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僕が出会った風景そして人々(番外編⑦)

発掘調査の範囲(時代・深さ)

さて、現場の発掘調査に話を戻そう。前々回に、重機による表土剥ぎを終えた後、自然堆積土をジョレンと呼ばれる道具で削っていくところまでお話ししたかと思う。

この後の調査について、ごくごく簡単に概要をお話ししてみたい。

その前に、僕の説明不足だった点について補足しておこう。

まずは、縄文時代はいつ頃からいつ頃までの期間をいうのかという問題。

僕が遺跡の世界を離れてからもう数十年も経つが、当時、縄文時代は草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分されており、一番古い草創期が、およそ1万2千年前まで遡ると考えられていた。
 興味のある方は、ウィキペディアなどで調べていただきたい。
 縄文晩期が3千2百年前~2400年前ぐらい(ウィキペディア調べ)で、その後は弥生時代~古墳時代と続くことになる。

縄文時代の前は旧石器時代あるいは先土器せんどき時代と呼ばれる。
 ヨーロッパの時代区分でいうと、ほぼ後期旧石器時代に該当する。

では、日本ではいったいどのくらい古い時代まで、遺跡が存在する可能性があるのだろうか。
 これは非常に難しい問題だが、僕が関わっていた頃は、武蔵野台地における発掘調査では、立川ローム層(注①)の最下部まで、だいたい3万年前までを目安に調査していたと思う。深さでいうと、関東ローム層を3メートルほど掘る計算だ。 

関東ローム層とは

ところで、この「番外編」を書き始めてから、たびたび出てくる「関東ローム層」について説明しておきたい。今回は少々堅苦しいお話しが続くが、我慢してちょっとだけお付き合い願いたい。

関東ローム層とは、関東平野を広く覆う火山灰起源の地層群である(ウィキペディアより)。

その成り立ちは、西方の富士山・箱根山、北方の浅間山・榛名山・赤城山などが噴火した際に出た火山灰が、風に運ばれて関東平野に堆積したものだ。

また、さらに遠方から飛来した火山灰も知られている。

姶良あいらTn火山灰(通称:AT)は、今から2万9千年前~2万6千年前に九州・鹿児島湾にある姶良カルデラの巨大噴火により噴出した、大量の火山灰が偏西風に乗って飛来したものだ。その降灰範囲は広く、2000kmにもおよぶというから驚きだ。北方へは、東北地方まで届き、朝鮮半島や中国大陸の一部にも降り注いだという。

鹿児島湾北部の姶良カルデラ。南側に桜島がある。(出典:ウィキペディア)


さて、自然堆積の土層の呼び方だが、上層から順に、Ⅰ層(黒色の表土層および歴史時代の文化層)、Ⅱ層(暗褐色土、弥生時代・縄文時代文化層)と呼び、その下の立川ローム層を8層に分けて(Ⅲ層Ⅹ層)いる。
 当然のことだが、下層の方が時代は古く、上層の方が新しくなる。

 先に述べた姶良Tn火山灰は、立川ローム第Ⅵ層に含まれる。数㎝程度の厚さで、やや白みがかっており、カマで削ると、かすかにシャリシャリと細かいガラス質の感触が伝わってくる。

ローム層は、火山灰が長い年月を経て風化したもので、粘性が強く赤土あかつちとも呼ばれる。最上部の第Ⅲ層は、今から約1万2千年~1万5千年前の地層で、旧石器時代はここから下となる。

立川ローム層(東久留米市川岸遺跡)

上の画像は、東京都東京都埋蔵文化財センターのサイトから拝借したもので、東久留米市の遺跡における立川ローム層の堆積状況がよくわかる。
写真では、上層のⅠ層、Ⅱ層はすでに調査済で削平されており、ローム層だけが見えている。

ああ、疲れた・・・。
 お堅い話はこれぐらいでやめておこう。武蔵野台地の成り立ちなど、機会があればまたお話しするとして、あとは僕の体験談を語ることにしよう。

関東ローム層を掘りまくる!

これは、とある現場での、旧石器時代調査のお話し。
 調査地は広い高台の縁にあたる箇所で、見晴らしも大いによかった。おそらく、太古の時代もそうだったろう。

すでに縄文時代の調査を終えて、調査地内に数カ所のトレンチを設定し、立川ローム層を少しずつ削平して旧石器時代の調査を行っている最中だった。
 いわゆる「深掘り」と呼ばれるもので、2m×4mに設定したトレンチ内をスコップでひたすら掘り下げる作業だ(上の写真参照)。
 当時、僕は調査会に入ってから1年ほど経っており、「調査員補」という身分になっていた。これは調査員と補助員の中間的な立場で、軍隊でいうなら先任下士官のような存在だった。

それは国の開発行為にともなう調査であり、縄文~旧石器の遺構や遺物も数多く検出されたので、マスコミの関心も高かった。

ある日、或る大手の新聞社が取材に来て、現場の調査状況を撮影することになった。

広い調査地の中で、たまたま僕の仕事ぶりが記者の目にとまったらしい。

「お仕事中、すみませーん。ちょっとスナップ写真を撮らせてください」
新聞記者がトレンチの上から僕を見おろしながら声をかけてきた。

僕は「どうぞ」と言い、作業を続けた。

その時、僕は「エンピ」と呼ばれる剣先スコップでロームを掘り下げる作業に没頭していた。僕が入っていた深堀トレンチは、すでにローム最上面から2m近く掘り下げられていた。トレンチの際にはベルトコンベアーが設置されており、深堀の底から放り投げられた土を調査区外に運んでいた。

数週間もの間、延々とその作業を続けていたので、僕はその作業に習熟していた。しかも、作業開始から2時間ほど経過していたので、前日の二日酔いもすっかり回復し、今まさに絶好調。
 僕が放り投げたローム土は、次から次へと、ほぼ正確に幅の狭いベルトコンベアー上に乗っかった。
 慣れない者がやれば、放り投げた土塊は途中でトレンチの壁に跳ね返って落下したり、ベルコンの上にうまく乗らなかったりしてひどいことになってしまうのだ。

「いやあ、実に上手いもんですね!」記者は妙に感心してしきりにシャッターを切っていた。そのせいか、肝心なことに気がつかなかったようだ。

その日、たまたま僕は青地に白抜きで寿ことぶきサウナという文字が大きくプリントされたTシャツを着ていた・・・。

明くる日の朝刊に掲載された写真を見て、発掘仲間はみな大笑いした。大きく写し出された僕の背中には、「寿サ」という文字が見えており、そこだけがヤケに目立っていたのだ。「ウナ」の文字が隠れて見えなかったのは、不幸中の幸いといえるだろう。

それからしばらくの間、発掘現場では、「寿サ!」と言われたら「ウナ!」と答える合い言葉が流行った・・・。

(続く)

注①立川ローム層:武蔵野台地は古多摩川が作り出した巨大な扇状地で、下方から順に多摩ローム、下末吉ローム、武蔵野ローム、立川ロームと呼ばれる”関東ローム層”が堆積している。


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