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群れを追わず、“孤独”を愛する


 “孤独”とは一体なんだろうか。

独りで過ごすことだろうか、
文字通り、孤立して独りでいることだろうか。

“孤独”というのは、ほとんどの場合においてネガティブなものの象徴であるかのような使われ方をされる。完全に間違いだとは言えないが、僕はその使われ方が必ずしも正しいとは思えない。

友人が多ければ、家族がいれば、恋人がいれば、集団の中にいさえすれば、“孤独”ではないのだろうか。

いや、そんなはずはないのだ。その規定や尺度は個人に委ねられている。だから、群れの中にいるからこそ感じる“孤独”もあるはずなのだ。


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群衆の中にあっても
孤独を守る人こそ、
至高の人である。

 
これは、アメリカの思想家、エマーソンの言葉だ。そして僕自身、とても大切にしている言葉でもある。人によって、様々な受け取り方ができるとは思うが、"孤独を守る"とは一体どういうことなのか。

群衆の中に紛れると、自動的に自分という存在が曖昧になるような気がする。森の中の一本一本の木のように、存在感が薄れ、自分と他者における境界線が溶けてなくなっていくような、そんな不思議な感覚に陥ることがある。

"孤独を守る"とは、そんな状況にあっても、自分自身で境界線を強く意識し、自分という存在を見失わないように、意志や信念を持ち続けることなのではないかと考える。



 そして更に、アメリカの作家、スーザン・ゴードンはこう言っていた。

孤独だということは
人と違う人間だということ
人と違っているということは
孤独になるということ


日本と海外の国々では”個”というものに対する考えや、捉え方、価値観が大きく異なっていることを実感する。

日本にいると文化や慣習的に、どうしても人と同じことを好み、人と違うことを悩んでしまう傾向にある。しかし、人と違うことを悩むのではなく、人と同じことを悩まなければいけないし、本来、そうあるべきであると思う。

人と違うことは、他人にはない何かを持っているということ。

裏を返せば、人と同じでは何も持ち合わせていないということ。


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かくいう僕はその“孤独”を愛している。
僕が“孤独”に対して抱いているイメージは常にポジティブなものだ。


“孤独”について感慨に耽るとき、ロシアの小説家・思想家であるトルストイのこんな言葉をふと思い出すことがある。

孤独なとき、
人間は まことの自分自身を感じる。

“孤独”なときにこそ、本当の自分が現れる。
“孤独”な自分と向き合うことが、本当の自分と向き合っていることになるのである。

誰かと一緒にいれば、どうしても無意識のうちに自分を取り繕ってしまうのが、我々人間の性なのだから。

人生とは孤独であることだ。
誰も他の人を知らない。
みんなひとりぼっちだ。
自分ひとりで歩かねばならない。

これはドイツの小説家であるヘルマン・ヘッセの言葉であるが、この言葉もまた、一つの真理を表していると思う。

どんなに友人がいようが、人生とは孤独で、言ってしまえば自分以外は他人なのだ。

人と人は支え合って生きているなんて言葉も存在するが、結局最後は自分ひとりの力で歩いていかなければならない。無論、それを否定する気は更々ない。

つまり、生きている誰しもが“孤独”であり、
それから逃れることはできない。

抱き合わせなんだろう
孤独と自由はいつも
-Strange Chameleon / the pillows-


孤独になることを拒否しながらも、
自由を得ようなんて、烏滸がましい。

孤独と自由は抱き合わせなのだから。

孤独からは逃れたくとも、逃れられない。
永遠に続く禅問答のようなものなのかもしれない。
しかし、孤独を受け入れなければ辿り着けない場所がある。

僕をそう信じている。

ただ、孤独と向き合うことはとても大切なのだけれど、
自分の周りの人たちを大切にすることも忘れてはいけないなと感じる。
目の前の物事と向き合う時間も大切なのだと。

目の前の当たり前は、決して当たり前ではない。
家族を、恋人を、友人を大切にし、目の前の幸せに縋る。
そしてそこに全てを注ぎ込む。

これからも“孤独”を愛し続け、孤独とキスをして、
目の前の幸せを大切にしながら、人生を歩んでいく。

群れを追わず、"孤独"を愛する。



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