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(本)自分の意見で生きていこう――「正解のない問題」に答えを出せる4つのステップ

ちょっと不思議なタイトルですよね。
多くの人は、「自分の意見を持って生きとるがな」と思うかもしれませn。
けど、その自分で持ってると思っている「意見」は本当に意見でしょうか?
(と言われても、何言ってんだコイツ、と言う感じでしょうが・・笑)

本書は社会派ブロガーのちきりんさんが、この時代に自分の意見を持って生きていることの大切さ、それに絡めて今後世界はどう変化し、我々はどうすべきかについて書いたもの。

世の中の問題には、正解のあるものと無いものがあります。
正解のある問題については、正解か誤答しかなく、それは調べることによって解決が可能。
一方、正解のない問題については、個々人の意見があるのみです。そこに正解も不正解もない。だから、あなたの意見は間違っている・正しい、と言うのはそもそも言葉として成り立っていない、と言うわけ。

で、一歩踏み込むと正解のない問題についてのレスポンスとしては、意見と反応がある。意見とは、ポジションを明確にする(した)発言のこと。

結婚、手術、就職、進学。
人生の大事なイベントには答えのないものばかりです。
なので、そこにあるのは意見とそれに伴った決断(行動)のみ、なのですね。

意見と反応という切り口で世間を見てみると、いかにネット界が反応に溢れているかがよくわかります。よくいう炎上。間違ってる!そうじゃない!と言った発言や批判。それらはただただ反応をしているだけで、ほとんどが自分の意見を表明していない。意見を持つには考える必要があり、反応は脊髄反射的に対応可能で、考える必要がないから、楽なんですね。
そんな楽な反応ですが、自分の意見を持たずにいると、反応するのみで考えない→すると、他人に言われるがままの主体性のない人生になってしまいます。

意見という切り口で見ると、陪審員制度がなぜ導入されたかもよくわかりますね。
ここで、専門知識がないのに陪審員制度なんて危険!と考えた人は、学校教育のなんでも正解がある思考に囚われているのでご注意を。

裁判で争われる事象なんて、明確に誰が悪いというものはほとんどないわけです。
だからこそ、弁護士の中でも意見が割れる。そういう風に答えのない問題であれば、専門知識のある弁護士だって、一般市民だって、専門知識・法務的な知識の有無を除けば同じ土俵に立っており、一般の方複数の意見を取り入れて、当該裁判の結論についての出しましょうというのが制度導入の意図、というわけですね。


本書でも書かれてますが、学校教育に毒されていることもあって、我々は誰かが答えを持っていて、それを探すという行為ばかりをしてしまいがち。
手術をすべきか・すべきではないか?という答えのない問いに対し、判断材料となる情報を収集する(正解を集める)ことは良いのですが、最終的にどちらかと「意見」を決めるのは、命や人生の責任が持てる本人がするべき問題です。
何人お医者さんから意見を聞こうが、決めるべくは自分なのです。

ともすれば、何か問題にぶち当たった時にすぐ検索をしてしまいがちですが・・・
まずは、この問いに答えはあるのか・ないのかをきちんと見極め、あれば調べる、なければ考えるというのを習慣づけたいものですね。
じゃないと、いくら調べてもわからない問いの答えを永遠に検索するという残念な行動に結びついてしまいますので・・・
将来を考える上、また、問題について答えを考える上で非常に示唆に富んだ一冊でした。にしても、ちきりんさんはすごい・・・


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