ナイーブでいる権利

就職してそろそろ一年になる.所感をつづろうと思う.

僕はタフガイ気取りが嫌いだ.イマドキ「自分が社会でどれだけ通用するか見てみたい」みたいなことを真顔で言う若者を,僕は信用しない.

僕らの世代は簡単に「さとり世代」と呼ばれる.要は,昭和的なマッチョイズムへのカウンターで,クルマ・高級時計・高級スーツみたいなものを好まず,"等身大で","必要な分だけ"求め,おとなしくしている世代というわけだ.これまたものすごく乱暴に要約すると,高度経済成長期が終わり,頑張れば頑張っただけシアワセになるみたいな単純な価値観をもはや持っておらず,また生まれた時点でモノには事欠かなかったがために,この世代は物欲を特に持たない.代わりにモノではなくコト,つまり「生きがい」みたいなものを,「頑張れば頑張っただけシアワセになる」以外のお題目に求めるようになった.というものらしい.

僕はしかし,その「さとり世代」のなかにあってなお,特にてらいなく上昇欲・権力欲・物欲といった,前時代的・男性的な欲求をあらわにする同世代が恐ろしい.

僕が出た大学はいわゆる一流といわれるやつだ.ここまでくると,いる人間はだいたい3パターンに分かれる.ひとつは「最初から強かった人間」だ.これには特に興味がないので,続けると,ふたつめは「弱かったが,大学デビューで強い側にまわろうとしている人間」だ.これはまだ健全というか,おおかた間違ったスタンスではない.客観視して誇っていい学歴を得た以上は,ある程度いきっても悪くない.そして最後は「最初から最後まで弱い人間」だ.これはかなりやっかいである.客観視して恥じることなど特にないというのに,ただ自分でダメージを受けて弱っている.自意識で自家中毒におちいっている人種だ.ところで僕はこの,「最初から最後まで弱い人間」に属する.

最初から最後まで弱い人間は,結局のところ競争や,さらに言ってしまえば価値判断全般が怖くてしょうがない.セルフジャッジメントで自分自身を断罪して苦しんでいるわけだから,いわんや他者からの価値判断をやといったところだ.「バブみ」という概念がかつての「萌え」をオーバーライドしつつある(もう「バブみ」の波は終わっただろうという声もある)が,「グズり」つまり「バブみ」を持つ対象(多くの場合,女性キャラクターだ)の母性によりかかり,幼児退行によって価値判断からのシェルターとする営為は,「萌え」つまり自分と比べた弱者を性的にまなざす(これは,まだ主体性らしきものを備えてはいた)行為を超えてより逃避的だ.

実際のところ,このての価値判断への恐怖は「バブみ」というかたちで素直に表明されるかあるいは,反発としてあらわれる.これは「さとり世代」の特徴とされる物欲・上昇欲の欠如と結託し,カモフラージュされる.つまり,物欲がないので頑張らないし,上昇欲がないのでアピールしない.そうしたところで特に困らないし,何より価値判断から逃れ続けることができる

しかし,おお,見よ.

かたわらでは,自分たちと同じ時代の空気を共有していそうな年頃の若者が,前時代的・男性的な欲求を表明している.これは僕らにとっては多大な脅威となる.「意識高い系」という揶揄はもはや使い古されていて,(そして彼らの前時代性に対応できずに!「意識高い系」は,これまた別の生き方で,彼らにくらぶれば今風の価値観だ.)彼らを笑い飛ばすことも困難になっている.

ここで,僕らは脅かされている.別に頼まれたでもないが,自動的に,抗いようなく,脅かされる.それは以下のような点においてである.

・怖れていた価値判断に晒されるから.彼らは,無欲にカモフラージュされた逃避者ではない.

・理解不能だから.イマドキ「稼ぎたい,偉くなりたい,活躍したい,いいクルマに乗って,いいオンナを抱きたい」という価値観の一片でも信じこんでいる若者が,自分と話が通じるだろうか?
彼らの恐るべきところは,まさしくその「信じ込んでいる」という点である.冷静に考えて,イマドキ大卒で就職するものなど,生まれたころから自家用車なぞというものは家にあったか最初から必要なかったかどちらかだろう.実際問題として百歩譲って自動車そのものに魅力を感じたとしても,その他の価値観に関しては完全に虚だ.言説でしかないはずだ.

(というか,どう考えても,大学4年間で得られる社会経験なんてせいぜい居酒屋のアルバイト程度なはずなのに,急に社会が夢に関わってくるのが理解不能だ.起業したいという連中も同罪だ.自立志向みたいなかっこうをしやがって,結局のところ資本主義社会にきっちりおさまりにいってるじゃねえか.だったら絵本作家になりたいのほうがまだ理解できるわ.僕にとって,その異様なまでのものわかりの良さも恐ろしい.)

ここで恐ろしいのは,じつは彼らはそれを一度も疑ったことがないのかもしれないということだ.疑うということをしないのはなぜか?それで困ったことがないからだ.困ったことがない人間が,上昇・権力・物的充足の価値を疑ったことのない人間が,最も恐ろしいのは何によってか?弱者へのまなざしの欠如,想像力の欠如だ

僕が最もこわいのはそれだ.そのような人種だ.今まで,大成功ばかり収めてきたというでもないが,特に弱者の側にたったことがなく,つまり右肩上がり・自分の力・男性的な欲求といったものたちを疑ったことのない,概念的なマジョリティという存在.

そして,僕はまた振り返ってこわくなる.上昇・権力・物的充足の価値を疑ったことのない人間が,弱者へのまなざしを欠いているにちがいないという,僕自身の描いた構図がである.おそらくだが,これは嘘だ.100%の嘘ではないにしろ,僕自身の多大な被害妄想が含まれている.その上,予め明らかであったように,含まれているのは被害妄想だけではない.そうだ,僕はただ価値判断を怖れているのだ.僕は価値判断から逃げ出すことを正当化しすぎた.それは優しさかもしれないが,きっと正しさではないし,幸福でもないかもしれない.

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