猫を棄てる感想文 その6

戦争について

私はもちろん戦争を知らない世代、それどころかその知らない世代の2世くらいだろうか。

幼い頃 アンデルセンやグリム、ペロー、それにルイス・キャロル。ま、ざっというとおとぎ話と童話を聞き過ぎた幼児だった。だからといって、切なさを知らないわけではなかった。とりわけ『絵のない絵本』の道化師の話などはとくに言い知れぬかなしみを覚えた。

小学生になってから、夏がかなしくなった。とくに8月がかなしくなった。

『かわいそうなぞう』や『ほたるの墓』のアニメなどにふれて、大きな暴力の真っ先に犠牲になる小さなものたちの哀しみを見せられたから。

もっと経って、10歳前後のころ、毎年図書室の出入口とは反対側に飾られる原爆の記録を中心とした写真のパネルの意味が理解できると夏はこわいものになっていった。いつの頃からかそこを通るときには目をつぶり、全速力で駆け抜けた。無論廊下は走ってはならないから、先生が通らない時間帯の話。

戦争の学習で植え付けられたのは、いつ大きな爆弾が飛んできて、息で消える蝋燭の炎のように自身もあっと思う暇もなく、命の灯火を消されるかもしれないということだった。

中国人捕虜の描写、何故かあのイラクで殺されたジャーナリストの姿が脳裏に浮かんだ。

時や場のうねりのなかで、人はどう感じるのだろうか。

生け贄にされそうな羊は刃物を振り上げた僧侶にいう。

「悲しいかな、私もかつてあなたでした。」

捕虜の口よりも語る目はどちらを語ったのか。

理不尽に殺される怒りか立場が違えば自分が加害者だった分身に対する憐れみか。

実際の世の中において、近現代の文芸作品のようにはっきりとした因果律はあまり成立していない。

つまり追いかけても疑問を持つ続けても解けないなぞは残る。

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