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自意識の塊

好きな言葉は「匿名」、この世で最も怖いもの「身バレ」。改めましてこんばんは、中臣鎌足…あ、いや、自意識の塊です。

などとド寒いことを書き出しに書いて、ふざけてしまうのも、おそらく自意識過剰だからです。自意識過剰といっても、ただ「人目が気になる」というのとも少し違う気がします。

こうやって「私の自意識過剰は他の人の自意識過剰とは少し違う」みたいなことを言ってしまうのも、やっぱりおそらく自意識過剰だからです。

「書きたかったら自意識捨てろ」みたいなnoteいくつか見たけど、そんなのムリムリ!自意識捨てるくらいだったら書けなくてもいいもん!と言いながら書いています。

自意識過剰と言えば、「他人の目を気にしすぎ」というイメージ。その解釈が正しいかどうかは置いておいて、たしかに気になると言えば気になります。でも、どう思われるか気になるという感じとは少し違います。どう思われるか気になる、のではなく、「何も思って欲しくない、自分を知られたり分かられたりしたくない」と思っているのです。

最近はかなりマシになったし、相手にもよるのですが、なぜだか、昔から自己開示への抵抗が異常に強くて、「誰も私自身の話なんて興味ない」という自尊感情の低さと、「お前なんかに私のこと教えてたまるか/分かってたまるか」という、めちゃくちゃ高飛車な性格の悪さが混ざった思いを抱いている気がします。

だから、会社その他で、急に人前で話すことになったり、何かの中心的な役割を務めることになっても、それは意外と平気です。それは多分、そういう場面にいる私も、話す内容も、素の「私自身」ではないから。どう思われようと構いません。

そして、ここにいろんなことを書くのも割と平気。何故ならみなさんは私が誰なのかを知らないから。ここに書いてある内容と、「私自身」が結びつくことはありません。

だからこそ私は、生身の「私」を知っている人が、私がここに書いてるような人間であると知ること、即ち「身バレ」を非常に恐れているのです。

「自意識過剰は他意識過剰だ」というようなことが書かれているのをよく見かけます。「他の人を意識しすぎてるから自意識過剰になるのだ」ということですね。そして多くの場合続くのは、「他人はそんなにあなたのことなんて考えてません」です。

なるほどね。そっか、そっか、言われてみれば誰も人のことなんてそんなに気にしてないよね。じゃあ平気なんだね!

なーーーんて言うと思ったら大間違い。残念でした。何故なら、私自身がものすごく人のことを考えているからです。

例えば、(合っているかどうかは別にして)

今この人が喋っていることは本心だな/お世辞だな/適当だな
この人が、こういうことを言うのは、褒めて欲しいからだな/羨ましがらせたいんだな/一緒に喜んでほしいんだな/慰めてほしいんだな
この人が、こういう態度なのは、自分に自信がないからだな/ストレスが溜まってるんだな
この人が優しくしているのは、人からよく思われたいからだな/本当に力になりたいんだな
この人は自身に溢れているのは、本当に揺るぎない自分があるからだな/虚勢を張っているんだな

というように他人の言動を、良くも悪くも見たままにとらえず、勝手に深読みしまっているからです。しかも、「裏を読もう」とか考えているわけではなく、当たり前のように、そういう風に人を見ているのです。その上で、「ストレスが溜まってるのなら話を聞こう」だとか、「こういう性格なら苦手だからちょっと距離をおこう」だとか、判断しています。ナチュラルに。だから仲良くなりやすいのは、思考と言動が一致しているように見える人か、逆に全く読めない人のような気がします。

おそらく世の中には私のように無駄に深読みする人もいれば、見たこと聞いたことをありのままに素直に受け止める人もいるだろうと思います。でも、私は自分が前者であるからこそ、人も私を勝手に解釈して見抜いていたり(あるいは誤解していたり)するのではないかと思っているのです。人が「私に対する何か」を知ったり考えたりすること自体、たとえ良いことであっても少し居心地悪く感じてしまうのです。人から好かれたいとか嫌われたくないとかではなく。(もちろん好かれれば嬉しいし、嫌われれば残念だけど、そこはどちらでも仕方ないと思っています)「ふーん、そういうことを考えている(している)んだ」と知られることが、なんだかすごく恥ずかしくなっちゃうの。えへ。(語尾で誤魔化すスタイル)

だからそこまで心を開いていない相手に対してする話は、例えばニュースだったり、芸能情報であったり、なんらかのウンチクであったり、他の人の話題であったりが主で、自分の話をするとしても「今日何をした」だとか、よくて「○○に対する考察」みたいな、「事実やそれに基づく私の判断/見解」のような内容で、自分の感情が含まれる話をすることは、あまりありません。つまり、なるべく話の内容そのものに関心がいき、「私自身」に関心が向かない話を選んでしまいます。

それでも結局、私のような人間がその場にいれば、「この人は心を開かない人だな」とか「こうやって自分を守ってるんだな」とか思われるだろう、と思います。

結局のところ、自分が他人を意識していて、そのせいで自分の中の想像上の他人が自分を意識している、ということだと思います。私が本当に恐れているのは、実は他人の視線ではなく、自分自身を見つめる「私の視線」なのかもしれません。「自分が他人だった時に自分が自分をどう思うかを意識しすぎて自分を出したくない」となると、自意識過剰どころか、まさに自意識の塊。なんとなく最初に適当につけたタイトルだったけど、正解でした。

今日で、noteを書き始めて21日目になります。「書きたかったら自意識捨てろ」といった方の意図と一致しているのかどうかは分かりませんが、確かに「身バレしたくない」、「知人に気づかれたくない」という思いのせいで記事が書けないことがよくあります。ネタがすぐに尽きてしまうのもそのせい。

何百万とある記事の中で、たまたま私の記事が、たまたま私の知人に読まれ、たまたまそこにその人が「あいつだな」と気づく情報を書いてしまっている。そんなごく低い確率に怯える必要はおそらくないと思います。頭では分かっているのに、それでも警戒せずにいられません。ビクビク。

そんなわけなので、こういうサイトのIDやハンドルネーム?ニックネーム?そういうものを決めるのもすっっっごく苦手。センスとかこだわりとか趣味とか透けて見えちゃいそうじゃない?(考えすぎ)だからといって本名にちなむと身バレのリスク。(考えすぎ)でも最近良い手を思いつきました。適当な写真を選んでその写真に名前を付ける。これです。私の自我がほとんど関係ない名前。
私じゃない。写真の名前です。何ならこれを書いているのも、私じゃなくて写真です。(それは違う)

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