小説家を付け加えてもいいかもしれない。彼らのような一部の突然変異、いわゆる「感受性豊かな」人々がまず、人間の感情が売り物になることを発見した。そして人々の心に訴えかける、よりエモーショナルな創作物を追求するプロセスにおいて、まだ知られていない新規の感情をディグることに精をだした。音楽や美術はニュアンス程度にしか感情を表現できなかったかもしれないが、小説家ならそれに名前をつけることだってできただろう。未知の感情を概念化して世間に普及させ、それを受け手が補強し、さらに後世のクリエイターが引き継ぎ、時代に即した表現媒体を用いて一層押し広げることとなった。もし歴史上に文学や芸術がなかったら、人類の心はもっと別の進化を辿ったのではないか?
この仮説が正しいとすれば、結局、人間が感情や心と呼んでいるそれは、人が既存のメディアから学習して自分用に編集した、いわばつくられた心に過ぎない。
例えば、藤原君が小見君に一発カマしたのも、「彼女を横取りされた男は嫉妬に狂うものだ」という、既にメロドラマで予習済みの感情を、自分の感情と取り違えたことによって起こった悲劇なのである。現代においてはそのつくられた心のバリエーションの多様さが、「人としての幅」とか「心の豊かさ」といった文脈で語られるまでになった。だから感情の乏しい人間はつまらなくて、欠陥があり、信頼にも値しないと見なされている。

人がアルコールを摂取する際の「酔い」が、私の場合、音を取り巻くある状況によって引き起こされるようなのだ。聞こえるはずの音が聞こえない時、あるいは聞こえないはずの音が聞こえている時、まず耳が錯乱し、脳が麻痺する。理性をなくしてハイになり、異常な言動を抑えられなくなる。

「将来、 米津玄師のようなアーティストになるにはどうしたらいいか」と無茶な相談をしにくる猿や、「楽器経験はないがバンドを組みたいので軽音部の顧問になってほしい」と頼みにくる猿が毎年のように出現する。猿というものは根本的に、音楽を人からちやほやされるためのファッションだと認識しているのだが、だからといって、ひとたび彼らに不十分な対応をしようものなら今度は猿の保護者が出てくることになる。保護者が出てきたら最後、教師の仕事はとどまるところを知らずに増え続ける。

他人が何を考えているかなんてわかるわけがないのだから考えても意味がない。多くの人は自分以外の人の心も、自分の心と同じような素材からでき、 同じような動きかたをするという幻想のもとで、人の気持ちを想像したり共感しようとしたりしてくる。

「私が彼の絵を見て感動していたのは、薬物による彼の幻覚に感動してたってことでしょ?バカみたいじゃない?そんなの、芸術でも何でもないじゃん。クスリなんかやってる時点でもう作品の『純度』は失われる。でも、アーティストと作品っていうのはきっと、切り離して考えるべきなんだよね?」

人が当然怒りを覚えるべき時に、彼女は怒りよりも先に悲しみを覚える傾向にある。例えば卑劣な人間に怒りを感じるのではなく、卑劣な人間を生みだした社会のほうを悲しむのだ。

もちろん私は、自分を良い教師であると思ったことなど一度もない。でも少なくとも、良い教師であろうと手を尽くしてきたという自負はある。能力の限界で真に良い教師にはなれないにしても、良い教師に「見える」ように鍛錬を怠らなかった。








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