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『威風堂々』刊行記念特集2 江藤新平とは何者か【人間発電所日誌】第一〇七号

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こんばんは。伊東潤です。
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〓〓今週の人間発電所日誌目次〓〓〓〓〓〓〓

1.はじめに

2. 江藤新平 この国の礎を創り上げた「真の勝者」
①驚くべき先見性を持った若者
②藩政改革の成功、そして中央政府へ
③「創造性」と「実務能力」

3. おわりに/質問コーナー

4. お知らせ奉行通信
新刊情報 / イベント情報 / Voicy・ラジオ出演情報

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1.はじめに
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 いよいよ2月ですね。相変わらずコロナ禍は続いていますが、専門家によると、4月には第六波も去っていくようなので、もう少しの辛抱です。
 ということで、1月7日に刊行された『威風堂々(上) 幕末佐賀風雲録』『威風堂々(下) 明治佐賀風雲録』は、おかげさまで順調に売れております。それでも順調という域は出ていないので、もう少し売れてほしいですね(笑)。

 さて今回は、前々回(105回)のメルマガでも取り上げた『威風堂々』の刊行記念特集第二弾として、大隈重信の先輩で幕末から明治初期において偉大な足跡を残した江藤新平について取り上げたいと思います。奇しくも2月は佐賀の乱のあった月です。江藤はこの戦いで敗れて処刑されるわけですが、その壮絶な生き様を皆さんに知っていただきたいと思っています。

 今回は「歴史街道」2018年4月号で特集された「鍋島閑叟」特集号の中で、私に託された江藤新平の章を短縮版でお送りします。なお江藤新平については、『敗者烈伝』でも取り上げていますので、そちらもぜひお読み下さい。

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2. 江藤新平 この国の礎を創り上げた「真の勝者」
①驚くべき先見性を持った若者
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 佐賀藩には、幕末から明治にかけて活躍した「佐賀の七賢人」と呼ばれる人たちがいました。江藤新平もその一人ですが、いまだ評価が低すぎるような気がします。確かに幕末維新の際、江藤は華々しい志士活動をしていません。明治の世となってから、何となく現れて瞬く間に去っていったというイメージを、多くの方が抱いているのではないかと思います。しかし江藤なくして近代日本への第一歩はなかった、といっても過言ではないのです。

 江藤新平は天保五年(一八三四)、佐賀の下級武士の子として生まれました。食べるものにも困る貧しい家の出でしたが、向学心旺盛な江藤は、藩校弘道館に入学すると抜群の成績を修め、頭角を現していきます。
 青年期になると、佐賀藩を代表する国学者の枝吉神陽の私塾で学ぶようになります。この枝吉神陽が尊王を旨とする「義祭同盟」を立ち上げたことで、江藤の運命も変わっていきます。
「義祭同盟」とは、元を正せば楠木正成父子を顕彰する集まりでしたが、時代の波を受け、尊王攘夷論から王政復古支持へと向かっていきます。佐賀藩は幕府から長崎警備を命じられており、他藩に比べると、海外の脅威を身近に感じられる位置にいました。また藩主の鍋島閑叟(直正)は薩摩の島津斉彬同様、開明的で西洋の文物や技術に興味を持つ蘭癖大名でした。

 そうした環境の中、江藤は開明的な思想を形成していきます。その考えは、安政三年(一八五六)に江藤が閑叟に提出した、『図海策』という意見書によく出ています。この書で江藤は、国を開いて通商を盛んにし、富国強兵を進めていくべしと唱えており、ペリー来航の三年後という極めて早い時期に、江藤が開国論を主張していたことが分かります。佐賀を出たことがない二十代前半の若者にしては、驚くべき先見性ではないでしょうか。

 時代が急速に変わろうとする中、薩摩や土佐などの雄藩は、当時、政治の中心となっていた京都に人材を送ります。それによって日々変わっていく情勢を、国元に伝えようとしたのです。しかし公武合体を目指していた鍋島閑叟は、そうした活動に積極的には加わりませんでした。
 その一方、義祭同盟には将軍に「大政奉還させて王政復古を目指す」という考えがありました。それを実現するためにも、まず閑叟を動かさねばなりません。そこで江藤は、京の公家衆を動かすことで閑叟に政局へ関与してもらおうと考え、文久二年(一八六二)に脱藩して上洛します。

 この上洛行は江藤にとって、新たな出会いをもたらしましたが、失望もありました。当時の「志士」たちは、理想論を言っては悲憤慷慨するばかりで、具体的な行動計画を立案できる人材がいなかったからです。結局、江藤は三カ月ほどで藩に戻りました。
 
 ただし戻るといっても脱藩したわけですから、死罪になっても文句は言えません。ところが、戻った江藤には厳しい処罰が下されませんでした。閑叟によって永蟄居という処分に留められたのです。閑叟は京都を中心とした政治活動には関わりたくないものの、情報は欲していました。その意味で江藤は、この上ない情報源だったのです。

 おそらく、脱藩する前に提出した『図海策』に目を通した閑叟は、江藤の見識を高く評価していたのでしょう。はからずも自ら提出した意見書が命を救ったのです。その後、慶応三年(一八六七)、将軍徳川慶喜の大政奉還に伴い、赦免された江藤は、閑叟の命で上洛し、新政府の東征大総督府軍監に任命されます。

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