アンフィニッシュト 1-2
そこには分厚い人だかりができていた。規制線が張りめぐらせてあるので、警察は容易に入れるが、マスコミの連中は、「すいません。道を開けて下さい」などと言いながら最前列に出ようとする。
時折、焚かれるフラッシュの光が隣のマンションの白壁に反射して眩しい。
作業服姿の寺島は、ヘルメットをかぶると軍手をはめた。焼け跡特有の強烈な臭いが鼻をつく。
——こいつは参った。
木造家屋の火災現場なら掘り起こしを行ったことのある寺島だが、何が焼けたのか分からないが、ここの臭いは強烈である。寺島は持ってきたマスクを付けると、その上から首に巻いたタオルで鼻と口を押さえた。
耐えられないほどの臭いにもかかわらず、現場の周囲は黒山の人だかりである。
——こいつらは平気なのか。
寺島は、そこに並ぶ様々な背を眺めた。中には焼失した簡宿から脱出してきたのか、泥だらけのまま、得意げに何かを話をしている者もいる。その話を野次馬たちは黙って聞いていた。
彼らは犠牲者と同様の貧しい者たちばかりなのだろう。その服や体から漂う独特の臭いが、それを如実に物語っている。
彼らは身近で起こった非日常的事態に驚くでも戸惑うでもなく、ただぼんやりと現場を眺めていた。
——これが今の日本の病巣か。
先日、テレビで見た特集番組が思い出された。それは貧しい独居老人に関するものだった。
高度成長期、川崎は京浜工業地帯を抱えた一大工業都市だった。そこには、あり余るほどの雇用があり、地方から多くの人々が集まってきていた。そうした人々は出稼ぎが大半で、安価な宿舎に入って半年ほど働き、春になると農事のために故郷に帰っていった。彼らの需要に応えるべく造られたのが簡易宿泊所、いわゆる簡宿である。
簡易宿泊所とは宿泊施設の一形態で、ホテルや旅館よりも設備が簡素な上、風呂とトイレは共同で食事も出ない。そのため宿泊代は一泊三千円もしない。
ところが今、簡宿は生活保護を受けている低所得者や、仕事ができなくなった高齢者が住む場所へと変貌を遂げていた。彼らは頼るべき身寄りもなく、行くべき場所もなく、それぞれが追い立てられるようにして簡宿に逃げ込んできた。
軍手をはめた寺島は、「警察です。もっと下がって下さい」と言いながら、規制線の中を進んだ。
——こいつはひどいな。
視界が開けると、増田屋のすべてが焼き尽くされていると分かった。
焼け跡には、瓦礫の間に焼けたマットレスや焦げた薬缶が散乱し、周囲一帯は水浸しになっている。
昨日まで、そこに建っていた簡易宿泊所・増田屋は焼け落ち、一部に骨組みだけが残る状態である。一方の末吉は一階と二階の一部が焼け残っているものの、三階部分は焼け落ち、内部に陥没していた。
かつて川崎市富士見二丁目の独身寮から徒歩で署まで通っていた寺島は、ここに二棟並んで建っている簡宿の前を通っていた。
その時は外観など、さして気に留めなかったが、増田屋の石造りをイメージした外壁材や、入口の横だけに、いかにも風情ある竹製のフェンスが立っていることくらいは覚えている。
それとは対照的に、末吉は1970年代の木造建築そのままに、不愛想な木骨系モルタル造りの外壁で、何ら味わいを感じられなかった。ところが宿泊費は双方共に一泊二千三百円と同額である。同じ敷地内でオーナーは同一人物なのだが、そのコントラストを不思議に思ったことがある。
増田屋の隣のコインパーキングに佇み、消防士たちが瓦礫の撤去を行うのを見ていると、背後から肩を叩かれた。
「ああ、野崎さん」
「眺めていても、何も始まらんぞ」
自慢の銀縁眼鏡に手をやりながら、野崎が鋭い視線を向けてくる。
「すいません」
「まだ、こうした場合の手順は、完全に分かってないな」
「ええ、まあ」
「掘り起こしの態勢が整ったら、県警の火災犯が入る。それからが『掘り起こし』、つまり、われわれの出番だ。何せ宿泊者名簿が燃えちまったんで、何人泊まっていたかも、何人死んだのかも分からない。残渣の中には遺体も埋まっている」
銀縁眼鏡を神経質そうに拭きながら、野崎が手順を説明する。
「すいません」
「いいってことよ。これからもいろいろ教えてやるから、死ぬ気で働けよ」
「は、はい」
その時、ちょうど瓦礫の中から遺体が見つかったらしく、大声で誰かを呼ぶ声がすると、瞬く間にブルーシートの幕が張られていく。その中でフラッシュが明滅するのは、現場鑑識が、あらゆる角度から写真を撮っているからだ。
やがて遺体が運び出されていく。遺体は死者に対する敬意と証拠品としての重要性から、極めて慎重に扱われる。とくに火災の場合、炭化していることが多く、原形をとどめることに細心の注意が払われる。運び出された遺体は、署の地下にある霊安室に運び込まれ、検視官によって検死が行われる。
死因は火事の場合、火傷死・焼死・CO中毒死(有毒ガスによる窒息死)の三種に大別されるが、単一の原因であることは逆に珍しい。すなわち窒息して気を失い、動けなくなったところを火傷死か焼死するといったことが多い。火傷死と焼死は、やけどを負った後に死亡した場合と、火災現場から焼死体として発見された場合の違いである。いずれにせよ、心臓を一突きされて死ぬことに比べると、死に至るまでの苦しみは言語を絶するものになる。
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