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プロフェッショナルと、アマチュアリズム(前編)


会社の研修などで、

「そんなことではまだアマチュアだ! 」とか、

「プロ意識を持て!」

などと言われたことのある方も多いと思いますが、

乗馬などのスポーツの他、芸術、学術などへの関わり方を表す言葉としてよく使われるものに、

「プロ」「アマ」というのがあります。

「アマチュア」(amateur)とは、

『プロフェッショナル(professional)ではない人物』のことであり、素人、というような意味で使われることも多いですが、


語源は、「愛する」という意味のラテン語であると言われています。

日本語で言うなら「愛好者」といったところでしょうか。

一般的には、専門家に匹敵する知識や技術を持っていない人、あるいは、知識や技術は持っていても職業としてそれを行うための資格を持っていない人、

または技能や資格は持っていてもそれを職業とはしていない(そのために「セミプロ 」と呼ばれる場合もある)ような人に対してそう呼ばれることが多く、

そのことから、あえて職業とせずに趣味の範囲に留めておくことを自負するのを「アマチュアリズム」と言ったりするようです。

似ているものに「奉仕活動」や「ボランティア」がありますが、

これらは個人の趣味というよりも他の誰かのために活動を行い、本来得られるべき報酬をあえて拒否することを自負する(あるいはそうさせられる?)という違いがあります。

昔からアマチュアの研究者による無償の労力の提供によって発展してきた、無線技術(アマチュア無線)や、パーソナルコンピュータ、フリーウェアソフト開発、インターネット、あるいは天文観測などのように、

アマチュアの活動が非常に重視され、プロ以上に敬意が払われてきたような分野もあります。

・スポーツにおけるアマチュア

スポーツにおけるアマチュアも、一般的にはそれを職業とせず、かつ報酬も受け取っていないことが要件とされます。

1980年代初めまでのオリンピック憲章の「アマチュア条項」をはじめとして、

国際競技連盟や団体によって解釈に若干の違いはあるものの、その定義はおよそ上に掲げたようなものでしたが、

現状では、オリンピックの「アマチュア条項」を筆頭に、大会におけるアマチュアに関する規定が削除される傾向にあり、今では、規定自体を行っていない団体も存在するといいます。

選手の経済的状態がどのようなものかが問題化されることが無くなり、「アマチュア」である事に固執する必要性がなくなったことで

「アマチュア」の定義自体も無意味化しつつあるようです。

勝利至上主義の流れの中で、競技選手にプロフェッショナル的な技能が強く求められるようになり、その獲得のために多くの資金や練習環境が必要になって、アマチュアリズムの限界が囁かれるようになったためです。

アマチュアに対して、スポーツを職業とし、かつ報酬を受け取っている選手が「プロ」とされますが、

実際には、「中間」に当たるような選手も存在します。

即ち、「スポーツを職業としてはいないが、それによって報酬を受け取っている」ような選手です。

このようなスポーツ選手は、「アマチュア」とは呼べないため、国際サッカー連盟などでは

ノン・プロフェッショナル(ノンプロ)と表現されます。

現在では、大規模な国際大会に参加するトッププレーヤーの中で完全なアマチュアという人はほぼ皆無に等しく、多くはプロか、若しくはノンプロとして活動しているというのが実情です。

・歴史

19世紀から、様々な近代的スポーツが誕生したと言われますが、

当初からしばらくの間、参加資格についての規定の一つとして「肉体労働者を排除する」というものが存在しました。

実際、経済的な問題などから労働者階級がスポーツを楽しむようなことは難しく、

自然とスポーツにアマチュアとして親しめるのは裕福な者に限定されることになり、

そのステイタス感が、アマチュアリズムの精神へと繋がっていったのだろうと考えられます。

19世紀末になり、アメリカやイギリスで、

ジョッキーと同じように職業としてスポーツを行い報酬を受け取ることで、労働者階級がスポーツをする上で障壁になっていた経済的な問題をクリアするような仕組みが生み出されたのが、プロフェッショナルスポーツの始まりです。

しかし、同前述したように、その頃始まった近代オリンピックでは、まだ参加資格はアマチュアに限定されていました。

それが、第二次世界大戦後、ソビエト連邦を初めとする東側諸国がスポーツをプロパガンダの重要なツールとして捉えるようになると、

オリンピックで大量にメダルを獲得するための「ステート・アマ」と呼ばれる仕組みが生まれます。

これは、身分としてはアマチュアを装っているものの、実態はスポーツに専念できる環境を国家から与えられている、というものでした。


「ステート・アマ」をアマチュア選手として捉えてよいのか、という西側諸国からの批判と、

それに対抗する手段としてプロ選手を出場させる事によって得られる経済的な見返りへの期待から、

IOCがオリンピック憲章からアマチュア条項を削除したことで、

オリンピックに出場するようなトップレベルの選手にとっては、アマチュアリズムに拘る意味がなくなり、

多くの選手が「プロ宣言」を行ったりすることになりました。

・日本のアマチュア競技

日本のスポーツ界を長く牽引してきたものとして、学校スポーツと企業スポーツがあります。

いずれもアマチュアスポーツとして発足したものですが、現在これらに属する選手がアマチュアであるというのは、やや古典的な認識だと言えるでしょう。

学校スポーツは、中学高校や、大学の部活動で行われているもので、特に後者については、企業スポーツが整備されるまでは日本のスポーツの牽引役を担ってきた歴史があります。

柔道やレスリングなどのように、形式上企業スポーツに移行した後も、実質は出身校で練習していたりするようなケースもあります。

こうした場では、トッププレイヤーはそもそもスポーツで活躍する事を期待して入学を許可されたり、学費や部費が免除されたりしており、

「スポーツ特待生制度」などと呼称されてはいますが、要はスポーツ活動に対する経済的見返りであり、この時点で「アマチュアではない」という状態だと言えます。

特に、私立学校などでは明らかなステート・アマの一種とみなされるような形態も見られます。

一方の企業スポーツは、元々は会社内の同好会やサークルとして始まったものですが、

1960年代以降全国規模のリーグ戦が実施されるようになって、企業アマ(コーポレート・アマ)と呼ばれる形態が成立すると、

それ以前の大学スポーツに代わって国内スポーツのけん引役を担うようになりました。

企業アマとは、スポーツ活動による社員・職員の福利厚生や健康増進、あるいは宣伝効果を名目として、

例えば、就業時間内に練習をしても就業したものと見なして賃金が払われたり、体育館やグランドの整備をしてもらったり、といった経済的支援を受けるのが一般的で、

ステート・アマと同じくこれを「アマチュア」と呼んでいいのかという議論の余地が存在します。

また、企業によるスポーツ活動はあくまでも企業メセナの一環であり、会社の業績等の事情によって整理、廃止されたりして、リーグ自体が存在できなくなることもあります。

大企業などには稀に「馬術部」があるという所もあるようですが、ほとんどはあくまで福利厚生・健康増進活動という程度の扱いであることが多いようで、

社会人でステート・アマというほどの活動をしているのは、JRAやNARの職員くらいのものだろうと思います。

馬術の競技には、昔から基本的には選手としてのプロアマ規定のようなものはなく、

指導者競技会などを除けば、アマチュアの会員さんとプロの指導者が同じ種目にエントリーする(「下乗り」も兼ねて)ような形が一般的ですが、

これには、職業として馬を扱う「馬丁」たちが仕上げた馬に、「倶楽部」の出資者であり会員である馬主たちが乗って競技を楽しんでいた、という歴史的な経緯も関係しているのでしょう。

現在の乗馬クラブでも、良くも悪くもそうした時代のなごりを残しているようなところはまだ存在します。

競馬では、さすがにプロ資格を持つジョッキーしかレースには騎乗出来ないことになっていますが、これも公正確保の為というだけではなく、

やはり当初はオーナーが自ら騎乗したりしていたのが、やはり危険でもあり、職業としてこれを請け負う人に任せるようになったのだろうと考えられます。

「アマチュアリズム」の本来の意味や歴史を知った上で見てみると、

ダービーの日の着飾った観客の姿や、馬術競技のドレスコードといった様々なしきたりの意味もなんとなく理解出来るのではないでしょうか。

(後編へ続く)


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