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人はなぜ「座る」のか? 椅子と景色のはざまで

 オーギュスト・ロダンの彫刻『考える人』は座っている。座りながら考えている。私が好きな哲学者、スピノザの晩年の住処、ハーグにある彼の銅像も座っている。頬杖をついて、思索に耽っているように見える。

 私もまた、この記事を書きながら座っている。仕事も基本はリモートで、PCでの作業なので、一日中座っているということもある。下手したら、家から半径数百メートルの範囲でしか移動していないということもあり、座り過ぎが運動不足を招く。それで、弱くなった膝の半月板が損傷してしまうという情けない過去を持つ(笑)。

 座りながら、人はさまざまな作業を行う。現代人にとっては、今挙げたように仕事をするために。会社のオフィスには、社員ひとりあたりに机一台と椅子一脚が基本的には与えられている。

 もう一つが、学生がそうであるように勉強するために。授業でも、家に帰ってきても、塾でも勉強は座って行う。

 まだまだある。食べる時も、基本は座りながらそうする。食卓を囲み、誰かとコミュニケーションとりながらにせよ、テレビを見ながらにせよ、人は座りながら食べる。座りながら談笑する。

 自動車も自転車も座って運転する。映画や演劇など、何かを観賞するのも座りながらそうする。ピアノなどの楽器の演奏にも座りながら行うものがある。
 
 挙げればきりがないが、このように人は、座りながら何か別のことをする。もちろん立って行うものもあれば、歩いて行うものもある。だが、座ることで人は仕事の生産性を上げたり、社会的、文化的な行為、活動を拡張させている。

 一方で、「座る」ということは、上記のような能動的な活動の意味合いだけを持つわけではない。身体が疲れている時に、休む、憩うなど、リラックスするためにも不可欠な行為である。

 作業のためにせよ、休むためにせよ、私たちはたんに座るのではない。そこには「椅子」という重要な存在がある。日本において椅子が広がるのは明治時代、文明開化の頃からのようだが、現代の日本においても椅子というアイテムは欠かせない。

 公園のベンチ。デパート。駅のホーム。公共施設の中。そこかしこに、「椅子」がある。人が座るための椅子だ。それこそ、椅子はいつ発明されたのだろうか。ちょっと調べたところでいくと、椅子の起源は紀元前3000年頃らしいが、はっきりとした特定は難しいのではないか。世界各国のさまざまな文明にて生まれたことであろう。

 でも、もともとはどうだろうか。椅子が発明される前の人類は、座るということを、どう行っていたのだろうか。それは想像するに、地べただったり、少し盛り上がった草の上だったり、石の上だったり、切り株の上だったり。疲れた時に、休息のために座る。そこから、座るということは始まっているのではないだろうか。

「座る」ということを哲学し、科学するという『座ラボ』というサイトがあったので、そこに登場している生物学者、池田清彦氏の話を参照してみる。

 
 そもそも座ることについては、哺乳類だけに観測される行為だという。しかし多くの哺乳類は、「立つ」以外の「伏せる」と「座る」と「寝る」という姿勢の線引きが曖昧であるのに対し、人間は「立つ」「座る」「伏せる」「寝る」のそれぞれの姿勢が明確に異なる。

直立二足歩行を始めたというのがやはり重要です。その結果「立つ」と「寝る」の落差がとても大きくなった。そこで間に「座る」を置いて、人間の姿勢は大きく3段階になりました。そのため他の動物よりも「座る」が持つ意味は大きくなり、より特殊なポジションとなったのです。

https://www.suwaru.jp/interview/12/より

「座る」という姿勢は「立つ」姿勢と「寝る」姿勢の間にあるといってよい。いわば、「動」と「静」の中間にあるものとして位置付けることができる。池田氏も述べているように、二足歩行は身体的な負荷も大きい。かといって、すぐに寝るというわけにはいかない。座ることで休息させ、身体機能を補助する意味合いがある。

 生まれたばかりの赤ちゃんは、もちろん個人差はあるが、通常は、うつ伏せ→寝返り→お座り→ずりばい→はいはい→つかまり立ち→伝い歩き→歩くというプロセスを経る。ここでの「座る」も、赤ちゃんが寝ている状態から、ずりばいやはいはいといった移動を始めるに至るまでの中間に見られる行為である。

 動と静の中間の行為、またはその状態をさす「座る」。

 もちろん、線的に区分できるほど、ことはそんなに単純ではないが、いったんそのようなものとして定義しておく。

「座る」ということ、そして「椅子」の発明は、集団行動する人間においてはコミュニケーションのうえで重要なものであったと思われる。先に挙げた記事で池田氏が述べているように、椅子の発明の背景には、「目線の問題」が指摘されている。

 玉座というものがあるように、身分の高さや権力を表わすために、椅子は重要なアイテムであったと思われる。身分が低いものはひれ伏すか、地べたに座るか。より身分の高い王のような存在は、常に高い視線を維持していたのであろう。

 この「座る」ことで、身分の高低や地位などの優劣を表わすというのは、現代の日本社会においてもずっと続いている(海外はどうかわらかない)。会議や宴席での席の配置や、今はもうそこまでないと思うが学校での座席順、タクシーに乗る順番など。ただしこれは身分の差だけを表わすとも限らない。大事なお客様をもてなす時には「上座」に座ってもらい、もてなす側は「下座」に座るというのが通例だ。

 この目線を合わせるというのは、より民主的になった現代においては「対等」を表わすうえで、より重要になっている気がする。身長差があっても、椅子に座ることで、目線を合わすことができる。それによって「こいつ偉そうだな」とか「無礼だな」といった感情を緩和する役目を果たすであろう。そうやって「目線を合わせる」ことで始めるコミュニケーションは、人間独特のものであろう。

哺乳類全般にとっての「座る」とは違い、人間が生み出した「腰かける」は社会性の発展と関連してつくられてきたものです。集団の中でのランク付けは他の霊長類でもありますが、それを目線の高さで表現することはありません。相手の目を見てコミュニケーションするのが、人間の場合大きな意味を持っているからでしょう。相手の目をどこから見るかというのはとても大事で、大人と子どものように身長差があっても同じ目線になれば親近感が大きくなりますし、見上げるのと見下ろすのではもちろん意識が違ってくる。話をするときにどういう高さで座るかは、コミュニケーションの「質」に密接に関係しているのです。

https://www.suwaru.jp/interview/12/より


「座る」ことで深掘りできる問題はこれだけに留まらない。座り方や座る場所がその国の文化や礼儀を反映する場合も多く、これによって文化的なアイデンティティも表現されることがあろう。例えば、正座やあぐらは、アジアや日本において見られる「座る」の文化ではないだろうか。

 日本は明治期に西洋から椅子を輸入する前までは、畳に座る、床に座る、ということをしていたので、椅子に座る西洋の文化とは異なり、それはそれで独自の「座る」歴史をもっていて、日本の「座る」歴史だけをフォーカスしても面白そうだ(参照:https://tarzanweb.jp/post-283472)。日本は椅子の存在は知っていたが、あえて椅子を使わなかったという話もある(参照:https://www.suwaru.jp/interview/10/)。

 ちなみによく時代劇で、江戸時代なのに、飲食店で椅子やテーブルがあったりするシーンがあるが、あれはありえないそうである。江戸時代、日本人は殆ど畳の上に座り、せいぜい折敷(おしき、四角いお盆状の膳)を使う程度で、会席料理も同じで食卓というものはなかったらしい。

 このように、「歩く」や「寝る」行為同様に、私たちが当たり前の行為として捉えている「座る」。これ一つとっても、人類が固有に進化させてきた生物学的な特性、歴史的、文化的、そして社会的な背景を見てとることができる。まだまだ掘れば、いろんな意味合いが出てきそうだ。

 人間身体の特性や座るという行動を科学し、それをデザインや技術に応用して、よりよい社会、よりよい環境、よりより生活のあり方を探っていこうという試みは、さまざまなところでみられる。(参照:https://www.teramoto.co.jp/columns/14854/)。

 実用面だけでなく、椅子そのものがデザインの対象として芸術作品になることもある。

人間の身体に接する椅子は、それゆえに「人間(人体)」そのもの、もしくは人間の様々な側面を象徴する。ある時は「家族」「日常」「安らぎ・幸せ」、ある時は「玉座」という言葉が示すように「権威・権力」となり、または死刑執行の電気椅子や拘束具にもなることから「死・暴力」の象徴にさえなる。

『芸術家たちは椅子を使って何を表現したか。
「アブソリュート・チェアーズ」』
より

 椅子は、われわれの日常において、もっとも身近に接するといってもよいアイテムゆえ、椅子を何かしらのメタファーとして捉えたり、椅子を用いて新たな表現を追求するなど、アーティストの創作意欲を刺激するものになっているようだ。

 さて、ここまで「座る」ということと「椅子」についてさまざまな観点を列挙してきた。最後に、この「座る」ということが持つ、今日的な意義、可能性を、もう少し抽象的な観点で考えてみたい。

「座る」ということで人は何を可能としてきたか? という点でいくとやはり、読書をすること、勉強すること、思考すること、という内省の時間を確保できた点にあるのではないか。

「歩く」ことは、移動すること、食物を見つけること、運ぶこと、働くこと(外で)などのように、生きるために必要な活動、より実践的な行為である。「寝る」ことは、それらの活動によって疲労した身体を完全に休めるためにある。

「座る」ことは、繰り返しになるが、その「歩く」ことと「寝る」ことの中間状態にあるといってよい。身体を休ませているのだが、休ませた身体は眠りに入るわけではない。活動をしているのだ。それが「考える」ことである。

「考える」ということは、余力や時間的猶予がないとできないことである。歩きながら考えるということももちろんあるが、人は物思いにふけったり、思索をしたいとき、あるいは読書をするとき、基本的には「座る」のである。

 ロダンの彫刻『考える人』は、「座る」ことを表現することで、人間の内省的な思考、精神活動を象徴しているのだと思う。

彫刻家ロダン畢生の大作《地獄の門》の中央扉の上で、地獄の様相を眺めつつ思索に耽る詩人の姿として構想されたものである。やがてロダンは「岩の上に腰をおろして夢想する裸の男」を置くこととし、そして男の中で「豊かな思索が次第に精緻なものとなる」と、「彼はもはや夢想する人ではなく、創造者となる」とした。《考える人》は、死すべき者=人間の悲劇的な運命について永遠の思考を続ける普遍的存在となった。そこには内的な苦悩と思索の激しさが、凝縮された量塊となって形象化されている
※強調引用者

https://collection.nmwa.go.jp/S.1959-0039.htmlより

「座る」という行為は、世界(風景)があり、人間の身体があり、椅子という人間の技術によって造られたオブジェクトという<三点の関係性>が結合された状態である。この三点の関係性=「座る」という行為が生み出す観念こそが、座っている人間に宿る「思考」に他ならないのではないか。

 人間の身体は、世界(風景)と椅子の間にあるものとして、「拡張された身体」として存在することになる。ただたんに、人間の身体だけがそこにあるのではない。

 この時に生まれる思考は、身体の憩いから、目の前の世界(風景)との対話による内省、夢想、創造(アイディア)へと拡がっていくであろう。

 むろん「座る」ということだけで、それらの思考が一気に創造へと飛躍することは、まあ日常においては稀であるのだが、しかしそのようなプロセスなくしては、人間の文化的、知的な営為は生まれてこなかったわけであるから、人間の思考が持つ能力を潜在させるものとしての「座る」という行為を捉えてみてもよいのかもしれない。

 私も、少しでも創造的で面白いと思われるような記事が書けるように、椅子にはこだわってみたいものだ。自分の部屋も、あまりにも見慣れた風景のため、思索のためにも、たまには、場所(風景)を変えて。


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