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自分の道具をつくる(1) 触覚の研究

 『子どもの道くさ』(著・水月昭道)を読む。子どもたちが通学路で道くさをしながら下校する様子が描かれていて、僕は昔の感覚を思い出した。そういえば小さい頃、ものを触ることに喜びを感じていた。ジャグリングと関係があるかわからないんだけど。

 新しいものに触るのっていいよな、と思う。新しいものを求めているんだよ。だからこの企画の趣旨は、「新しいもの」を求めて旅をすることなのだ。新しい触覚であり、新しい見た目である。それは、飽きないため。ジャグリングは、そもそもパターンで新しさを出すものだけど、手元でいろんな素材をいじっていると、やっぱり触ったことのない何かを触っている間は幸せだな、と思う。
 ジャグリングの楽しさは、道具を手にした瞬間に、「これで何ができるだろうか」とワクワクする、その瞬間にもある。技を鍛えるのも面白いけど、道具を手にした時に、言葉にはできないけど感じるあの高揚感。本質的には、商品を買うという行為全般にもつながっている。
 初めてテープのウォークマンを手にした時の感じを思い出す。あの、金属のひやりとした感触。メカメカしい機構。触って楽しい、みて楽しい、それが購買意欲を掻き立てるものだった。こうやって「昔はそう感じていた」というけれども、今だってそうである。何かが本能的に欲しいと思う時、それは必ずと言っていいほど触覚の予感に結びついている。僕が最近買ったバックパックだって、お店の壁にかかって、適度な明かりに照らされて、なんだかアレに触りたいなぁ、と思ったのがはじまりである。

 案の定、触ってみれば、少し荒い肌触りの素材と、人の手で行われたことを感じ取れる堅牢な、しかしどこか鼓動を感じさせる縫製。こういうものに触れるとき、混じりけのない喜びを感じる。

 ものを、道具をつくるにあたっては、手作業の喜びもある。この「自分の道具をつくる」企画に先立って、ワイヤーを曲げるだけのワイヤーアート(というジャンルがあるらしい)も始めたのだが、これはまさに触覚と視覚を頼りに進めていくものづくりの基本だと思った。まだ始めて数日しか経っていないけど、そのことは予感できる。一本の細い線に対して自分がどう手を加えて、どういう状態に変化させるか。これは、あらゆる創作の原点でもある。ワイヤーを曲げていると、なんだ、結局「つくる」というのはこういうことなんだ、と思う。素材に対峙して、それに身体で力を加え、変性したものを組み合わせたり、混ぜたりして、別の状態にする。ワイヤーアートは、その手続きを非常に簡略化した、可能な選択肢を絞っているからこそ本質が見えやすい、まさにものづくりの基本を学ぶのにうってつけのエクササイズだったのだ。

 IKEAに売っている竹のボウルでディアボロを作った。これ以前にも竹の棒をホームセンターで買ってきて穴を開けて、スティックにしている。今考えているのは、このことである。ジャグリングの道具であるディアボロは、誰もが当然買うものだと思っているけど、本当は、軸があって、その両端に重りになるものがあれば一応はつくることができる。スティックも、ただの棒であるから、棒があって、そこに紐が取り付けられれば、それで問題がない。じゃあこの手作りのスティックとディアボロとで何が違うのかといえば、それは、「使いやすさ」であったり「機能性」であったりする。ではその使いやすさや機能性が何によいのか、役立つのかといえば、それは技術の向上である。でも、必ずしも技術の向上だけがジャグリングの喜びではない。ジャグリングをすると、ものがさわれる。日常では使わないものをぐねぐねといじり回す口実になる。

 ここでまた小学生時代の僕に戻る。大きくて浅いお菓子の空き箱があると、その中に柵になるようなものを複雑に組み込んで、迷路を作った。中にビー玉を入れて、転がして遊んだ。何か面白い形のものがあると、それに少し手を加えておもちゃにしたくなった。セロテープとハサミを使っただけの簡単なものなんだけど、妄想をしながらぐちゃぐちゃと組み立てた自家製のおもちゃは、たとえば小綺麗な、しかし遊びの要素のない美術品のような置物よりも、数百倍魅力を放っていた。自分がそれに触れて、逆さにして、振って、立てかけて、回して、力を加えてやることで、物理の法則が媒介となって自分では予期していなかったような結果が生み出される。それが工作おもちゃの原点であり、今でもそれが面白いことは変わっていない。力が目に見える形になる。自分が企画した、デザインした、思い通りのおもちゃである。それをつくるときに使ったのは、ネットにあったチュートリアルでもなくて、わかりやすい教本でもなくて、ただ自分の指先と口と頭が求めている質感と力と動きを、思うがままに現出させてくれるものは何か、と身体で感じたデザインが、ものでつくられたのだ。思想もない。流行もない。誰にも真似できないオリジナリティへの志向もない。グローバルな視野もない。売れない。言い訳もない。そして、何より、理由がない。欲しかない。

 僕はこのプロジェクトを淡々と進めるつもりで、「このプロジェクトの哲学とはなんなんでしょうか」ときかれたら、多分僕はもっともらしいことを言うかもしれないし、「別に理由はないです」とそっけなく言うかもしれないし、何を言うかはわからないんだけど、なんでやっているかといえば、つまり上に書いたような、こういうことである。考えたいのではない。遊びたいのである。つくりたいのである。触りたいのである。嗅ぎたいのである。指を動かしたいのである。押しつぶしたい。カッターで切りたい。ノコギリを引きたい。トンカチを持ちたい。紙に太い鉛筆で設計図を描きたい。

 既存のジャグリングへのカウンターでもないし、ネット時代の身体性の復権でもないし、ものづくりのよさを広めるためでもない。
 ただ、鉛筆を握ったら、嬉しい。
 木材をなでていると、気持ちいい。
 ドリルで穴を開けると、爽快だ。

 それだけ。

『子どもの道くさ』より p.66)


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