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鉄紺の朝 #52 完結編

鉄紺の朝

 下弦の月、薄く棚引いた雲の端が光を帯びてかかっている。
 五位鷺が鳴き声を残し、飛び去っていった。
 竹林の月陰になった石段を、女がひとり、足元を確かめながら下りてきた。
 「こんな夜中にお帰りですか」
 石段の下、闇に紛れるように須賀太一が待ち構えていた。
 「どうして分かったの」鶴子であった。
 「ちょっとした勘です」
 夜の独り歩きは危ないですから、と言って鶴子と同道した。少しの間そうして道連れをして「舟を待たせてあるんです」と船着き場へ行くと、そこに一角が待っていた。
 「角さんまで、どうして」
 須賀太一は一角が誰かを助けた話は聞いていた。それが昼間、千江の事だと分かった。それなら当然、鶴子の事も知っているのであろうと、一度寺を抜け、一角の許へ走ると案の定、旧知の仲だったので、ここで待つように頼んでいた。
 「少し寄り道をしてもいい?」
 鶴子は、街道の坂を登り、いつか、太一とお春が初めて遭った、海を見渡せる場所で足を止めた。しかし、今の海は、星空の下、微かな月明かりに島影を浮かび上がらせるほかは、蒼黒く闇を纏っていた。それでも鶴子には、ここからの景色が、海に浮かぶ島々が、手に取るように映るのである。
 いつ帰って来るか考えもせず島をとび出して、初めてここから、自分の生まれた島を見た時、なんてちっぽけな島だろうと蔑んだ事が脳裏に蘇ってきた。それでも結局私はここへ戻って、あの島を見るのが好きなんだと、いつも変わらないあの島を見るのが好きなんだと最近思えるようになってきた。ちっぽけな島だけどあの島がなければ、私はいなかったのだからと。
 ― 千江もいつの日か、私がここの景色を思い出すように、少しだけ私を思い出してくれればいい。
 「お待たせしました」
 くるりと踵を返した鶴子の目に、群青から紫紺へと変化する明の空が滲んだ。

 須賀太一は、一角と鶴子を見送り、そのままそこに残り、切り株座って明けてゆく沖を眺めていた。
 「私に何も言わずに行ってしまったのかと思いました」
 お春が坂を登り来て、見つかって良かったと安堵した声をかけた。
 「美しいのは海だけかと思ったら、こんな近くにも見つけたぞ」
 初めてお春に会った時の言葉を、須賀太一はもう一度そっくり繰り返した。
 「変な人だと思ったのに、あの時は」
 お春が、思い出し、つい笑顔になる。遠く島影を宿している彼女の瞳に、眼下の海を小さな舟が横切っているのが映った。
 「鶴子さん、行ってしまわれたんですね」
 須賀太一はすくっと立ち上がり、背伸びをし、
 「僕もそろそろ行こうかな」
 沖を見遣ったまま呟いた。
 お春はその背中を見つめながら、一年待てと言った須賀太一の言葉が空虚に胸に広がるのを感じたが、それを置き去る様に足を踏み出し、須賀太一の脇に立ち並び、沖を見遣った。
 幼い頃、本当の父だと慕った伊佐衛門に手を引かれてここに来ていたあの日を忘れることは出来無いけれど、これからここへ立つ度に、暁の空を映し朱に染まった沖の島が鉄紺の海に浮かんでいるこの朝を思い出すだろう。信じようとする自分の心と共に。

 背後の山稜が燦然と二人を照らしはじめた。

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