通学路ー可愛い子には旅をさせろー

住み慣れない街 大好きな街 憧れの街 大好きなこの景色
私の生まれ故郷とはだいぶかけ離れていて、私のこともこの街のことも何も知らないことが心地がいい。でも居心地は故郷よりずっと悪い。
そんなはずは無いはずなのに私にとってここは12年間も夢見た土地。でもここでは地元じゃ酔わないはずのバスで酔う。私のことなど知らず、幸せな人ばかりが乗っているバス。そのおかげで、私は何も気にすることなくバスに乗り、私で居ることが出来ているのに。そのバスの空気は毎日、生きづらさを抱える私に重くのしかかってくる。まるで飛行機が飛び立った瞬間のあの気圧のようにぐわんとのしかかり、私を酔わせる。最低なバスだ。 それにこんなにもなんでも揃う便利な街なのにスーパーがない。あったとしてもすべてが田舎の倍高い。都会値とでもいうのだろうか。都会というレッテルなのかプレミアなのか………まあどちらにしても私には要らない要素だ。
「私には自然と知り合いで溢れた田舎より(私のことを)知らない人が沢山いるこの街の方が私の肌には合っている(生きづらさを感じることなく生きられる)」と思っていた。いや、今もそう思っている。正しくはそう思い込んでいるのかもしれない。
この街に来させてくれたあの通学路。私はこの通学路が1番嫌いだ。人目を避けて通る保育園、先生とは目を合わせたくない小学校の校門の前、広い駅の中央連絡通路はどんなに家を早く出てもたくさんの人とすれ違う。そんな道を通ると吐き気に襲われる。でもそんな通学路にも大好きな道があった。スーサイドが似合う歩道橋。ここからの眺めは最強で、ここからは東寺の五重塔が見える。夕方の下校時刻には五重塔が夕日に照らされて私も呼吸ができるくらいまでには生き返られる。そして何よりここでスーサイドを妄想する瞬間で生き延びることが出来ている。ここを通ることで魂を出し入れしていたんだと思う。ここに歩道橋があってくれて本当に良かった。そのおかげで私は誰にも気付かれずに魂の出し入れをして、学校に行くことで今日まで生き延びてもうすぐ卒業を迎えることまで出来た。4年間辞めずに(脳内ではとっくに自主退学しているが)終えることが出来た。あの通学路ともやっとお別れだ。
それ以上にこの学校とお別れできるのが1番の幸福だ。大学生は皆が皆、仲が良くて大人な付き合いをすると聞いていた。しかし実際はグループが確立して、噂ばかりが飛び交って、一人でいることができない、一人でいると変な子だと言われ浮く。そんなところだった。結局今までと何ら変わりない狭い世界だった。そんな世界で絶望してしまったからこの通学路を嫌いになってしまったのかもしれない。
私があの学校に通ったのは夢があったからではない。夢なんて言葉は私にはもう存在しない。それは幼い頃の妄想までで終わっている。私が学校に通うのは、勉強するのは、資格を取るのは、心臓が動いてるからなにかしようとしているだけで、止まってくれるならすぐにでも辞めている。ただ、まだ止まってくれていないから強いてしてもいいと思うことをこなしているだけだ。それをやりたいことと取られるのは違う。人はその人がしていることを見て望んでいることと素直に取ってしまう人が大抵だ。夢という言葉自体を否定する訳では無い。私はプロフェッショナルや職人のように何かに命を懸けたいわけではない、というだけ。ただ自分自信がどこまでこの世界で通用するのか、自分が思い描いたものはどこまで現実世界に実現させることができるのか試したい。ただそれだけである。つまり私からしたらそれは賭けや遊びにしか過ぎないし、それがたまたまお金が得られるものだったという話。また私は誰も実行しなかったことをやってみることに楽しみを抱く1種の変態なので、どうせなにかするなら誰も考えつかないことをしてみようと思いついたことをしてみている。といってもまだ土俵にすら立ってないけど。まあ何が誰も実行しなかったことかはここで話すのは長くなるのでまた機会があれば綴ろうと思う。また綴るような機会があるのかどうか分からないけど。
学校では卒業式が近づき、あの通学路でもふと歩いてみると春が訪れる匂いがした。5回目の春。私はこの通学路を歩く度には雨だろうが風だろうが、雪が降ろうが携帯のメモに歌詞を綴ってきた。未だに上手く弾けないがギターも買った。この道で幾つもの歌を作ろうとした。この道のおかげで歌にならない歌が生まれた。誰かに何かを言われたわけでも、直接暴力を振るわれた訳でもないが、空気が雰囲気がずっと私をここまで苦しめてくれていた。そのおかげで生まれた歌たち。学校も保育園も小学校も友達も先生も見知らぬ歩く人も草木も私をいじめてくれてありがとう。たくさんの生きづらさを抱えている人が共感してくれることを祈って。

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