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トルストイと老子と一人の日本人

こんにちは!
東北大学日露交流サークルです。今回は、トルストイと小西増太郎による『老子』の露訳作業について紹介したいと思います。

トルストイは、ロシアを代表する大作家です。代表作として、『戦争と平和』、『復活』が挙げられます。

彼は白樺派やガンジーに影響を与えた一方で、『老子』から非常に大きな影響を受けていました。また、彼は小西増太郎という日本人とともに『老子』の露訳作業を行いました。

そこで今回は、日露交流という観点から、トルストイと小西増太郎による『老子』の露訳作業について紹介します。

1.トルストイと『老子』

トルストイと『老子』の関係を知らなければ、『老子』の露訳作業の意義が感じられないと思うので、まずはそれを紹介します。

トルストイは、その人生の後半期に孔子や老子の影響を受けていました。そのことは、彼が1891年にM・M・レージェルレ(出版業者)に送った手紙からわかります。

M・M・レージェルレへ
・・・私は自分に強い印象をよびおこした書物のリストを、印象の程度を三つの段階に分けて、作成した書物のリストを、印象の程度を三つの段階に分けて、作成し始めたのでした。その三つの段階はー絶大、甚大、大という言葉で示しました。そのリストを私は年齢によって区分しました。・・・
感銘を受けた作品
・・・五十歳から六十三歳まで
ギリシャ語の全福音書 絶大・・・老子、ジュリアン著 絶大
(中村融訳『トルストイ全集18 日記・書簡』,1973)

「老子、ジュリアン著」ですが、これはジュリアンの仏訳『老子』を指しています。
また、彼の日記にも『老子』の影響が伺える部分があります。

一八八四年(五十六歳)

三月十一日
孔子の中庸の教えはー驚嘆すべきものだ。老子と全く同じだ。自然の法則の実践ーそれは叡智であり、力であり、生命でもある。
三月十五日
精神状態がよいのは、孔子や、とくに、老子を読んだためだと思っている。・・・エピクテタス、マーカス・オーレリアス、老子、仏陀、パスカル、福音書。これはだれにとっても必要であろう。
三月十九日
孔子読む。いよいよ深く、いよいよよし。彼と老子を欠いては福音書も完全ではない。一方、孔子は福音書なしでも何ということはない。
(中村融訳『トルストイ全集18 日記・書簡』,1973)

これらのことから、トルストイが『老子』から大きな影響を受けたことがわかります。

彼がその影響を受けた理由は、ひとえに『老子』と自身の思想が似ていて共鳴する所があったためだと考えられます。例えば、『老子』の無為や非暴力の思想は、トルストイの自然を重視し人為を批判する思想や徹底した非暴力主義と似ています。

トルストイと『老子』の思想関係についてより詳しく知りたい人は、キム・レチュン講演、柳田賢二編『老子とトルストイ』(2001,東北アジアアラルト)を参照してください。思想関係だけではなく、日本人に与えたトルストイの影響などにも言及されており、非常に面白いです。

2.小西増太郎

小西増太郎は、『老子』の露訳作業を機にトルストイと交流を持ちました。また、トルストイの葬儀に参加した唯一の日本人でした。ここでは、彼の人生全体を簡単に紹介していきます。

小西増太郎は1861年に岡山県で生まれ、1879年に洗礼を受けました。その後、ニコライ堂で五年程ロシア語などを学び、ロシアへ留学します。ロシアでは、キエフの神学校を卒業後、1892年にモスクワ大学に入学しました。

モスクワ大学では、彼をトルストイに紹介したグロート教授に師事します。
彼は教授の勧めにしたがって、『大学』の露訳をし、その後『中庸』『孝経』の露訳をしました。これらの露訳を評価され、彼は教授に『老子』の露訳を勧められ、遂に『老子』の露訳に取り組み始めました。

ちょうどその時、トルストイはモスクワの別邸に居たので、教授はその別邸を訪れ、小西の『老子』露訳について話しました。トルストイは、その露訳を模範的なものにしたいため、小西を連れてくるようように頼み、遂に露訳の共同作業が始まりました。

露訳作業の終了後、彼は留学を終えて帰国します。その後は、トルストイの作品の翻訳や野崎台湾塩行の支配人としての活動、ロシアへの再渡航などをします。

小西増太郎の研究者である太田健一氏は、彼の生涯について、「ハリストスの信仰、トルストイへの愛は一貫していたものの、信仰(宗教界)で生きるべきか、実業で生きるべきか、はたまた、純粋に文学で生きるべきか教育界で生きるべきか、終始揺れ動いた波瀾の一生であった。」と述べています。
(太田健一『小西増太郎・トルストイ・野崎武吉郎ー交情の軌跡』2007,p11)

また、小西は自著の中で「過去の私の生涯を検討してみると、なんだかトルストイと離れ難い因縁があるらしい。老子を彼と共訳し、長く逢わないと彼は福音書に傍点を施して私を教え、逢えば僅かな時間でも愉快な話ができ・・・」と述べています。
(小西増太郎,太田健一監修『いかに生きるかートルストイを語る』,2010,p13)

「福音書に傍点を施して私を教え」の所についてですが、小西は帰国後に徳富蘇峰経由でトルストイから聖書をもらっていました。その聖書は、トルストイが重要だと思った所に線が引かれていました。彼はそれを以って、そのように述べたのでしょう。

以上をまとめると、彼はキリスト教信者としてロシアに渡りました。その後、教授の仲立ちによってトルストイと出会い、ともに『老子』の露訳を行い、深い交情を結びました。その後、彼は色々と揺れ動いた人生を送りますが、このとき結ばれたトルストイとの因縁は終始途切れることはなく、彼に大きな影響を及ぼしたと言えるでしょう。

ちなみに小西はモスクワ大学で心理学を専攻していました。東北大学の心理学部とモスクワ大学の心理学部は交流があります。
私たちは、過去に東北大学の心理学の教授である阿部恒之先生にロシアでの経験や見解についてインタビューをし、それを記事にまとめました。
その記事は以下の通りです。興味がありましたら、ぜひ読んでみてください。


3.トルストイと小西増太郎による『老子』の露訳

トルストイと小西増太郎による『老子』の露訳は、1892年11月から始まりました。先述したようにそのきっかけは、トルストイがグロート教授から小西増太郎を紹介されたことから始まります。

グロート教授は、小西が『老子』の露訳をしていることを紹介し、その後小西とともにトルストイを訪ねます。そこで、露訳作業を一緒に行うこと及びその作業方法が決まりました。

作業は、次のように決まりました。①隔日で小西が『老子』二章分の露訳を携えてトルストイを訪ね、それを読み上げる。②トルストイがそれを英仏独訳の『老子』と比較し、露訳を正し、訳文を確定する。

このような作業を通してトルストイと小西は、交情を結ぶとともに『老子』の露訳を完成させました。その中で、小西は露訳に関わるトルストイの考えに困ったり、作業外の宗教問答でトルストイの思想に影響を与えたりしました。

小西が困った一つの例として、『老子』三十一章を訳そうとした時のトルストイへの対処が挙げられます。

『老子』三十一章には以下の文があります。

「兵は不詳の器にして、君子の器に非ず。已むことを得ずして而うして之を用うれば、恬淡なるを上と為す。」
(武器は不吉な道具であって、貴人の(用いるべき)道具ではないのだ。どうしても用いなければならないときには、貪欲でないのが最もよい。)
小川環樹訳注『老子』(1973)より引用

トルストイは、「兵は不詳~非ず。」の非暴力の思想に感銘を受けます。
しかし、徹底した非暴力主義者である彼は、「已むことを得ずして」以下の妥協的な所に不満を覚えて、様々なことを言い、作業が手につかなくなりました。
困った小西は、そこでその日の作業を切り上げることにしました。

露訳作業中に起きたことなどは、小西増太郎『いかに生きるかートルストイを語る』に詳しく書いてあるので、ここでの紹介は以上とします。興味を持った方は、是非読んでみてください。

コラム 西洋人と中国古典
清末民國初に活躍した梁啓超の1920年の著作(『欧遊心影録』第一編「欧遊中之一般観察及一般感想」下半篇)に、外国人から中国古代思想を褒められたことが述べられています。そのエピソードの後、彼は「近来西洋の多くの学者が東方の文明を輸入し、〔西洋文明を癒す〕薬にしようとしている。わたしがよく考えてみるに、われわれにはたしかにこの資格がある。・・・」と述べています。(岡本隆司,石川禎浩,高嶋航編訳『梁啓超文集』,岩波書店,2020,p.445,446。〔〕部分は訳者による。)
この部分は、西洋文明の処方箋として中国文明を説くことで、自国文化の重要性や人類に対する中国人の責任などを主張し、中国人を鼓舞する所です。
そのため、多少割り引いて考える必要があると思いますが、少なくともこの文章から、一部の西洋人が中国古典(東洋文明)から何かを学ぼうとしていることがわかります。
もちろん、その一方で中国を遅れた国として捉える人もいました。しかし、トルストイの『老子』探求は、確実に前者の文脈として捉えることができると思います。

4.総括

長くなってしまいましたが、以上がトルストイと小西による『老子』露訳作業に関する紹介でした。

年齢や立場、国籍を超えて、ロシア人と日本人が英仏独訳を参考にしながら中国古典の露訳を行うという文化交流の中で、交情を結んだ二人は、まさに異文化交流や国際交流の模範と言えるでしょう。

私は、大学で東洋史を学ぶとともに、ゆったりと三年間ロシア語を学んでいました。つまり、約三年間、主にロシアと中国について大学で学んでいるわけですが、あまり日中ロが良い意味で一度に結びつくことはありませんでした。しかし、この二人の関わり合いを知り、日中ロの良い結びつきを知る事ができて良かったと思います。

それでは、次回の記事でまたお会いしましょう。

(文責:東北大学日露交流サークル 高麗)

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