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小説|朝日町の佳人 19

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 母に根木さんのハンカチの話をしたら洗って返すべきだと言うので、実家で洗ってもらったのだが、母はそれを赤い紙の小袋に入れた上にリボンまで付けるものだから、恥ずかしいから止めてくれと訴えると、リボンだけは外してくれた。
 いかにもラッピング用の袋も何とかしたかったのだが、せっかく洗ったハンカチをそのままポケットに入れるのも何だし、事務用の封筒にそれを入れ直すのも阿保らしいしで、結局それを根木さんに渡した。
 根木さんはそれを見て、田中さんのお母さんってマメなんですねと、嬉しそうに笑っていた。
 
 ちょうど休日に電話がかかってきて、向こうも休みだというので昼間に待合わせたのだが、昼食は済んでいたので喫茶店に入り、僕はコーヒーを、彼女はケーキセットを注文した。
「それにしても、吉岡さんに彼氏がいるなんて知らなかったな」
 僕は彼女の知人の友人だったなと、自分の立場を思い返しながら返事を選んだ。
「吉岡さんとはよく会われるんですか?」
「いいえ。直接の友達ではないから。学科もサークルも違ったし。あの日結婚した子は広美っていう私の高校の時からの友達で、吉岡さんと彼女は大学で同じサークルだったんですよ。私も同じ学校ですけど、吉岡さんと直接話しをしたりはあまりなかったです」
「絵のサークルとか言ってましたね」
「そうです。知ってるんですか?」
「え、ああ、話だけは聞いたことが、なんとなく」
「そうですか。大半のクラブと同じくらい、真面目に活動してはなかったみたいだけど、吉岡さんのせいでサークル名が変わったって話は有名でしたね」
「名前が変わった?」
「ええ。初め、私たちが学校に入った頃は『クラブ・マチス』だったんです。創立時はマチスファンがいたんでしょうけど、その時はもう誰も、マチスが何の名前か判らないような呑気な集まりになってたんですよ。別に絵の勉強とかしてた様子もなかったし。それで、吉岡さんが入ってきて、その時の部長があまりにも絵が下手だったんで、吉岡さんが部長に、『マチスって言うより、マスチフ?』って」
「言ったんですか」
「言ったらしいですね。広美はマスチフが何か判らなかったみたいだけど、部長以外の皆が大爆笑だったって。だって、その部長、すっごい厳つい顔してるんですよ」
「部長は怒ったでしょうね」
「まあ、最初は怒ったでしょうけど、相手が女の子だからそれ程でもないんじゃないかな」
「名前はマスチフに?」
「いいえ。皆がそれにしようって盛り上がったそうですけど、部長の黒田さんがそれは絶対拒否して、結局は『クラブ・フェルメール』に」
「フェルメール好きがいたんですか」
「黒田さんが吉岡さんに、誰でもいいから知ってる画家の名を言えって迫って、それで出てきたのがフェルメールだったそうです」
「いい加減ですね。改名したって、結局名前に意味はないんだ」
「ですよねえ。でもそれから黒田さん、吉岡さんにすっかりやられちゃって」
「やられ……?」
「吉岡さんを好きになっちゃったみたいで、はたから見ててもちょっと黒田さん可愛かったんですよ。顔はマスチフなのに」
「えっと、それで二人は、付き合ってたんですか?」
「どうだろう。私はよく知らないけど、吉岡さんは相手にしてなかったんじゃないかな。彼女、結構真面目な人だったから、コンパ的なのとかも滅多に来ないし、だからあんまり話す機会もなかったんですよね。学校にいる間も、黒田さん以外の人とは噂聞かなくて、それでこの前、恋人らしき人が現れて、凄く驚いたんです、私たち」
「ああ、なるほど」
「だって凄く格好いい人だったし」
 根木さんはクスッと笑った。
「あの時、アネゴみたいな人いたでしょう?」
「ええっと、もしかしたら、紺色の服の?」
「そうそう。堀田ミドリっていうんですけどね、内緒なんですけど、彼女、黒田さんを狙ってたんです。黒田さんって、あんな顔していながら良いとこのお坊ちゃんなんですよね。ミドリってそういうの好きなんです。でも、吉岡さんの出現でそれがパアになっちゃって、だから、あの二人仲が悪いんですよ。仲が悪いって言うか、ミドリの方が一方的に吉岡さんを嫌ってるっていう方が当たってるかな」
「はあ」
 なるほどと思いながら、僕は少しずつ噂話に疲れてきた。
 黒田部長のことは少し気になるが、ヒロミちゃんもミドリちゃんも、とりあえず僕には関係ない話だ。
「それで、彼氏なんかいないって言いながら、あんな人が吉岡さんを迎えに来たものだから、ミドリあの後すっごい不機嫌で、大変だったんです、私たち」
「そんな事があったんですか」
「やっぱりあの人って、吉岡さんの彼なんですか?」
 もしかしたら堀田ミドリから探りを入れてくれと指令を受けているかも知れないなと、僕は根木さんに対して一抹の疑念を抱えながら、返事を考えた。
「どうかな、付き合ってるっていう話は聞いていないけど。ただの知り合いじゃないのかな」
「そうなんですか?」
「多分、ちょっと判らないですけど」
「へえ、そうなんだ」
 根木さんは多少拍子抜けしたような表情で、自分の紅茶に砂糖を注ぎ足した。
「あのう、田中さん」
「はい」
「今夜あいてます?」
「え?」
「予定がなければ食事でも。本当は私、食事に誘いたかったんです。でも電話したら、田中さんが今から会おうって言うから」
「ああ、そうでしたね。すみません。でも、今夜はちょっと」
「えー、用があるんですか?」
「はい、すみません」
「なーんだ、残念。田中さんって、ガード固いなあ」
 僕は何となく笑って誤魔化し、そろそろ帰ると言うので伝票を取って席を立った。
 店の前で別れ、根木さんとは別の方向へ歩き出す。
 ガードを固めるために嘘をついたのではなく、確かに予定はあったのだ。
 それも、もっと興味深い噂話を聞けるかも知れないのだった。

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