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「包む」美学と「紙」に宿る心 日本文化とその精神についての雑考

 日本人は「包む」ことが好きだ。贈り物を包む、食べ物を包む、お金を包む、本を包む、骨壺を包むなど、日常に「包む」が溢れている。あまりにも当たり前のものとして受け止めているせいで、気にもとめていなかったのだが、ある時、義母が娘に小遣いを渡す時、ティッシュペーパーでお金を包んでいるのを見て、「包む」というその行為自体が気になりだし、止まらなくなった。

 そういった光景は昔はよく見た。お正月、お金をお年玉袋に包んで渡すことはずっと続く風習であるが、お年寄りは紙の袋がないと、ティッシュペーパーで代用していた。今でもそういったことがあるのだと驚き、感心したのであった。日本人は、お金を剥き出しのまま手渡さない。そこに日本人の美徳がある。物を渡すにせよ、言葉を伝えるにも、露骨にダイレクトにそのまま渡し、伝えることを是としないのが日本人ではないだろうか。

 何で包むかは、さまざまにある。布、紙がすぐに思いつくが、餅などを笹や葉で包む、というのもある。食べ物でいくと、おにぎりがまさに「包む」食べ物としての象徴かもしれない。具材を「米で包み」、さらに海苔で巻く。ここには、たんに包むだけではない、「重ねる」という思想も入ってくる。

 桔梗屋信玄餅の包装に、その究極の美点が現れている。餅を黄な粉で包み、それをパックに包み、ビニールの風呂敷で包み、さらにそれを箱詰めし、その箱もまた包装されている、という具合だ。包み、そして重ねる、というこの複雑な工程、それが細かければ細かいほど、機微であればあるほど、日本人らしさが出ている、と言われるのではないだろうか。

 包装紙一つとっても、アートと思えるくらいにバリエーションが豊富である。デパートで手渡される紙袋なんかにも、細部へのこだわりや、しっかりとしたデザインが施されていたりする。

 あとは、ブックカバー。これも日本独自のものなのではないだろうか。本はただでさえ、カバーというものがあるのに、日本人はさらにその上に、紙などのブックカバーを重ねて本を読むのだ。ここにはどうも、人に何の本を読んでいるか知られたくない、日本人の「恥らい」という、これも独特の精神構造があるようだ。(参照:『その歴史90年、ブックカバーという日本文化』)


 こうして見ていくと、「包む」という行為自体に、日本人の精神構造や、宗教心的なものが読み取れるのかもしれない。このあたりはネットで調べてみると、すでにそのようなことが解説されていて、まさに包装を専門とする容器会社による情報があったので、それらも参考にしながら、雑感的な考察を進めてみたい。

 このサイトによれば、「包」の語源は、母親のお腹に宿った胎児の形を現わしているのだという。そこには、大切なものをつつむ、まもる、という意味合いがあるということだ。そこに、「装」が加わると、「包装」になる。装の字には「飾り整える」「そろえる」という意味があり、「包装」は「大切なものを整えて、つつみ大事に保護すること」を意味するのだという。(参照:『食品包装資材のあれこれ』)

 お祝い事、お中元などの贈り物、日常のプレゼント、お香典など、物やお金を包むうえで、包装、装飾に日本人は心をこめる。包むという行為は、たんに物を傷つけないようにするという実用的な側面だけでなく、物を渡す人間の心がそこにこめられる。そしてその装飾の豪華さや、包装の丁寧さが、施されていれば施されているほど、より強い心がこめられているような気がする。それは、「魂をこめている」のだと表現したとしても、大げさなものではないだろう。

 実際に、贈り物をもらうさい、包装紙を汚く破いたり、気軽に捨てたりできない、という経験はないだろうか? 私はある。実際にそれは、物を一時的に包んでいる「紙」でしかないのに、われわれはそこに、相手の「気持ち」を読み込んでいるのか、安易に傷つけたり捨てたりができないのである。

 ここに、もしかしたら、日本人のどこか宗教的な精神構造が見え隠れしているのかもしれない。と思って、そのことも調べていたら、「紙は神に通じる」と題された記事があったので、そちらも掲載しておく。

 
 この記事を読んで感じたことだが、日本企業はペーパーレスが進まない、紙のデジタル化(DX)が進まないということが、よく言われている。実はこれ、日本人がITのような先端のテクノロジーに疎いとかそういったことが原因なのではなく、日本人のある種の「紙信仰」的なものがそこにはあり、潜在的なアイデンティティになっているからではないだろうか。

 PCで書類を作成したとて、日本人というものは、お客様との大事な商談では、それを印刷し、紙で手渡し、プレゼンをする。紙で表現した資料の方が、魂がこめられている気がするのだ。今は減ってきたかもしれないが、まだまだ紙文化の企業は多いように思う。

 本もまた、電子化がこれだけ進んでも、やはり紙で印刷された書物への愛着、信仰は間違いなくある。積読も最近話題だが、あれはたんに物や情報を積んでおくためにそうしているのではない。自分の魂というべきものを、書物に反映させているのだ。そのことは、私自身がまさにそうだから、真剣にそう思っている(笑)。 

 紙は神に通ずる、という話を聞き、いろいろと合点がいくことが多い。魂をこめる包装、本を捨てられなかったり、契約書など大事なものは紙で保管しておきたいという心理、これらは、欧米の文化からすれば極めて非合理的なものに映るだろうし、日本人の中でも若い世代の人間の方はそう思ってしまうかもしれない。

 だが、紙は日本人の文化、アイデンティティとさえ言ってよいものなのではないだろうか。だから、簡単にペーパーレスの世界へ移行などできないのだ。それは、日本人が紡いできた「精神」を取り除くことに他ならないからではないか。


 ちょっと違う角度からも、この「包む」ことについて考えてみたい。先ほど、日本人のこの「包む」という行為には、日本人独特の精神構造があるのではないかと書いたのだが、そのことは、日本語という言葉自体にも通じるものなので、そのあたりを探ってみたい。
 
 この「包む」という行為。大切なものを包む、まもるという意味であることは上述した。これらは、贈り物や手紙など、何かを誰かに渡す時の意味合いである。もう一つ、日本人の「包む」行為には、別の意味合いが込められている。それは、ブックカバーなどにもみられる、「隠す」という意味合いである。

 ここでは、「恥じらい」を隠す、などの心理が見てとれるのだが、そういったことを日本人は「奥ゆかしい」などで表現する。ここにも日本人独特の心理があると思うが、日本人はとかく、露骨さ、剥き出しのものが嫌いである。大事なもの、大切なものは、包み、重ねることで、隠さなければならない。核心となるものは、隠すことが日本人の美学に現れている。それらは、「余白」への志向にも通じている気がする。

 その隠すという観点でいくと、この包む行為の中で、日本人がよく包んでいるものがある。物でもお金でもない。何かおわかりだろうか?

 「言葉」である。本音や本心、などとも置き換えてもいいかもしれない。

 われわれは、大切な物を隠すだけでなく、心も隠す、という点に美徳を感じている。この本心を包み隠すことは、「慎ましさ」と表現される。「奥ゆかしさ」と「慎ましさ」、あるいは「繊細さ」。さりげなく、控えめに、たしなむ、これらは日本人の「わびさび」や「いき」、あるいは本居宣長の「もののあわれ」に通じるものであろう。

 オブラートに包む、という言い方もする。(実際にボタンアメというオブラートで包むお菓子もある!)。これは、直接な言葉、強い言葉での表現はさけ、遠回しな柔らかな言い回しをするということであるが、海外の人間にはよくわからないとされる、日本人の特徴的な言語表現、精神構造である。

 その変形が「空気を読む」ということだろうか。いぜんであれば「空気を読む」は、「君は、空気が読めるね」という感じで、どちらかというと高い評価をする際に使われていたものだった気がするが、最近は、政治における隠蔽体質があまりにひどすぎて、「空気を読む」や「忖度」といった言葉は、ネガティブな使い方になってしまっている気がする。さらにその変形亜種が、「同調圧力」なのであろう。

 安易に人には本音を言わず、表面上の言葉と、実際に心の中で意図してるものは違うものである、という複雑な構造を持つのが、日本人の言葉の使い方だ。

 たとえば、「君は出世したいんだろう?」と上司に聞かれた時、思わず「いや、私はそんなできた人間ではないので。今のままで十分です」と謙遜する日本人は多いのではないだろうか? 本心は、出世したい、もっと稼ぎたいという欲がまんまんだったとしても、その我欲を、他人には簡単には見せないのである。

 このように日本人は、言葉を伝えるうえでも、本心を伝えるにも、「包む」のである。言葉が、言霊であり、それがまた日本人の潜在的な信仰心であるということは、また別のところで触れたいと思う。ここで伝えたいのは、言葉は、日本人にとっては、やはり「魂」そのものであるからこそ、そこに「力」が宿っているということである。

 その力で、人を傷つけたり、時に殺したりすることもできてしまう強さゆえ、なるべく包むことで、その力を和らげているのである。これは、日本人が聖徳太子の時代以来もつ「和」の精神である(井沢元彦)。

(そういった意味だとSNSのコミュニケーションは、言葉を包む、ということ自体が失われつつある状況なのだといえる。)

 しかし、面白いのは、この「包む」という精神構造、日本語そのものに見られると指摘するのは、岩手大学の教授、人文学者の木村直弘氏である。この論文自体、民俗学者の折口信夫などを扱っているため、それも踏まえて論じることは難しいのだが、本記事の主題に通じる部分だけを抜粋しておこう。

日韓文化の比較研究で知られる李御寧(イオリョン)は、日本語について次のように指摘している。  

ごく日常的な言葉でも、日本語を習う時にいつも苦労するのは、日本語はあまりに厚化粧していて素顔の意味が隠されていることだ。要するに、言葉の表と裏のズレである。激しい場合には、言葉自体の意味とそれが示していることが、まるっきり反対のことがあるからである。
※強調引用者

論文:『ツツまれる音 : 「言挙げせぬ国」における逆説の美学をめぐって』木村直弘 より

 
 日韓文化の比較研究の李御寧氏は、日本語自体が持つ複雑な構造に単純に驚いている。「言葉自体の意味とそれが示していることが、まるっきり反対のことがある」というのは、日本人の会話という行為にもあることはお伝えしたが、言語そのものがそうだというのである。

韓国語ではなるべく事実を「包み」込まないで伝えようとするのに対し、日本語の場合、物事を示すというよりはそれを「包む」といった感覚が強いと主張する李は、この相違の由来を日本における「包み文化」と「奥の美学」に措定する。「隠すことによってその特性をあらわす」前者は必ずしも日本の専売特許ではなくアジア一般に見られる特徴でもあるが、特に日本の場合、それは「形式論理では割り切れないパラドックスを生かした文化」として特徴づけられる。「包む」ことによって「奥」を創出する後者も同様であり、「包むことによって、奥に隠すことによって、そして逆に心が表にあらわれるパラドックス」の上に成り立っている。そして、それは「日本人らしさ」の要因のようにみなされている「慎ましさ」(「包む」=「慎む」)や「奥床しさ」が根差す文化的基底と言いうる。
※強調引用者

論文:『ツツまれる音 : 「言挙げせぬ国」における逆説の美学をめぐって』木村直弘 より

 
「包むことによって、奥に隠すことによって、そして逆に心が表にあらわれるパラドックス」とは、確かに日本語にはそのような側面がありそうだ。この論文では、ここから折口信夫の話に移ってしまうので、具体例が出てこないので、私が思いつくもので補完してみる。

 たとえば、日本人の「すみません」という言葉には、言葉の意味上では謝罪の意だが、じつは感謝をしたり伺いを立てたりするという内面の意味も込められていたりする。申し訳ないという気持ちがここでは裏にひっこみ、ありがとうの意が表に出てくる。こういうことではないだろうか。

 あるいは、まさに贈り物やお土産などを渡す時に使う「つまらないものですが」という言葉。この言葉も、貰い手は字義通りには受け止めないだろう。そこには渡す側の心を込めた感謝が込められていて、「つまらないもの」とは反転した意味が表出する。

 はからずも、最後の引用が、ここまで書いてきたことの裏付けのような形になってしまった。だが、やはりこの「包む」ことに着目した研究というものがあったようである。もっと探せばあるのだろうが、本記事は思い付きから始まった雑考なので、いったんここまでとしたい。

 結論としては、この日本人独特の「包む」という行為と、包む素材として「紙」。これらに、私は日本人における潜在的な信仰心、和の精神、その心理構造を見たのであった。欧米などの合理主義的な考え方からみれば、この日本人の「慎ましさ」は、きわめて非合理的で、ときにもどかしいものに見えるだろう。

 最近は海外からも、伝統的な日本文化への評価は高いが、それらはたんに表面的な物珍しさで、資本主義経済の中で消費されるものでしかないのだろうか。もう少し見極めは必要そうだ。

 そしてこの伝統的に続く「包む」文化と、そこに見え隠れする日本人の精神構造は、言うまでもなくわれわれ日本の社会を規定している。それは良くも悪くも、ほとんど無意識レベルといってよいほどに根付いているものではないだろうか。

 くれぐれも、このことについての批評や、是非を問うことがこの記事の意図ではない。だが、本来問うべきところは、そこにあったりする。かつてポストモダニズム思想の潮流において、ロラン・バルトが、日本は「表徴(記号)の帝国」である、といったような文化論を展開していたが、バルトが言うように日本そのものが、大きな表徴的なものに包まれているのではないか、という社会構造の問題はあるからだ。だがそれについての紐解きはまた別の機会としたい。


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