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寂しがりやが生きる道

長々と、あんまり気持ちのよくない自分の話を今日はしてみます。

さらけ出しの、練習として。


私は昔から、居場所を求めさまよってきました。

小学校のころはいじめられっ子で、外で遊ぶとボールを当てられたり、わざとボールを遠くに投げて「お前取ってこいよ」と命令され、みんなが遊んだ遊具を1人で片付ける羽目にあう……そんな毎日でした。

だからそこから逃げるために休み時間は外で遊ぶよりも図書館で「まんが 日本の歴史」を読んで過ごすことが多かったです。

その時の癒やしは、中学受験の塾。

みんな同じ「受験」だけを見て切磋琢磨する環境は、小学校よりもはるかに居心地がよかった。


中学に入り硬式テニス部に入ると、またいじめられるようになりました。

ラケットを隠されたり、1人だけコートに入れてもらえなかったり。

なぜこんなにいじめられるのか……それは、私があまりにも運動ができなかったから。

中学3年間は頑張ってみたのですが、中学3年生の夏合宿で私の服がすべて隠されたことで嫌気が差し、テニス部を辞めてしまいました。

そして代わりに入ったのが「物理部」……という名のパソコン部。

当時からパソコンが好きで、仲の良い友達もいたのもあって入部したのですが、そこが本当に居心地が良かった。

2ちゃんのネットスラングを言っても通じるし、最新のネットニュースも通じるし、オタクな話をしても嫌な顔をされない。楽園か、ここは!


高校3年間は楽しく過ごし、大学に入学。

すると自分にあうサークルを探し求めて、大学1年生の頃はなんと4つもサークルに入っていました。

結局2つのサークル(ストリートダンスとテニス。今の私からは想像もつかないw)にずっと所属することになりました。全員ではないですが、未だに遊びに行く仲間もいます。

大学3年生で就職活動をして、卒業後はネットの大手企業に入社。

企画職を希望して、実際に企画をする部署に配属になったのですが、大手企業なこともあり、自分が考えた企画が世に出る機会はほとんどありませんでした。

「このままだと何者にもなれない……!」と不安になり、私のことを認めてくれるコミュニティを求めて、勉強会や交流会に行きまくる日々。

その時にちょうどFacebookが全盛期だったこともあり、Facebookの友達は現在2,400名を超えている状況です。

その後、2回転職し現在の会社にいるのですが、常に何かしらのイベントに参加し、色んなコミュニティに顔を出しまくるのは当たり前。

また一人暮らしをしている時は、ほぼ毎晩近所のバーに入り浸り、バーテンダーやお客さんといろんな話をしていました。

中学受験の塾、物理部、サークル、勉強会や交流会、近所のバー。

メインとなるコミュニティとは別の「癒やしのコミュニティ」を彷徨い求め続ける……これが私の人生です。

今までもそうでしたし、これからもそのように生きていくことでしょう。


最近は「コミュニティ野郎」を名乗ってTwitterでは発信していますが、なんでコミュニティが好きかと言ったら、極端に言っちゃえば「寂しいから」なんです。

私は結婚もしているし子供もいます。

実際結婚した理由の1つは「家に人がいる状態を求めていたから」。

そういう意味で物理的に孤独ではないのですが、やっぱり寂しい。

それは「私の全てを奥さんが理解してくれているわけではない」という諦めがあるからだと最近気づきました。


平野啓一郎さんが提唱された「分人主義」という概念があります。

人間には、いくつもの顔がある。—私たちは、このことをまず肯定しよう。相手次第で、自然とさまざまな自分になる。それは少しも後ろめたいことではない。どこに行ってもオレはオレでは、面倒くさがられるだけで、コミュニケーションは成立しない。だからこそ、人間は決して唯一無二の「(分割不可能な)個人 individual」ではない。複数の「(分割可能な)dividual」である。
引用:私とは何か 「個人」から「分人」へ


人の中にもいくつもの顔が存在している……これを読んで「あぁ、確かにそうだ」としっくり来たんです。

私が会社に見せている顔、Twitter で見せている顔、奥さんに見せている顔……。

もちろん共通する部分もありますが、それぞれ違う側面を見せているなぁと。

だから私の「全て」をさらけ出せる場所は無くて、つまり私の「全て」を理解される場所は、どこにも存在しえない。

「そんなの当たり前じゃないか」と思う方もいるでしょう。私も頭ではわかっています。

でも心のどっかで「私の全てを誰かに理解してほしい……」と願い、孤独を感じてしまう。

一生「全て」をさらけ出せる場所なんて無い。でも少しでも癒やされたくて、コミュニティを渡り歩いているんですね。


もう1つあるのは「愛されないコンプレックス」かなと。

ストレングスファインダーという、個人の資質を知るための手法があるのですが、私の資質1位は「社交性」で、最下位が「親密性」。

新しい人と仲良くなるのは得意だけど、深い仲になるのは下手くそ。

実際、すべてのことを腹を割って話せるような親友は誰1人としていません。

自分を"すべて"さらけ出すことが、本当にできない。

さらけ出して愛していかないと、人はなかなか愛されません。

だから、常に新しい人との出会いがあってとても楽しいのですが、誰にも愛されていない不安や孤独を常に抱えている。

そのコンプレックスも、コミュニティに私を向かわせる1つの要因なのは間違いないでしょう。


コミュニティの何が良いか。

色んな人と知り合い、何人かから「こういうことをしたい!」というインサイトを見出して、それを実現する場(=コミュニティ)を作ると、人が集まってくれる。

そういう意味で、みんなのためにやっていることが、自分の孤独を癒やすことにつながっている。

それがとても楽しい。それが良いんです。


こんな風に言っているといつも辛さを感じているかわいそうな人のように見えてしまいますが、誰しもが偏頭痛や腰痛のような「痛み」を抱えつつもそれとうまく付き合って生きているように、私にとっては慣れた痛みです。

でもその痛みが私のエネルギーとなっているし、どんどん「良いコミュニティ」を作って、色んな人を笑顔にしたいというポジティブなモチベーションになっている。

だから、マイナスな感情からスタートしているかもしれないけど、結果プラスになっているし、なにか歪んだものがあるわけじゃない(と自分としては思っている)から、悪いもんじゃないな。

じゃあどうせだったら、コミュニティを極めてみようか。


そんなわけで、今「コミュニティ野郎」をやっています。

コミュニティ野郎を名乗りだしてから、本当に人生楽しくなりました。

そして今までやってきたことが、すべて1つの糸でつながったような爽快感もあったんです。


これからも楽しい素敵なコミュニティを見出していきたいです。

こんな私ですが、これからもどうぞよろしくお願いします。

だいたいスターバックスで、あえてホットティーを飲みながらnoteを書いているので、ホットティー1杯くらいのサポートを頂けたら、こんなにうれしいことはありません。