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10.昭和20年8月21日 現地人との通訳、祖父のやらかし、そして迫るソ軍戦車

 8月21日、夕方頃より初めて民家も見えだし、畑もあったので、とうもろこし、西瓜、南瓜、胡瓜、ささげ(さやの長い豆)、大豆、大根、白菜、砂糖きび(根に近いところを噛みながら歩くと少々の甘みもあってよかった)などを手にした。
 牛、馬、豚、羊、山羊、鶏などは、皆、民家のまわりに放し飼いにしてあるので各分隊毎に、これを自由に屠殺して蛋白源の補給をしていた。( 1-43 に記載)
 牛、馬などの大型になると、2〜3名で静かにしのびより、射殺し、分隊の必要量だけを切り取り、あとは河に流すか穴を掘って埋めた。

 なお、民家があって都合のよかったことは、(日本兵にとって都合のよいことであって、満人側からみたら大変迷惑この上もないことだったはず)民家には、塩や味噌などの調味料があることだった。
 そういう品物などがあるということと、自分のものであるということは、全く次元の違う問題だが、実際には、民家に入って食品を見つけた時には、もう自分のものと思い、庭の家畜類は自分が飼育しているのを始末しようか、といった程度の感覚にまで落ちぶれていたようだった。
 畑を荒され、家畜を殺され、時としては住居まで灰にされてしまった現地の満人こそ本当に迷惑なことだったろう。
 だが、彼等が日本兵より受けた被害が大きければ大きい程、日本軍は鋭気を養うことができた。

 隣の家の豚の肉を持ってきて、肉を半分やるからといって料理を頼めば、「天好テンハオ」「天好」と、大喜びしていた。(大変いいことだという喜びの様)
 時には、自分の家の鶏とも知らず、お礼にもらったと思って「謝々」(ありがとう)と三拝九拝するのもいた。
 ずいぶんと罪な話ではあるが、生きていくためには是非もない点もあった。

 20001部隊は、青森県弘前市に原隊のある107師団の部隊だ。内地で編制し渡満した新設部隊のため、満語(中国語のこと)を知らない兵が大部分だった。
 そのために、民家があれば私はいつも現地人との通訳をやらされていた。
 私が片言の満語でもしゃべると、何とか意向は通じていた。
 民家があるとすぐに分隊員が私の装具を分け合って持ってくれ、私1人でも度々交渉して現品を手にして分隊に帰っていた。

 1回だけは、私よりぐっと大きい現地人が1人で家の中にいたことがあった。その時には、何を言っても、「メーヨー。」(無いということ)だけを繰り返すだけであった。
 そのうちに狭くて薄暗い土間をくるくる回りだし、入口をふさぐような態勢をしだしてきた。
 私は、とっさに身の危険を感じとり、現地人の体とすり合うようなかっこうで外に飛び出し、空に向って非常発砲をした。
 私の発砲を合図に、間もおかず行進する時の前の分隊、(大分県出身の清水候補生のいた3分隊、軽機分隊)の兵が、軽機ケイキ(軽機関銃のこと。軽というからとて、決して軽くはなかった。馬が搬送していた重機関銃よりみると、はるかに軽量ではあった)まで持ってきてくれ、家の前の庭まできたら、すぐに伏せ、射撃態勢に入っていた。
 主客転倒、先方も驚いたことと思うが、軽機まで駆けつけたから私の方がもっと驚いた。
 「どうした。どうした!」「殺せ。」「殺せ!」と着剣した銃剣の先で満人の背を押したりしていた。兵の中の満人は、立ってはおられない程ぶるぶると震えだし、かわいそうな程、両手を合わせて謝った。
 兵のあとに続いて家の中に入った満人から、「まくわ」、「米」、しょう油のもろみに漬けてあった「赤かぶ」、「鶏の卵」に至るまでの食料品をごっそりともらい受けて1件落着していた。

 しかし、分隊に帰り行軍の列に入っていたら、歩きながら、関分隊長に「気の利かん野郎だ。中隊長に見付かっているぞ。」と、怒鳴りあげられた。行軍中、隊列を離れることは厳しく注意がなされていたからである。
(兵には隊列を離れる理由はないはずだった。隊より遅れたりした兵があると、分隊どころか小隊の他の兵までが迷惑をしていた)
 私には文句は言いながらも、私が手にして帰った漬物や塩、卵などの食料品をまるで問屋の番頭さんみたいに、隣の分隊の班長や小隊長などに少しずつ分配することは、いつもの習慣どおりだった。
 一初年兵の私は、分隊内ではたいして重要なポストでも何でもなかった。
 水汲みや満人との交渉の際には、重い背囊などを頼みもしなくても代る代る搬送してくれていたが、それはその時だけのことだった。

 分隊内ではそうぱっとはしないのに、私の失敗は、3度まで藤川中隊長の眼前でしでかしていた。
 山の中へ薪を取りに入り、帯剣を少しばかり曲げてしまった。もとのさやに入れるために膝で押してみたり、立木の割れ目に刺し込んで横に力を加えたりしているところを見られた。
 その当時、兵器はすべて、天皇陛下よりお預りしているという考え方をしていたから、帯剣を曲げたりなど、兵器を損傷することは許されないことだった。
 しかし、その時には、中隊長は見ただけで何も言わなかった。
 又、夜間歩哨(夜、味方の安全を守るための見張り役のこと)をしていた時、山の下で用便を済ませ、急な道を上がってきたばかりの中隊長に銃を向けて誰何スイカ(「誰か」と聞くこと)したことがある。( 1-49 に記載)
 夜の冷え込みがひどいから、雨外被の頭巾をして立哨していた。(歩哨に立つこと)
 藤川中尉は、私に、「すぐ班長を起せ。」と言った。
 飛び起きて、出てきた関分隊長に対し、「後地は初年兵じゃないか。守則※を教えたか?」と尋ねた。


※守則
守らねばならない勤務のきまりのこと。
ここでは、歩哨に立つ兵の守らねばならない心得のことを指している。


 守則では、夜間歩哨はどんな天候の情況であろうとも頭巾をかぶってはならないらしい。
 県立大田中学校のおとっつぁん(教練専門の片山少尉 斐川町出身)も、こうのさん(河野中尉 江津市出身)もまた、配属将校の南山 英作中尉・扇子中尉・小島中尉(大田中学校で教練の指導)、咸興師範の配属将校だった高司中佐にしても、吉林師道大学の宮崎中校(満軍の将校、中校は、日本軍でいえば中尉に当る)も、誰もそんなこと教えてくれた者はいない。

 この冷え込み、と思ったのが間違いのもとだった。
 藤川中隊長の前で、教練教科書にある歩哨の一般守則を言った。
 「よく覚えていた。」と、中尉は一応はほめてから「しかし、それは教練だ。実戦の場合は特別守則がある。」と、してやられた。
 そのあと関分隊長は、中隊長より、ごてごてと説教されていた。
 中隊長が去ったあと、分隊長が、「生意気抜かすな。うしろダマ※を使うぞ。」とぼやいた。


※うしろ弾
これとよく似た言葉で、「弾は前からばかりはこないぞ」というのがあった。
無防備の後方より射撃するという意味で、日頃、兵より憎まれている上官等が陰ではこのように言われていたようだ。


 関分隊長にしてみれば、せっかくの睡眠中を、説教のためにわざわざ起され憤まんやるかたなきものがあったことと思う。
 私と次の上番者(これから、その任につく人のこと。反対に、もうその任の終了した人のことを、下番者といっていた。退院下番ー退院した人という意味ーなど、上番、下番という用語は度々耳にすることがあった)との交代を早めてくれた。
 関分隊長は分隊員に、「怪しい奴は刺殺してやれ。」と、暗に、中隊長に対するうっ憤を言外に表していた。
 しかし、私の方は、藤川中尉から完全に名前を覚えられ、以後は「後地か。」と、名を言われるようになっていた。
 いいことにしろ、よくないことにしろ。

 以来、とうとう私は「訓練未熟」という理由によって、夜間歩哨の免除という命令が中隊長より出され、その特典には感謝していた。
 だが、実際には、大雨の時には歩哨の頭巾着用が黙認されていたようであった。

 8月15日の西口から下って、2日か3日目ぐらい後の、食料の欠乏していた頃のように思うが、山上の草原まで速射砲(戦車を撃つ砲である)を引き上げて、ソ軍戦車を迎え撃ったことがある。
 「敵戦車、6里前方。」
 「敵戦車、2里接近。」と刻々迫るソ軍戦車群の動向が本部よりの伝令により山上で散開している各分隊に通達されていた。
 私達の分隊も蛸壷の中に入っていた。銃の安全装置を外し筒の方は弾丸に信管をつけて対戦準備は終了していた。
 ゆるゆると大草原をやってくる擬装した3台の戦車、戦車の本体は何も見えないが、大木の山が移動しているような感じがしていた。
 朝から情報によって、山上で待機していた友軍の速射砲がうなりだした。
 ぱっぱっとソ軍戦車の前で上がる白煙は心強かったが、戦車は、そのゆっくりした速度を変える訳でもなかった。
 白煙は命中した時の煙だが、ソ軍戦車の鉄板を貫通する力がなく、命中した砲弾は、その部厚い鉄板にはじきとばされていたそうであった。

 工兵隊員が肉薄攻撃を敢行するとか聞いていたが、蛸壷がゆらぐ程の大爆発音が3回続いたあとで頭を出してみると、1台の戦車が停止していた。
 特攻が成功したらしい。
 そして山の麓では、戦車についてきた狙撃兵が接近してきたらしく、重機の応戦する発射音や人声など雑音が聞えてきた。
 早く撃ちたいという気が誰にもみなぎっていたようだ。
 山麓から友軍が引き上げてきた時に擲弾筒を使うのだと指示されていた。
 あとで分ったのだが、その時の山の麓の一線部隊は、9中隊の直江隊だった。
 ソ軍と、手榴弾戦を演じた直江隊の兵士が手榴弾を投げ遅れたためそれが未だ手にあるうちに破裂してしまい、悲壮な戦死をした。全身を白布で覆われた屍を数人の戦友らしいのが、山上までかつぎ上げてくるのが見られた。
 あとで分隊長が、「敵の戦車は確かにすごい。速射砲の弾をはじきとばし、2発の爆雷でやっと止っただけで、捕獲はできなかった。」と教えてくれた。
 結局、この戦いは、1部の部隊の戦闘に終り、双方積極的な行動をとらなかった。友軍は、直ちにここの戦場をあとにして行軍に移った。

 後日、北朝鮮で知り合った、青森県出身の坂井 正義兵長は、この時その速射砲の砲手であった。あの時の砲を、どんなに苦労して、終戦まで無事に搬送したかということを聞かせてくれたことがあった。

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