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第六十八号 『囚われの山』と八甲田雪中行軍遭難事件特集

今回は来週発売の新作
『囚われの山』にちなんだ
「八甲田雪中行軍遭難事件特集」
です。
(お知らせ奉行通信内の
「ブックカバー演出写真大賞」企画も
是非ご覧ください)


〓〓今週の歴史奉行通信目次〓〓〓〓〓〓〓


1. はじめに

2. 八甲田雪中行軍遭難事件
【事件の概要】

3. 八甲田雪中行軍遭難事件
【事件の経過】

4. 八甲田雪中行軍遭難事件
【事件の原因】

5. おわりに / Q&Aコーナー / 感想のお願い

6. お知らせ奉行通信
新刊情報 / ブックカバー演出写真大賞 /
オンラインイベント情報 / その他


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1. はじめに

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都心ではウイルス感染者が
思ったようには減らず、
元の生活に戻るのは容易ではありません。
かなり厳しい第二波の可能性もありますので、
まだまだ注意は必要です。


個人的なことですが、コロナ禍によって
偶然もたらされたものとして、
ウォーキングの習慣があります。
夜明けから1時間10分ほど
根岸台公園を歩いてくるのですが、
空気はいいし、人は少ないので
実に快適です。


ウォーキングを始めたのが3/12なので、
かれこれ4カ月になりますが、
きっかけは長らく
作家仲間として付き合いのあった
誉田龍一君の死なんです。
3/12の早朝にその知らせが入り、
ショックで仕事が手に付かない状態になったので、
外を歩いてみることにしたのが始まりでした。


今でも、その日の青空を覚えています。
「誉田君は、
この青空を見ることができないんだ」
と思うと悲しくて悲しくて、
涙を堪えるのに必死でした。


ウォーキングの習慣は偶然の産物でしたが、
誉田君の置き土産だと思い、
これからも続けていくつもりです。


さて、それでは今回のテーマ
「八甲田雪中行軍遭難事件」に入ります。

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2. 八甲田雪中行軍遭難事件
【事件の概要】

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明治三十五年(一九〇二)一月二十三日、
青森歩兵第五連隊第二大隊二百十名が
雪中行軍演習を実施すべく、
八甲田山中にある田代温泉を目指して
兵営を出発した。

しかし折からの天候悪化により
暴風雪が吹き荒れ、
山中をさまよった末、
百九十九人もの犠牲者を出した。


この「八甲田雪中行軍遭難事件」は
世界山岳史上、
最多の犠牲者を出した事件として知られ、
多くの教訓を後世に残してきた。
しかし幾歳月を経るうちに、
この事件は歴史の中に埋もれつつあった。


それが昭和四十六年(一九七一)、
新田次郎氏が『八甲田山死の彷徨』
を出版し、その後、
映画『八甲田山』が大ヒットしたことにより、
忘れ去られようとしていたこの事件が
脚光を浴びることになる。
そして新田作品の発刊から
五十年の歳月を経て、
私が『囚われの山』を発表することになった。
その発売に先立ち、
今回はこの事件の概要について
記していきたいと思う。

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3. 八甲田雪中行軍遭難事件
【事件の経過】

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明治維新から三十五年、
西南戦争からも二十五年しか経っていない明治三十五年、この事件は起こった。


当時の日本は、
日清戦争には勝ったものの、
南下政策を取るロシアとの激突が
不可避となりつつあり、
状況次第でロシア艦隊が
津軽海峡を制圧する作戦に出てくることも考えられた。


すなわち青森湾に
ロシア艦隊が進出してきた場合、
湾沿いを走る陸羽街道や東北本線が
艦砲射撃に晒される可能性が高まる。
そのため太平洋に面した八戸方面から
青森に物資を補給するために、
内陸部の八甲田山中を通る経路を踏査しておく必要があった。


一月二十三日、午前六時五十五分、
雪中行軍隊は筒井村(現青森市内)にある兵営を出発する。
ちょうど青森市から八甲田山は南に位置するので、田代街道を南下していく形になる。


兵営から三キロほど離れた幸畑までは
平坦地が続き、
雪もさほど降っていなかった。
七時四十分頃、幸畑に着いた行軍隊は
陸軍墓地に参拝する。
ここには先の日清戦争で戦死した
第五連隊所属兵士の墓がある。
まさか数日後、ここにいる者の大半が、
この地に眠ることになるとは
思ってもみなかったに違いない。

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