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【短編】今宵あなたと千日手

ミステリ作家・早坂吝先生に恋愛をテーマにした小説を書いて頂きました。『○○○○○○○○殺人事件』で第50回メフィスト賞を受賞、デビュー。
ミステリ作家として超個性的かつ意外性のある作品を毎回放つ早坂さんですが、今回の短編は……なんと時代ものです!!

作者プロフィール

早坂吝(はやさかやぶさか) 2014年、『○○○○○○○○殺人事件』で第50回メフィスト賞を受賞し同作でデビュー。その後、同作主人公の上木らいちが主人公の『援交探偵』シリーズ、『探偵AI』シリーズなどが代表作。

今宵あなたと千日手

 ぬばたまの闇に一輪の花が咲いた気がした。生来目が見えない私は花を見たことはないのだが、香りや手触りから気持ちを和らげるものだということは知っている。だが闇に浮かぶその花はどこか心をざわつかせる毒々しさがあった。
 その花が口を利いた。
「ようこそおいでくださいました、岩田検校(いわたけんぎょう)様。あちきは花魁の香玉(こうぎょく)でありんす」
 最高級の箏が奏でるような美しい声色だが、微かに不協和音も感じる。そんな印象を受けるのも、初めて吉原に来た緊張と、私が潜在的にこの町に抱いている反感のせいかもしれない。
 男の沽券などというものを振りかざす性質ではないが、まずは気圧されないようにと声を張った。
「ほ、本日はよろしくお願い申し上げます」
 ――慚愧、声が上ずってしまった。
 襖が閉まる音。花が近付いてくる。
「もう駒も並べて。本当に将棋がお好きなんですね」
「ええ、まあ、ですから将棋の相手ができる方をと」
「何のお相手でもいたしましょ。将棋でも、他のことでも」
 香玉は私の隣に座ると、すっと私の右手を取った。
 一瞬、毒蛇が絡みついたような気がして、私は反射的に手を引いた。
 しかしすぐに我に返り、非礼を詫びた。
「すみません、本当に将棋だけで結構なのです。何というか、その、夜伽のようなことは要りません」
 香玉は、ほほ、と笑った。
「主(ぬし)さん(あなた)、それならどうしてこんなところに来なすったの」
「……付き合いですよ。江戸には仕事で来たのですがね。役人の方が吉原を案内してくださるとのことで、断るに断り切れず」
 その役人は派手な晩餐を共にした後、今は別の部屋に入っている。
「お役人に接待されるなんて偉いんですねえ。検校様ですものね」
 検校様、か。
 その称号で呼ばれる度に心が重くなる。
「偉くなどありませんよ。所詮は金で買った官位です」
 我々目の見えない者は江戸幕府によって手厚く保護されていた。目の見えない者は当道座という組織に所属し、音楽・鍼灸・按摩・高利貸しといった職業実績を積むことで、座頭などの官位を経て検校という最高位に至る。
 が、この地道なやり方では一生かかっても検校になれぬ者も多い。若い私などはもってのほかである。私が取ったのはもう一つの方法だ。検校位は金銀で買うこともできるのだ。
 金を払ったのは私ではない。私が生まれついた武家の名家である。すなわち私は親の庇護のもとで生き存えている。
 それを幸運と考えることもできよう。だが芸事や医学で名を馳せた検校たちと比べるにつけ、何も成し得ていない己がひどく矮小な存在に思えて仕方ないのだ。
 ただ一つ、私には光が残されている。将棋の才だ。これだけは幾ばくかの自負がある。将来は将棋に関する仕事に就ければよいと、日常業務をこなしながら伝を探しているところだ。
 もっとも、このような身上を会ったばかりの花魁にまくし立てても興醒めだろう。そこで黙りこくっていると、香玉が言った。
「それでもあちきよりはずっと偉いでしょう」
 いやいや、自分の才覚で生きている貴女の方がずっと偉いですよ。
 喉元まで出かかったその言葉を、すんでのところで飲み込んだ。謙遜を通り越して無礼だと思ったからだ。
 確かに花魁は華々しい存在だ。検校が盲官の最高位なら、花魁は遊女の最高位。気に入らない客を追い返す権力も持っている。だがその実態は、借金のカタに売られてきた女たちだ。当人は誇りを持って働いているかもしれないが、何も知らない部外者に「偉い」などと言われたらいい気分はしないだろう。
 かくして私はまた口を閉ざすことになった。まあ元より会話を楽しむつもりもない。将棋が指せれば、それでいい。
「早速ですが一局お願いします」
「まあまあ、よほどお好きなんですねえ。よござんす。お相手させていただきましょ」
 盤の向かいにふわっと座る気配。
「先手は差し上げます」
「それはいいですが、こちらの指し手はどのように……」
「符号を読み上げてくだされば分かります」
「そうでございますか。それでは七六歩にございます」
 ぱちり、と奥ゆかしさの中にも自信のある駒音。「将棋を指せる方を」の注文に応じて来ただけあって、相当指し慣れているようだ。駒を持つすらりとした指先が脳裏に浮かぶ。
 私は端から順に触れて目的の歩兵を確認してから、一つ前進させる。どうやら高級な盤らしく満足の行く駒音。この音だけが私がこの世界に存在していることを証明してくれる。そんな気がする。
 どこかから聞こえていた嬌声も、じきに気にならなくなった。香玉が符号を読み上げる声と、駒音だけがする。盤上没我。
 将棋の駒には文字が書かれているらしいが、私には分からない。代わりに見えているのは、飛車なら縦横十字、角行なら斜め十字といったように、駒の動きに対応した光の筋だ。盤上は複雑に交差する光芒に満ちている。私は思索に沈んでいく……。
 どれくらいの時が経っただろうか。
「負けました」
 この言葉を発したのは他ならぬ私の方だった。
 信じられぬ。
 幼い頃から腕自慢で、特にこの域に達してからは負けたことがなかった。その私が花魁に負けた。
 いや、何も花魁を馬鹿にしているわけではない。しかし花魁にとって将棋は客を接待するための余技であって、本業にあらず。まあそれを言い出せば私も本業ではないのだが、行く行くは本業にしたいと思っているわけで、そういう人間がこんなところで負けているわけにはいかない。
 私は盤から顔を上げ、香玉がいると思われる方向を睨み付けた。
「もう一局お願いできますか」
「ええ、何局でも。夜は長いですから」
 勝ちを当然と思っているような余裕の口調が、私に火を付けた。
 まぐれだ。まぐれに決まっている。
 将棋は基本的に実力が出る遊戯だが、それは何局も回数を重ねた場合であって、一発勝負なら下位者が上位者に勝つことも充分あり得る。なぜなら将棋がとても難解だからだ。将棋は眼前の相手との知恵比べであると同時に、将棋の神様への挑戦という性質もある。神様の謎かけが解けなければ、そのまま敗北してもおかしくない。
 もちろん著しく実力差のある相手には負けないから、香玉もそこそこの指し手ではあるのだろう。私も気を抜いていた部分があった。だがもう油断はしない。全力で叩き潰す。
「四五銀」
「あっ」
 叩き潰されたのは私の方だった。
「負け……ました……」
 臓腑の底から声を絞り出す。ああ、自ら負けを宣言しなければならない将棋の残酷さよ!
「いやいや、検校様もお強い。かように強い殿方は初めてでありんす」
 本来私が言うはずだった台詞を平然と口にする香玉。だが腹は立たない。もはや認めざるを得ないだろう。彼女の方が私より格上だと。
「貴女は一体何者なのですか」
「あちきは香玉。しがない花魁でありんす」
「そういうことではなく、どうしてそんなに将棋が強いんですか」
「それじゃあ、ちょいと昔話でもさせてもらいましょか。もう一局指しながら。……どうせ主さんもまだ満足できてないんでしょ?」
 見透かされている。思わず苦笑が漏れた。
「それでは三局目を……と、その前にすみません、厠はどちらでしょうか」
「あら、それじゃご案内いたしましょう」
「いえいえ、場所を教えていただければ自分で行けますので」
「そうおっしゃらず。大事なお客様に怪我をさせるわけにはいきませんから。さあさ、お手を拝借」
 花の香りが強くなったかと思うと、私は再び手を取られていた。先刻は思わず振り払ってしまったが、今おずおずと握り返してみると、不思議と懐かしいような馴染むような感じがあった。母の手に似ているのだろうか――いや、違う。では一体?
 私は香玉に手を引かれて廊下を歩いた。そこかしこから秘めやかな、あるいはあけすけな閨の声が聞こえてくる。思わず体が熱くなったのを香玉に気取られていないだろうか。
「こちらが厠でござりんす。お手伝いいたしましょうか」
「さすがに大丈夫ですよ!」
「そうですか。それではごゆっくり……」
 私は手探りで厠の構造を把握し、用を足した。 
 扉を開けて廊下に出ると、少し離れたところから香玉がすっと出迎えてくれる。
 私は彼女に手を引かれて廊下を逆戻りした。やはり彼女の手には安心感がある。無明の闇すら恐れず、ずんずんと突き進んでいけるような安心感が。その正体は何なのだろう――と考えたところで答えが分かった。
 私はその喜びから咄嗟にこんなことを口走ってしまった。
「やっと分かりましたよ。香玉さんの手は私の手と似ているんですね。どちらも将棋を指してきた人間の手だからでしょう。だから馴染む感じがするのか」
 よく考えると歯の浮く口説き文句と捉えられかねない台詞ではないか。そう気付いた時にはすでに遅し。香玉は手を強張らせると、私の手を振り払った。
「気障なことをおっしゃる。将棋しかしないのではなかったのですか」
 そう言って何処かへと立ち去ろうとする。
「ちょ、ちょっと待って……」
 私は慌てて彼女を追った――が、すぐに柔らかいものに衝突した。
 私は香玉に抱き留められていた。
 彼女はくすくす笑いながら言った。
「目の見えない方を置き去りにするわけないじゃないですか。さあ、部屋に戻りましょう」
 参った、すっかり手玉に取られている。
 私はふわふわした春の雲のような心持ちで盤の前に戻った。
 ――否、こんな生ぬるい気持ちでは駄目だ。
 私は自分の両頬をぴしゃぴしゃ叩いて気合いを入れ直した。次は必ず勝つ。
「それでは改めて三局目をお願いします」
「遊びに本気になれる殿方って素敵。あちきにも火が付きました」
 今までの二局は、場所柄に合わせて華やかな将棋をしようと大捌きにこだわっていた側面があった。今度は低い陣形で固めて慎重に戦ってみよう。そうすれば勝機が見えてくるかもしれない。
 指し手の合間に香玉の声が流れ込んでくる。
「そういえば昔話をご所望でしたね。遊郭には農村から女衒に売られてくる子も多いですが、あちきは江戸の下町生まれでありんす。住んでいた長屋は隅田川の本当にすぐ側で、夏になるとぷんと嫌な臭いが漂ってきて虫がたくさん……あらまあ、汚い話をしてしまいましたね。とにかく私はあまり好きな町ではなかったというわけです――四二玉」
 香玉は話を一区切りさせるように符号を口にする。そして私の手番の間は沈黙を保っている。ただでさえ盤面が見えていない私の思考を乱さないよう気を遣ってくれているのだろう。
 話の続きは気になるが、だからといって軽々に指し進めるわけにはいかない。熟考してから次の手を指すと、香玉は話を再開した。
「あちきの父はほとんど家にも帰らず賭け将棋に明け暮れる碌でなしでございました。しかもそのお金が我が家に入ってくることはほとんどなく、飲み代や女遊びに消えてゆく始末。そんな父に愛想を尽かした母は鳶の男と浮気をして、ボロ家に一人残されたあちきは将棋盤だけが遊び相手だったのです」
 私はかつて目が見えない運命を呪ったこともあった。だがこのような不幸な生い立ちを聞かされると、名家でぬくぬくと育ち検校になるための金銀まで出してもらった自分はまだ恵まれていると思わざるを得ない。
「あちきが十二の時、父の死体が隅田川に浮かびました。八九三(やくざ)の賭け将棋を代行する代打ちに敗れ、詰め腹を切らされたのです。真夏でしたので虫が集って惨めな末路でした。八九三から負け分を請求されるのを恐れたのでしょう、母はすぐに鳶の男と夜逃げをしました。そして一人置いていかれたあちきが、負け分のカタとしてこの遊郭に売られたのでございます」
 聞いているうちに腹の底からふつふつと怒りが沸いてきた。遊郭の楼主は仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つを忘れた非人道的な存在として「忘八(ぼうはち)」と呼ばれるが、この話においては八九三も両親も皆「忘八」ではないか。どいつを恨めばいいのかも分からない。
 だが淡々と語る香玉に「我は怒れり」と表明することが果たして正しいことなのか分からない。私は深呼吸をして気を鎮めてから次の手を指し、同時に聞きたかった質問をした。
「……将棋はそのお父上に教わったのですか」
「はい、珍しく家に帰ってきた時には必ず将棋を教えてくれました。それだけが唯一の思い出でござりんす」
 そう話す香玉の口調は柔らかかった。私は彼女の子供時代が悲しい思い出ばかりではなかったことに安堵して、こう言った。
「そしてここまで将棋が強くなった。貴女はお父上が好きだったのですね」
 すると、しばしの沈黙。
 空気が変わった。
「好き? 好きですって? 将棋を――たかが遊びを――ちょっとしただけで嫌いな人を好きになる? そんなことござりんせん。あちきはいつかあの憎き男を倒そうという一心で将棋の研鑽をしてきた。それだけでありんす――四五歩」
 四五歩!? もう攻めてくるのか。無理攻めではないのか。
 しかし少し読みを入れてみると、それは私の隙を突いた好手であることが分かった。攻めは成立している。
 脳裏に般若の面が浮かんだ。
 もちろん私は般若の面を見たことがない。しかし手触りでその形を確かめたことはある。その禍々しい彫りから、般若が女の怒りを表現しているということがよく理解できた。
 盤石だと思っていた私の囲いはいとも容易く崩された。
「――負けました」
 どうやら私は失言をしてしまったようだ。そうだ、自分が遊郭に売られるきっかけを作った父親を好きなわけがない。少なくとも何も知らない他人が「お父上が好きだったのですね」などと言っていいはずがない。
「知った風な口を利いてしまって申し訳ない」
「いえ、あちきの方こそ乱暴な物言いでお客様に不快な思いをさせてしまいました。どうしてか主さんといると胸の内を素直に口にしてしまうようです……」
 思わず胸が高鳴る。
 いや、お世辞に騙されてはいけない。あくまで相手は花魁。今は接客中なのだ。
 頭を将棋に切り換える。
「貴女が将棋に複雑な思いを抱いていることは分かりました。しかしここまでの才能を埋もれさせておくのはあまりに惜しい。花魁ではなく将棋で身を立てようとはお考えにならないのですか」
「身を立てるとはおっしゃいますが、検校様のような地位ある方ならともかく、あちきのような後ろ盾のない女一人が将棋で食べていくなど果たして可能なのでしょうか」
「それは――確かに難しいでしょうが、しかしこのままではあまりにもったいない……」
 こういう時、自分が世間知らずの青二才なのが歯痒い。私自身、将棋に関する仕事をしたいという夢はまだ画餅でしかない。もし私がその夢を実現できていて、その方面の人脈なども豊富であれば、彼女に道を示すこともできたかもしれないのに。
 そうやって私が二の句を探しあぐねていると、香玉が言った。
「四局目は……当然『やる』という顔をしていますね」
「ええ、ぜひお願いします。負けたままでは終われません」
「ここまで負けず嫌いな方は初めて。よござんす。第四局は賭けをいたしませんか」
「賭け?」
 彼女の父親の職業を思い出す。
「あいにく今持ち合わせが少ないのですが……」
「賭けるのはお金ではござりんせん。敗者は勝者の言うことを何でも一つ聞くという遊郭将棋でありんす。もし主さんが勝てば、お望み通りあちきを将棋道に邁進させるもよし、他の遊郭らしいお願いをしてもよし」
「私にとってもはや遊郭は将棋道場ですね。絶対にあなたの気持ちを変えさせてみせますよ」
「まあそれはあちきに勝てた場合のお話ですから……ほほほ」
 賭け将棋は人生初だが、それが今までの三局とは違う異様な熱を生み出した。青二才の私は具体的な手立ても思い付かないまま、何とかして彼女の才能を世に出したいという願いを盤に叩き付けた。自然と姿勢が前のめりになっていくが、盤面も似たようなものだ。正直なところ無理攻めかもしれない。
 だがそれが功を奏したのか、私の飛車が一手早く敵陣に成り込んだ。このまま行けば、私の城が攻め落とされるより早く、相手玉を討ち取ることができるかもしれない。勝ちを意識して汗ばんだ手を何度も検校服で拭う。
 けれど優勢の将棋を勝ちきることの何たる難しさよ。
 私が香玉の囲いの側に銀を打ち込むと、香玉は持ち駒の銀で囲いを補強する。私が銀を交換し、取った銀を再び打ち付けると、香玉も同じように銀で受ける。銀、銀、銀、銀……。
「これは――」
「千日手でございますね」
 永遠に同じ手順が繰り返されて決着が着かなくなってしまうことを千日手と呼ぶ。この徳川の治世、千日手に陥ってしまった場合の明確な規定は定まっていないが、攻め方が手を変えるという不文律なら存在する。攻めている方――すなわち私が手を変えなければいけない。
 しかし私は最善手だと考えたからこそ銀を打ったのだ。それを別の手に変えた瞬間、逆転されてしまうかもしれない。それに一体他のどこから攻めろというのだ。端攻めか? 今更この端が間に合うとでも?
 私は両手を頭にやり、濁った息を吹き出した。
 そのまま長考に耽っていると、ふと香玉が言った。
「そうだ。あちきが勝った時のお願いを思い付きました」
 声の主は立ち上がると、なぜか私の後ろに回り込む。
「かつてある検校様が遊女を『身請け』したという話を聞いたことがございます。あちきが勝った場合は、どうかあちきを身請けしておくんなまし」
「み、身請けって……!」
「お焦りになるということは身請けの意味をご存知なんですね」
「そ、そりゃあ男が遊女の借金を肩代わりして、遊郭を辞めさせて、それでですね――娶るってことでしょう」
 二本の細腕が私の胴体に巻き付いた。それはまるで食虫植物の蔓のようだった。
「それがすべての解決策になるって気付いたんです。あちきは遊郭を辞め、主さんに将棋を教えて暮らす。主さんがあちきに望んだ『将棋で身を立てる』生活がここに実現するわけでありんす」
 当然のように私を格下に見ているのが癪だが、確かに理屈は通っているのか――?
 いや、落ち着け冷静になれ。
 その前に身請けをしなければならないだろうが。香玉の借金は誰が払うのか。いかに検校とはいえ駆け出しの私にはまだ無理だ。となるとまた両親に頼るしかない。
 しかしあの両親が果たして私と遊女の結婚を認めるだろうか。確かに楼主が忘八と忌み嫌われるのに対し、遊女は意外と社会に許容されており、才知に長けることから商家などの嫁としては重宝される。
 だが私の両親は代々続く武家の名家であることを誇りにしているような人々だ。遊女との結婚? 認めるわけがない。
 いやいや、それ以前の問題として――。
 私は香玉を愛しているのか? それが最も肝要だろう。
 彼女との生活を思い浮かべてみる。晴れの日には自分に似た安心感のある手に導かれて散歩をし、雨の日には家に閉じこもって一日中二人で将棋の研究をする……。香玉は頭の回転が良く話も巧みだ。存外楽しい生活になるだろう。
 私は香玉を愛しているのか?
 ならなぜ今抱かないのか。遊郭という最もうってつけの舞台で、なぜ私は将棋などという場違いなことをしている。
 それは香玉に勝って彼女を将棋の道に進ませるため――笑止! 勝ったからどうだというのだ。そんなのただ遊戯に勝っただけの話だ。彼女の人生は何も変わらないさ。私が何も具体的な道を示せないのだから。
 結局私には何もできないのだ。検校として彼女に将棋の職を用意することも、自力で彼女の身請け金を払うことも、そしてこの局面で代替手を発見することも。
 銀で銀を取ってまた銀を打って銀銀銀……。
 千日手のようにぐるぐると同じ思考を繰り返しどこにも行き着かない。それが私だ。

 その時、鶏の鋭い鳴き声が思考を吹き飛ばした。

 香玉はすっと私の背中から離れた。後には愚図な男に似つかわしくない性急な鼓動だけが残された。
「すみません、野暮な冗談を申し上げてしまいました。今の話はすべて忘れてください」
「香玉さん……?」
「時間でございます。第四局は引き分けといたしましょう。どちらも相手の言うことを聞かなくてよい――縛られなくてよいわけです」
「ああ、そう……そうですか」
 すべての気力を使い果たした私はそう返事するのが精一杯だった。
 放心状態の私は香玉の手によって階下へと導かれた。
「それではまたのお越しを……」
 香玉に見送られて私は遊郭「高美濃屋」の建物を出た。
 出ようとした。
 出てもいいのか?
 こんな、中途半端な、千日手の途中で。
 私は振り返り、香玉がいると思われる方向にありったけの声をぶつけた。
「私は必ずまたここに戻ってきます! あなたに勝てるような立派な男になって!」
 一瞬の間の後、香玉が言った。
「その時はまたご贔屓に」
 その声は完璧に抑制された花魁のものだった。

     *

 それからの十年間、私は夢を叶えるのに全力を尽くした。検校としての通常業務をこなす傍ら、武家を中心に片っ端から将棋の家庭教師を持ちかけ、「将棋は先生にお金を払って教わるもの」という常識を作り上げていった。
 もちろんその間も将棋の研鑽は怠らない。香玉に惨敗した時の私と百番勝負をすれば九十五局は勝てるというくらいに強くなった。
 そしてとうとう徳川将軍の指南役という栄誉を掴む一歩手前のところまでやってきた。一歩手前というのは、どうやら江戸にはもう一人「一本国(いっぽんこく)先生」なる謎の達人がいるらしく、その者と私で指南役の座を賭けて御前試合をすることになったのだ。この対局が私の棋士人生の中で最大の戦いとなることだろう。全身全霊で挑み、そして勝利する。
 しかしその前に済ませておきたい用事がある。
 御前試合の数日前、一日休日を捻出して吉原を訪れた。
「高美濃屋まで頼む」
 駕籠舁(かごかき)に言うと、要領を得ない返事が返ってくる。
「へえ、高美濃屋ですかい? そんな名前の店あったかなあ。高美濃屋……高美濃屋……」
「十年前の話だから名前が変わったか、あるいはもう無くなってしまったのだろうか」
 私が不安に駆られていると、駕籠舁は突然大声を上げた。
「あっ、もしかして八年前に炎上した大見世(最高級店)のことですか!」
「炎上だって? 一体何があったのだ」
「その店に勤めていた花魁が客の男と心中するべく店に火を放ったんですよ。高美濃屋は全焼。楼主含めて何人も死人が出たっけなあ」
「おい、その花魁の名前はまさか香玉というんじゃないだろうな」
「八年も前のことなんでそこまで覚えてないですよ」
「近くの店なら何か知っているかもしれない。とにかくその区画までやってくれ」
 駕籠でそこまで行って近隣住民に聞き込みした結果、心中したのは香玉ではないということが判明した。私は思わず胸を撫で下ろす。
 しかし火事の際かなりの混乱があったらしく、香玉がどうなったか知っている者は一人もいなかった。彼女は生きているのか、死んでいるのか。十年も経っているのだから会えないことは覚悟の上だったが、まさか大火に巻き込まれたかもしれないとは。彼女のことを思うと胸がざわめいて仕方ない。
 ――しかし今の私にとって最も重要なのは数日後に控える御前試合だ。十年前ならいざ知らず、今の私は香玉のために将棋を指しているのではない。ただただ自分のために指しているのだ。感情を制御する術ならすでに身に付けている。
 吉原を去る時、私の中に迷いはすでになかった。

 そしていよいよ御前試合の日がやってきた。
 数名の家臣が見守る中、私と一本国先生が将棋盤を挟んで正座していると、障子が開く音がした。
 家臣の空気が明らかに変わった。徳川将軍が入室したのだろう。かの人物は多分私と一本国先生の方を向いて「ほう」という声を上げた。
 今の将軍は将棋に並々ならぬ関心をお持ちのようで、それが私には追い風となったが、同時に重圧でもある。暗闇に浮かぶ巨大な好奇の眼(まなこ)が私を睥睨しているような錯覚。思わず背筋が曲がりそうになるが、呼吸を整えて平常心を保つ。
「それでは始めよ」
「お願いします」
 私は一本国先生に頭を下げるが、相手は何と無言。
 ほう、なかなか無礼者ではないか。もしかして私の平静を乱す盤外戦術のつもりか? と余裕の分析をしていると、家臣の一人がこう言った。
「一本国先生は喉を痛めておられるとのことなので、岩田検校のための符号の読み上げは当職が務めさせていただきます」
 ……先に言っておいてくれ。
 しかしそもそもこの一本国とは何者なのだろう。武家中心に営業している私に対し、一本国は商家中心であるようで、今まで一度も対面することはなかった。だがそれにしたって聞こえてくる噂がなさすぎる。まるで自分の素性について念入りに口止めしてまわっているかのようだ。
 得意戦法も分からない状態だ。ここは慎重に出方を窺うべきか……。
 否。
 将棋は攻め方が主導権を握れる遊戯だ。相手の情報が不明だからと受けに回ってしまっては、どこから来るか分からない攻撃に常に怯えることとなる。逆に自分から攻めれば、優劣はともかく自分の土俵に持ち込むことはできる。初見の相手にこそ攻め将棋が正解なのだ。
 しかし、ここまで攻めたのは久しぶりだな。あの将棋以来ではないか。十年前の対香玉四局目。あの時、若く未熟な私は賭けに勝っても何もしてやれないにもかかわらず、果敢に攻めていったのだっけ……。
 おや?
 違和感に気付いたのは、自分の飛車が相手より一手早く敵陣に成り込んだ時だった。
 これは……まさか?
 馬鹿な、そんなはずは……。
 ――いや、間違いない。
 同じなのだ。
 今日の将棋と、十年前の対香玉四局目は、ここまで一手違わずまったく同じ手順なのだ。「ここまで攻めたのはあの将棋以来」などと呑気に述懐していた自分の間抜けさを呪いたくなる。当然だ、同じ将棋なのだから。もっと早く気付くべきだった。
 確かこの後はしばらく一本道の手順が続くはずだ。
 そうなると必然的に例の局面に行き着くことになる……。
 互いに銀を取り合っては打ち合う無間地獄に!
「何だ、千日手か」
 将軍がぼやき、白けた空気が漂う。千日手という奴は見ている方は退屈極まりないのだ。数分前までの私なら将軍の機嫌を取るために即座の打開を考えただろう。
 だが今の私にはそんな余裕はとてもなかった。
 なぜって、あり得ないからだ。
 将棋の不思議で面白い点は初形が一つで、定跡や有効手もある程度定まっているにもかかわらず、毎回異なる終局図になる点だ。何も知らない二人が終盤まで指してまったく同じ局面になることなど本来あり得ないのだ。私は何も知らない側なので、一本国がそうなるよう誘導したことになる。
 一本国とは何者なのだ……?
 その時だった。
 声がしたのだ。
 ともすれば幻かと錯覚してしまいそうになるほど小さい声。おそらく将軍たちには聞こえていないだろう。目が見えない代わりに耳が研ぎ澄まされた私にだけ聞こえるよう調節された音量。
 たった一晩聞いたきりだが忘れ得ぬあの声だった。
「手が似ているとおっしゃってくれたのが嬉しかったのです。ずっと汚れた手だと思っていましたから。だから本気で将棋に取り組んでみようと思ったのです」
 そうか、一本国という文字を分解して並び替えると――。
 香玉。
 まさか本当に香玉なのか。貴女が今私の前に座っているのか。大火から生き延び、女であることで受ける逆風も撥ねのけ、再び私と相まみえているというのか。
 同銀、と家臣が符号を読み上げると、銀と銀がぶつかって本当に金属音がした気がした。
「さあ、あの夜の続きをいたしましょう」
 望むところだ。
 私は十年間考え続けてきた盤上この一手を指した。


読んでいただきありがとうございました。

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