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賃上げをするために

池田 薫
論説委員
阪神国際港湾(株)


2023年の春闘が終わり、多数の企業で賃上げの妥結をしており、賃上げが趨勢となっている。

賃上げについての議論を振り返ってみると、その時々の経済情勢によって、立論の仕方が変化している。安倍政権の2014年成長戦略においては、デフレ経済からの脱却と富の拡大(言い換えると賃上げのこと)が目標となっていた。デフレ経済からの脱却ができたかどうかは、評価が分かれているが、賃上げについては、実現できなかった。

最近は、ウクライナ侵攻の影響から、エネルギー・資源の価格が高騰したことと、円安の影響を受け(直近では円安は収まっている)、欧米ほどの高インフレではないものの、日本でも物価上昇が起こっている。それを受け、少なくとも物価上昇を賄える程度の賃上げが必要だということが大勢になっている。

私は、妥当な賃金水準をどうやって論理的に決めればよいかに興味があり、何冊かの本を読んでみた。考慮事項・配慮事項はたくさんあるが、給与についてはどうしても現状追認的になる。

ある給与をもらっていて、「あなたはなぜその額の給与をもらっているのか」と問われた際、第一に「人材をほしい業界と提供できる人材があって、労働市場においてその需要と供給のつりあいで決まっているのです」と答えるとしても、現実には労働市場がそれほど弾力的なのか疑うと、自信が揺らぐ。第二に「企業が利益をあげることに一定の寄与をしているので、私の貢献分を給与としてもらっています」と答えるとしても、私の労力と企業の利益の間の因果関係は曖昧で、適切に評価するのは、至難の業だと思う。

米国ではCEOが一般職員の400倍もの巨額の報酬を得ていて、CEOと一般職員との不公平感が大きいため、CEOの報酬を適正化することが議論になっている。日本の状況とは別次元・別世界の話であるように感じる。

欧米では、賃上げを要求する際に、ストライキが手段になっている。英国で教職員が賃上げを求めてストライキを行っていることがニュースで報じられていた。その影響を受ける一般国民も、ストライキには寛容であるようだ。少なくとも労働者の権利なので、仕方がないと思っているようだ。権利があっても、実際にはほとんど行使されることのない日本とはこれまた事情が大きく違う。

日本の土木学会に関係する業界を見ると、建設業界において賃上げの方向が出されている。企業が賃金に配分するための利潤を上げていることが大前提であるが、労働力の確保、人材確保が賃上げの理由となっている。そうすると、同業他社の賃金の動向と比較しつつ、賃上げの程度を決めることになり、どうしても模倣的、追従的になる。

若手の賃上げも目標となっており、それ自体は良いことだと思うが、年齢別の賃金カーブを少しねかせて若手に少し手厚くしているだけであれば、中高齢者が割りを食っているので、本当の賃上げとは違う。

国や地方自治体においても、賃上げが議論されているが、公務員には、争議権がなく、その代償として人事院勧告に従うことになっていて、模倣的、追従的になる。

大学や研究機関でも賃上げが議論されているが、これも若手研究者の人材確保が目標だろう。

OECDの平均賃金の推移のデータを見ると、日本の平均賃金は、1990年に36,412ドルだったのに対し、2019年は38,617ドルで、30年間で6%しか上がっていない。1990年にはOECD35か国中、日本は12位だったが、2019年には24位にまで順位を下げている。日本の平均賃金は、今やG7の中で最下位である。2015年には韓国にも抜かれている。平均賃金の増加額、増加率についても、日本は、OECD35か国中、イタリアと並んで、末席にいる。この統計を見ると、本当に悲しくなる。

賃金が低迷している真の原因は、労働生産性(従業員一人あたりの付加価値)が上がっていないことにある。賃上げをするためには、給与制度の細部を操作することから離れて、新しい付加価値を生み出し、労働者一人あたりの付加価値を大きくすることが重要である。

土木学会 第192回論説・オピニオン(2023年5月)



国内有数の工学系団体である土木学会は、「土木工学の進歩および土木事業の発達ならびに土木技術者の資質向上を図り、もって学術文化の進展と社会の発展に寄与する」ことを目指し、さまざまな活動を展開しています。 http://www.jsce.or.jp/