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アンフィニッシュト 47-1

サンデー毎日(毎日新聞出版)にて2017年秋まで連載していたミステリー小説を毎週火・木にnoteにて復刻連載中。
1960年代後半の学生運動が活発だった日本を舞台に伊東潤が描くミステリー小説。

「国家権力を守るために、俺は戦ってきたわけじゃない」
「おいおい、あんたも俺も、奴らにとっては虫けら同然なんだぜ。虫けらが何を言ったって、誰も聞いてはくれないよ」
「俺たちは、政府にとって虫けらなのか」
「そうだよ。虫けらさ。でも日本政府だって、せいぜい犬ぐらいのもんだよ」
 岡田が鼻で笑う。
「どういうことだ」
「何と言っても、わが国には、総理大臣の上がいるからな」
「天皇家か」
「よしてくれよ」
 岡田が噴き出す。
「アメさんだよ。奴らは日本の生殺与奪権を握っている。戦争に負けた上に安保条約で守ってもらっているんで、日本政府はアメさんの命令に逆らえないのさ」
 琢磨は岡田の経歴を思い出した。岡田の祖父は財閥並みの財産を残したが、両親は戦争によって全財産を失っていた。
「君のご両親も、戦争では苦労したというじゃないか」
岡田が鼻で笑う。
「俺が岡田金太郎だという証拠は、どこにもないんだぜ」
「何だと」
「岡田金太郎が生きていたのは戸籍上のことだ」
 ――つまり、岡田金太郎という人物はすでに死んでいて、この男は、金太郎になりすましていたというのか。
 琢磨の頭は混乱した。
「どういうことだ。君は誰なんだ」
「誰でもいいじゃないか。ただの公安さ」
「それは分かった。君が誰であろうと構わない。だがなぜ、俺に正体を告げなかったんだ」
岡田があきれたように苦笑する。
「そんなことを知らせたら、あんたが奴らに転んだ時、俺はこれさ」
 岡田が手刀で自分の首を左右に引いた。
「転ぶ」とは、裏切りを意味しているのだろう。
 琢磨は不満を抱いたが、岡田の言うことにも一理ある。
 ――確かに俺は学生運動に惹かれていた。それは、桜井への恋慕の情と混同されてのものだったが。
「いよいよ河口だぞ」
 それまで両岸に見えていた灯りが、ある地点を境に全くなくなっていた。おそらく、そこは海なのだろう。気づくと船のローリング(縦揺れ)も激しくなってきている。外洋からの波の影響だろう。
「あれが南浦(ナンポ)だ」
 南浦とは、大同江の河口にある北朝鮮最大の工業都市のことである。夜明けを迎えたばかりなのに、コンビナート一帯に無数の灯りが明滅している。
 続いて、そこだけが光に包まれたような島が見えてきた。
「あれは何だ」
「あれは牛臥島(ワウド)だろう。北朝鮮唯一のリゾート地で、労働党のお偉いさんたちは、あそこで家族と過ごすらしい。おそらく、あそこだけは一晩中、盛り上がっているのだろう」
 光の輪がゆっくりと回っているのが見える。どうやら観覧車らしい。
「あれは夜の間、回っていたんだろうか」
「そうかもな。何といってもこの国は、労働党の意向一つで何でもできるからな」
「いずれにせよ、これで北朝鮮ともおさらばだな」
「いや、まだ油断はできない。大同江河口と外界を堰き止めた西海閘門(ソヘこうもん)には、軍事施設があり、検問も行われている」
「何だって」
 琢磨は、そんなことは全く知らなかった。
「だが、すべての船舶というわけではない。とくに外海から入ってくる船は厳重にチェックされるが、出ていくものは、さほど厳しくないと聞いている」
「いったい、そんな情報をどこで――」と問い掛けたところで、波を蹴立てて船が近づいてくる気配がした。
「来たぞ。さっきと同じように、とぼけてやりすごそう」
「分かった」
 やがて小型のボートが横付けされた。琢磨たちの乗る警備艇よりも一回り小さいのは、閘門周辺の警備だけに従事しているからだろう。
拡声器を手にした兵士が、「どこに行く」と問うてきた。
岡田は傲然と胸を反らし、「君らに告げる必要はない。警備艇番号を警備課に問い合わせろ」と怒鳴り返した。
確かにこうした場合、居丈高に出る方が効果的だと聞いたことがある。
士官らしき者はいないのか、若い連中が額を寄せ合い、何か相談している。
「早くしろ!」と岡田が怒鳴ると、ボートの乗員は、手を大きく振って閘門を通るように指示してきた。
「そうか。外海は目の前に広がっていても、ネットで出入りができないようになっているんだな」
「そうさ。そんなことも知らなかったのか」
 岡田が鼻で笑う。
 岡田は警備艇を徐行させながら、指示された方向に向かった。
やがて島陰から、コンクリートでできた巨大な建築物が現れた。それは、三本の太い橋脚の間に鉄の扉が二つ付けられている異形の建物だった。その上に事務所らしきものが載っている。おそらくそこで、閘門の開け閉めを行っているに違いない。
灯りが煌々とついているので、その部屋の内部は、こちらからもよく見える。
ボートから連絡を受けたのか、片方の閘門が少しずつ開いていく。
その時、そこにいた一人が電話を取るのが見えた。
その人物の視線が、琢磨たちの乗る船に吸い寄せられる。
 琢磨は嫌な予感がした。

著者:伊東潤(Twitter公式サイト
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。日本アイビーエム株式会社を経た後、外資系企業のマネジメントを歴任。2003年にコンサルタントに転じて2006年に株式会社クエーサー・マネジメントを設立。2007年、『武田家滅亡』(角川書店)でメジャー・デビュー。2010年に専業作家となって今に至る。

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