『僕が出会った風景、そして人々』⑤
本題に入る前に・・・
こんなこともあった。
友人たちと共同で借りた一軒家は、1階に風呂場と台所、ダイニング、そして8畳の和室があり、2階に6畳の和室が3部屋並んでいた。一番初めは4人で借りていたのだが、やがて学校の都合などで一人二人と出ていき、最終的に友人I(アイ)と僕の二人で借りることになった。
けれども大家さんがいい人で、家業のボイラー掃除が忙しいときに手伝うという条件で、家賃は据え置きにしてくれた。一軒家を二人で借りて1人1万円。数十年前とはいえ、破格の料金だ。おまけに、ボイラー掃除を手伝うと、1日6千円もらえた。何回か経験してスキルアップしたら、千円ずつ上がって最終的には日当8千円になった。
仕事の内容は結構キツかったが、貧乏学生にとっては実入りのいいアルバイトだった。
その下宿でのお話し。
ある日の夕方、1階の和室でIと一緒にテレビを観ていたら、家の前をやせ細った老人が通りがかり、サッシの網戸越しに「もらい人(にん)です・・・」と声をかけられた。
なんだか息も絶え絶えで、今にも死にそうな感じだったので、100円玉を2枚手渡した。すると、嬉しそうに「おありがとうございます・・・」と言い、深々とお辞儀して去っていった。
「もらい人って・・・。」僕とIは、しばらくの間、しみじみとした気持ちになって黙り込んだ。
そしてこんなことも。
ある日曜日の朝方だった。僕とIは、やはり1階の和室で寝転がっていた。前の晩、飲みすぎて二日酔いの状態だったので、朝飯も食べずにダラダラしていたのだ。
と、その時、遠くの方から、小学生と思しき男の子の、なんとも勇ましい歌声が聞こえてきた。
僕たちは、聞くともなく、その歌に耳を傾けていた。メロディは軍艦マーチだったが、替え歌の歌詞が秀逸だった。
「♬ 戦艦大和が沈むとき 女のパンツが浮かんでた それを見ていたヒロ君が 自分のパンツと取り換えた ♪」
な、なんとシュールな歌詞なんだろう!
その少年は、同じ歌詞を何度も繰り返しながら家の前を通過していった。
軍艦行進曲の作詞家さま、どうかお許しください。歌ってた男の子になりかわり、お詫びします・・・。
それにしても、ヒロ君っていったい何者?
(noteさん、すみません。18歳以上向けに分類しないでね。)
恋の話ふたたび。
○子ちゃん
第2話でご紹介した「赤提灯M」の娘さん。そう、数十年ぶりに僕に電話をかけてくれたご本人である。
年齢は確か、僕より4~5歳下だったと思う。
ウブで可憐な感じの女の子で、大きくつぶらな瞳、清純そうだが仄かに香る色気が僕の心を惹きつけてやまなかった。
僕にとっては『フーテンの寅さん』のマドンナみたいな存在で、恋というよりは憧れに近い感情だったと思う。残念ながら、お付き合いするまでには至らなかった。
彼女は時々Мへ来てご両親を手伝っており、夜、バスで家に帰る際、しばしば停留所まで送った。一緒に並んで歩きながら一生懸命、いろいろなお話をした。彼女は、僕のつまらない話に、いちいち相槌を打ってくれた。心根の優しい娘さんだった。
その後、ほどなくして〇子ちゃんはハンサムな男性と知り合い、結婚した。Мの常連さんはみな、心から結婚を祝福した。僕もそうだ。
すっかり忘れていたのだが、結婚式のとき、僕は式場にお祝いの電報を送ったらしい。当時の僕に、そんなシャレたことができたとは・・・。
◎◎◎に恋したこと。
僕が舎人に住んだ5年余りのうち、ほとんどの間、ひそかに思い続けた少女の名。
年は僕よりずいぶん下で、予備校生だった僕が彼女に初めて出会ったときは、まだ小学生だった。
僕たちが住みついた下宿の近所には、小さなお子さんのいる家庭が多く、引っ越してすぐに子供たちと一緒に遊ぶようになった。我々自身がかなり子供っぽかったせいもあり、とにかく子供に好かれた。
そういうわけで、大人たちよりもまず、子供たちが僕らを受け入れたのだった。入居後しばらくして、僕たちの下宿は保育所の様相を呈してきた。しまいには、よちよち歩きの赤ちゃんまで僕たちの部屋で遊んでいたほどだ。
おかげで、少しずつ大人たちも僕らを受け入れてくれるようになった。
「いつもうちの子がお世話になって・・・。」などと、食べ物を差し入れてくれたりして、ずいぶん助けていただいたものだ。
◎◎◎の家もすぐ近くだった。彼女が子供たちの中では年長だったこともあり、遊ぶ時はみんなを仕切っていた。僕によく懐いてくれて、一緒にマンガを読んだり、他愛もない遊びをして楽しんだ。
そう、はじめのうちは、可愛い妹のような存在だった。
けれどいつの間にか、僕は彼女を好きになり、そして恋してしまったんだ。
でも、そのことは、本人にはもちろん、周囲にも一切伝えなかった。
彼女が中学生のとき、親御さんから頼まれて家庭教師をするようになったのだが、その時も僕は彼女への思いを打ち明けるようなことはせず、ただひたすら、優しい(?)お兄さんとしてふるまった。
僕が舎人を去るときも、彼女に何も告げなかった。いや、本当は、何も言えなかったんだ。
当時の日記にはこう記している。
「たとえ、明日死ぬとわかっていても、僕の気持ちを伝えることはできないだろう。」
真剣に祈ったこと。
彼女が中学3年のときだった。個人が特定できて、迷惑をかけると申し訳ないので詳しいことは記さないが、大変なケガをして入院するという出来事があった。
僕は心配で、居ても立ってもいられなかった。けれども、結局は何もできず、無力な自分を本当に情けなく思った。
僕にできることといえば、毎晩のように飲んでいた酒をぴたりと止め、ひたすら祈り続けることだった。
僕は連日、夜更けから明け方にかけて、ひたすら「◎◎◎が元気になりますように」という言葉を書き続けた。ルーズリーフ1枚に108回、書けた。
僕は、このフレーズを1万回書くことに決めた。1枚あたり108回なので、
1万回だとルーズリーフ90枚以上になる計算だ。なんとなく、このぐらい書けば願いが叶うかもしれないと思い、とにかくひたすら書き続けた。
当時使っていた、日記帳を兼ねた創作ノートを見ると、「1ページ書くのに30分以上かかる」と記してある。
こうして僕は、ある期間、夜通し祈りの言葉を書き続けた。当時の僕はどうしようもない怠け者だったが、この時ばかりは真剣だった。
あの頃の僕はなんて純情だったんだろう。しみじみそう思う。
そのお陰かどうかは別として、彼女は奇跡的にほとんど傷も残らず全快した。僕は心底安堵したが、ルーズリーフの件は本人にも、誰にも話さず、舎人を出るまで僕一人の胸にしまっておいた。このことを、他人に告げてはいけないと思い込んでいたのかもしれない。。
(もう何十年も経ったので大丈夫かな。神様、許してくださいね。)
彼女が退院して初めて会ったときも、「治ってよかったな。」と、万感の思いをこめた声をかけただけで、あとは普通に勉強を教えた。もっとも、長期間入院していたため教えることが山ほどあり、話をしているヒマがなかったということもあるが。
ずいぶん昔のことなので、彼女の顔がどんなだったか、すっかりぼやけてしまっているが、パーツは何となく覚えている。色白で鼻が高く、サラサラの黒髪。二重瞼でキラキラと輝く美しい瞳・・・。
あとは声と話し方。これはとてもよく覚えている。少し鼻にかかった、甘えるような口調。
今回、久しぶりに当時の日記やエッセイなどに目を通し、密かに愛した少女がいたことを、懐かしく思い出した。
当時の記憶は既にすっかり薄れてしまっているが、その時に感じた、甘く切ない思いだけは、はっきり覚えている。
切なさで胸が締め付けられるような感覚は、一種の生理現象として、僕の脳というよりは、体が覚えているのかもしれない。
・・・ここまで読んでくださった皆さん。本当にありがとうございます。次回も、もう少し、純愛ロマンを語らせていただきます。
いいことも悪いことも、辛いことも楽しかったことも、すべて僕を育ててくれた、かけがえのない経験だと思います。
生きるってことは、時にはひどく辛いことだったりするけれど、なんとかその場しのぎでも生きていけばいい。そのうちいいこともあるし、いつだって、誰かがきっと見守っていてくれる。助けてくれる。
・・・ような気がします。僕は今まで、散々いろんな人のお世話になりました。だからこれから先は、ほんの少しでも誰かのためになれればいいなと思っています。
ということで、これからも辛抱強く、お付き合いいただけたら嬉しいです。
ではまた。
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