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試し読み【健康で文化的な最低限度の恋愛】斜線堂有紀

斜線堂有紀さんに恋愛をテーマにした小説を書いて頂きました。6月の更新、ということで打ち合わせ時に出たお題『ジューンブライド』をテーマに書いて頂いたものですが、どうなったかは、見てのお楽しみということで……!! 担当は多少登山もたしなむのですが、この作品を読んで登山人口が増えることを願います。恋とか愛とか、苦しくなければいいのになあ!! 

作者プロフィール

斜線堂有紀(しゃせんどうゆうき) 第23回電撃小説大賞《メディアワークス文庫賞》を『キネマ探偵カレイドミステリー』にて受賞、同作でデビュー。『恋に至る病』『ゴールデンタイムの消費期限』『楽園とは探偵の不在なり』など、ミステリ作品を中心に著作多数。ウルトラジャンプで連載中の『魔法少女には向かない職業(作画:片山陽介)』の原作を担当。


健康で文化的な最低限度の恋愛



 恋愛に身体を食い尽くされて、美空木絆菜は自分の骨がどれほど心許ないものかを知った。二十七年の人生の中で、多少なりとも自分探しをしてきたけれど、そこにあったのは、どうやらただの虚だったらしい。
 振り返ると、雲が間近まで迫っていた。絆菜の愛していた日常は遮られ、自分で選んだ孤独な山肌だけがここにある。
 足元にぎゅっと力を込める。まだ二度しか履いていないマウンテンシューズが、想像上の軋みを上げる。沢山並ぶシューズの違いを店員に聞いたら、いざという時の生存率が違います、という回答を受けた。当たり前のように告げられた言葉が恐ろしかった。山で人は死ぬのだ。
 どうして自分がこんなところにいるのかが一瞬わからなくなる。
「大丈夫ですか? 美空木先輩」
 津籠実郷がこちらを見ている。それを意識した瞬間、途方もなく寂しくなった。
 ここで絆菜が死んだとしても、津籠は罪に問われないだろう。問われるはずがない。表向きには、こんなものただの事故死だ。
 けれど、本当は思っている。ここで死ぬのは津籠の所為だ。
 ずっと殺され続けている。全部奪われている。骨の空洞に、愛が詰め込まれている。


 運命の朝、絆菜は親友の遠崎茜が逮捕されていたことを知ったばかりだった。
 半年ほど連絡が取れず、不安を覚えていたところに、突然『ごめん、逮捕されてた』という衝撃的な文面が届き、経緯を示す読みやすい長文が続く。
 絆菜はそこそこ社交的だし、友達も多い。それでも、親友と呼べる相手は茜だけだった。その相手がこんなことになってしまって、絆菜は本当にショックだった。
 しかも、その罪が所謂ストーカーだったと聞いて、更に落ち込んだ。自分が知っている茜は、自分の感情で誰かに迷惑をかけるような人間じゃなかった。確かに色恋沙汰が多い人間だったけれど、そんなことをする人間じゃなかった。
 後で彼女が語ったところによると、茜は付き合っていた相手と別れたくなくて毎日家に通い詰めていたらしい。
 その期間は延べ百八十六日。百八十六日の中には、絆菜と茜が食事に行った日も含まれていた。あの日も、茜は付き合っていた男の家に行ったんだろうか? 穏やかにポークステーキを切り分けていた茜の姿と、ストーカーで捕まる人間が結びつかない。ナイフを滑らせていた手で、扉を延々と叩いたり、ノブをガチャガチャと鳴らしていたのだろうか?
 親友をやめようとは思わない。ただ、これからどうしよう、とは思う。自分が知っている人間と、捕まった茜が別人過ぎて恐ろしいのだ。恋によって人間がそこまでおかしくなるなんて思わなかった。
 運命の朝の二十八分前、絆菜は友人の頭がおかしくなってしまったことを憂いていた。まさか自分がそんな目に遭うなんて思わなかった。
 絆菜が働いているのは、SNSの運営会社だ。様々なSNSやウェブサービスを運営しているが、その中でも有名で、なおかつ絆菜の担当部署でもあるのは『クッカーズ・ノック』というSNSサービスだ。
 ユーザーが自由におすすめのレシピを投稿して、他のユーザーはそれを参照してリアクションをすることが出来る。人気のレシピは検索上位に表示され、ユーザーのレベルが上がっていく。言ってしまえば、よくある料理系SNSだ。
 他の料理系SNSと違う点は、このSNSにマッチング機能があるところだろう。食の好みが通ずる人間の相性はいい、という前提の下に作られたクッカーズ・ノックでは、お気に入りにしたレシピの傾向が似通っている異性と繋がることが出来る。そうして繋がった異性とは、運営が主催する料理教室や食事の場で対面を果たすことが出来るのだ。
 この『ノック機能』が話題を呼んで、今では料理系SNSとマッチングアプリのユーザーを共に取り込んだ、独特な立ち位置を維持することが出来ている。出会いを求めていないユーザーはノック機能をオフにすることが出来るため、いい具合にユーザーを取りこぼさないことに成功している。
「人間なんて結局のところ、食欲と性欲と睡眠欲しかないわけだからね。一つでも掴めれば万々歳なところを、二つ掴めてればそれはもう、人間の六十七%をいただいたようなもんなのよ」
 そういえば、茜はいつぞやの飲みの席でそう言っていた。その発言自体はあけすけだったし、あまりに直接的すぎてあまり好きになれなかったけれど、絆菜の中でその言葉はすとんと腑に落ちた。人間の六十七%を支配しているから、今日もクッカーズ・ノックは安泰なのだ。
 クッカーズ・ノックは穏やかに既存ユーザーを繋ぎ留め続けながら、新規ユーザーをじわじわと取り込んでいる。派手な推移は無いものの、この安定性がここの売りだ。この決して止まることのない川のような流れは、多分それが人間と密に絡み合っているからなのだろう。
 人間はそうそう変わらなくて、求めるものも同じだ。変わらない。
 ともあれ、絆菜はこのサービスのことが気に入っている。ノック機能については自社サービスながらふうんという感じだが、ユーザーが思い思いのレシピをぽつぽつと投稿しているのを見るのは楽しい。
 今、絆菜が構想しているのは、ノック機能を友人相手にも広げられないだろうか、ということだ。
 ネット上でただメッセージを送り合うだけでなく、実際に会える友人として仲介する。今は異性としかセッティングしない対面の場を、運営側が設ける。だって、そうじゃないだろうか。恋人だけを料理で繋げるのではなく、友人も繋げられたらどれだけいいだろう?
 だが、サービスの根幹を大きく変えてしまうものだから、という理由で、この機能の実装は見送られ続けている。確かに、マッチングアプリ×料理SNSの趣旨からは離れるかもしれない。だが、この機能の実装が、結果的にクッカーズ・ノックの幅を広げることにはならないだろうか?
 だが、難色を示す上司達の他に、茜にも反対をされた機能だった。彼女はクッカーズ・ノックの六十七%の支配を褒めた口で、言った。
「いや、それはないって。友達はいいんだよ、友達は」
「どうして? サービスの趣旨がブレるから? でも、そもそもノック機能をオフに出来るようになってるんだから、出会う為のサービス一辺倒でもないってことじゃん」
「うーん、なんだろうな。食と性愛を結びつけるのがいいわけで、食と友情を結びつけるのは、なんかちょっと違うというか」
「それ、友情が恋愛より下って言われてるみたいで嫌なんだけど」
 絆菜は不快な顔を隠さずに言った。すると茜はさらりと「友情が恋愛より下って言うには、あまりに絆菜が大事だよ」と返す。そういうところがずるい、と思う。
「まあ、そういう機能を試しでやってみるのはいいと思うけどね。どういう結果になってもいいデータでしょ」
「……いちいち引っかかるけど、応援してくれるならありがとう」
「応援してるよー。いつもいつ何時でも応援してる」
 茜が笑う。この時に食べていたのは、確かキンパだった。駅ナカに美味しい店があるのだ。
 この時のことは折に触れて思い出す。絆菜はクッカーズ・ノックが所詮ただの出会い系だ、と呼ばれることも不快だった。とどのつまり、絆菜は恋愛とか性愛の方を下に見ていたのかもしれない。
 ともあれ、絆菜は今日もクッカーズ・ノックの運営に奔走し、茜は逮捕された。世も末だ。
 そんなことを考えているうちに、絆菜は会社に辿り着いた。
 今日は、中途採用された新人が入ってくることになっていた。面接でかなりの好印象を残した彼は、初出社の前から話題だった。好青年、二十五歳、有名な大学の出身。
 ついでに顔もいいらしい、とまことしやかに囁かれても、絆菜は「優秀なのか、もしくはめちゃくちゃ器用なんだろうな」としか思わなかった。もし本当に期待に値する人間なら、一緒にどんどんクッカーズ・ノックを変えていってくれるかもしれない。そう思ったくらいだ。
 だから、運命の瞬間の数秒前まで、絆菜はそこから始まる苦しみを欠片も想像していなかった。
 自分の担当部署に辿り着くと、確かに見知らぬ人間がいた。背は百七十二センチくらい、長めの髪は肩にかかりそうだ。顔つきはやや幼めで目がやたら大きいのに、体つきはやけにがっしりとしている。笑う顔は日に焼けていた。なるほどな、噂になるのもわかる。
 彼の手が、絆菜の方に伸ばされた。
「津籠実郷です。よろしくお願いします!」
「美空木絆菜です。よろしくお願いします」
「美空木先輩ですね。これから本当によろしくお願いします──って、二回言っちゃった」
 呆れるほど普通の挨拶だった。特別なところが一つも無い。それなのに、津籠のことをまじまじと見つめてしまった。その後に、慌てて握手を交わす。
「ごめんなさい、ボーッとしてて」
「いえいえ! とんでもないです。よろしく──あっ、まあいいや、三回分くらい、俺はよろしくしてほしいので」
 津籠はそう言って笑った。差し出された手も、絆菜のものに比べて随分焼けている。
 津籠は、絆菜の直接の後輩になるらしく、色々教えてあげてほしいと上司が言っていたのを思い出す。そうか、後輩なのか、と改めて思った。手が離されて、絆菜は自分のデスクに着く。不思議な感覚だった。
 それから、津籠はみんなの前でも自己紹介をした。今まではとある輸入雑貨の会社で働いていたが、他の仕事がしたくなって転職を決意した。趣味は料理とサッカー観戦。この会社に来る前から、クッカーズ・ノックは個人的に利用しており、レシピの投稿でユーザーランクがそこそこ上がっていた。
「クッカーズ・ノックに関われることになって、本当に嬉しいです。これからよろしくお願いします」
「料理好きなんだね。作るのも食べるのも好き?」
 絆菜の同期である乃澤が、話を広げる為にそう尋ねた。
「好きですよ。珍しい料理を食べに行くのも好きで、クッカーズ・ノック公式に載ってる『美食探訪』とかよく読んでます」
 あ、と思う。それは、絆菜が企画したものだった。あまり目立たない名店を、絆菜が訪ね歩いて紹介するものだ。PV数はそれほど多くないが、ユーザーから感想をもらうことは多い。何度か絆菜の取り上げた店が、ノック機能で結ばれた二人の会う場所に選定されたこともあった。どの回がお気に入りだったんだろう、と思う。
 気づけば、津籠の自己紹介は終わって、拍手が起こっていた。一拍遅れたことに気づかれないように、控えめに拍手をする。
 何度もお辞儀をする津籠と、何故か最後の最後で目が合った。うっかりしていたのだろう、津籠がはにかむ。

 考えてみれば、本当に他愛がなかった。何度思い返してみても、何も特別なところはなかった。顔が好みであったわけでもないし、『美食探訪』を褒められたのは嬉しかったけれど、あの記事は津籠以外にも色んな人間に褒めてもらった。
 それなのに、絆菜はたったこれだけで津籠実郷のことが好きになってしまったのだった。この時点ではそんなことは知るよしもなかったが、自分の狂気の源泉を辿ると、絆菜はいつもこの朝に辿り着く。そうして絆菜は、一目惚れという冗談のような言葉が辞書に載っている意味を知った。

 家に帰った後も、絆菜はベッドに倒れ込みながら津籠実郷のことを考えていた。
 考えていたというより、思い浮かべていたといった方が正しいかもしれない。記憶の中にいる津籠実郷を組み立てて、再構築して、想像上の声で鼓膜を震わせようとしていると、何故かじっとりと汗ばんだ。
 茜のことについての続報は無かった。『刑ってどうなったの?』という絆菜の質問が既読だけ付いて放置されている。だから、自分はこんなにも余計なことを考えてしまうのだろう。
 津籠実郷、の名前を舌の上で転がす。ありそうであまりない名前だ。けれど、彼にはよく似合っている。目を閉じると、美空木先輩と自分を呼ぶ声がリフレインした。
 夕食を食べる気にもなれずに、ボーッとスマホを見る。開いているのはLINEだ。茜からの返信が来ているかをチェックした後は、ずっと津籠実郷のプロフィールを眺めてしまう。
 津籠は自分の写真をプロフィール画像に設定していた。本人が大きく写りすぎていて、あまり情報量が無い写真だ。どこかの家で、笑顔でピースをしていることしか分からない。何か他に写っているものがないかと探すけれど、本当に何も写り込んでいない。
 するすると、メッセージを送る為のトークルームに向かう。何もやりとりが為されていない、空っぽのその場所を見つめる。
 連絡をするなら今日かもしれない、と思った。今日なら、これからよろしくの言葉が使いやすいから。明日になったら、今更になってしまう、とっておきの挨拶。『今日はおつかれさま。明日からよろしくね』の文面が送れるのは今日だけだ。
 実際にそう送ろうとして、すんでのところで止まる。
 業務上知っただけのLINEに個人的に連絡をしていいものなのだろうか? それは、ある種の職権乱用になり得るだろうか? 先輩だから面倒でも返さないといけないと思われたら死んでしまうかもしれない。でも、明日にはもう送れない。
 どうしよう。こういう時にどうすればいいんだろう? 先輩から挨拶のLINEを送られたらどう思うか、ネットで相談してみるべきだろうか? クッカーズ・ノックにはゆるく使える雑談用のトークルームがあり、見知らぬ人と話すことが出来るのだ。
 でも、それでウザいと言われたら、自分はもう津籠にこのLINEを送る勇気を失うだろう。そうなったらどうしよう。
 そんなことを考えていると、不意にスマホがポンと鳴った。
『今日はありがとうございました! 明日からよろしくお願いします!』
 その一行が信じられず、何度も目を通す。空っぽだったトークルームに、津籠からのメッセージがあった。今日しか送られてこないような、とてもタイムリーな文面だった。慌てて返信をする。
『おつかれさま! みんな期待してるからよろしくね』
 送った後の数分は生きた心地がしなかった。そして、返信がくる。
『プレッシャー掛けないでくださいよ(笑)美空木先輩もいるので頼りにしてます!』
『あはは(笑)津籠くんと働けるのは楽しそうでいいな』
『美空木先輩を楽しませられるように頑張ります! あ! 仕事の方も頑張ります! それじゃあおつかれさまです!』
 絆菜から見ても『おしまい』の文章が投げられて、会話が終わった。
 しばらくはその画面を眺めて過ごした。連絡をしようとしていた気持ちが宙に浮き、代わりに何とも言えない多幸感が溢れる。
 他の人間にも送っただろう文面だ。だが、それでも嬉しかった。少なくとも、業務時間外に絆菜と連絡を取っていいと思ったのだ。
 それからは、既読をつけるのが早すぎたんじゃないかと恐ろしくなった。これじゃあ津籠のトークルームをずっと開いていたことがバレてしまう。津籠が数秒のラグもない既読に気づいていないことを願った。
 津籠の送った『明日』という文字を手でなぞる。そうか、明日もあるのか、と思う。これから絆菜は津籠と仕事をするのだ。そう思うと、胃の奥が縮まった。なんだかそのことが空恐ろしい。

 

この作品の続きは『愛じゃないならこれは何』にてお楽しみください。

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