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中越戦争と文革と日米中関係


 習近平がサンフランシスコでどーのってのが話題になってますが・・・ 温故知新。 1978年。鄧小平が来日した。日中平和友好条約批准書交換式出席のため。 新幹線のったり天皇に会ったりした。実際には、文革収束後の中国の近代化のため、という意味もあった。
 このとき日本共産党は国会関係のレセプションを欠席。 「中国の偉い人のレセプションを欠席とは日共ケシカラン」てな非難がとうぜんあったわけだけど・・・ 当時、日共は中共とは大ゲンカの真っ最中。
 文革は1966年から1976年まで続いた。1977年には中共も公式に終了を宣言。「勝利のうちに終結」なんて言ってた。 まあ1981年には全否定する宣言出すんだけど。 1966年には、こんな事件もおきてる。

 

この背景には毛沢東の平和共存否定・第三次世界大戦の不可避っていうおっかねえ方針の影響がある。まず中ソが対立した。日共も中共とは決裂。 中共は日本の組織に干渉してきて、おおくの組織が分裂。

 
文化大革命は「魂に触れる革命」とかなんとか、日本とか先進国の学生にはウケたけど、実際は大躍進政策の失敗で実権を失った毛沢東の復権のための運動で実質は内戦に近かった。 これは1981年には中共も認めた。

文革といえばコレ。三角帽子とつるし上げ。 日本の学園紛争でも馬鹿学生が似たようなことやったけど、殺しはしなかった。 中国じゃそうはいかなかった。 死者の数は中国公式発表が40万。 もちろん諸説あって2000万なんてのもある。

 鄧小平の来日は終息宣言の翌年だったことになる。 鄧小平のもと、中国は近代化にまい進、結果、ご存じのように大成功。 また1979年にはアメリカを訪問、米中国交正常化をはたす。ソ連とは対立したまんま。世界革命どーした?

 この訪米の時。「1979年1月28日から2月5日にかけてアメリカ合衆国を訪問した鄧小平はベトナムに懲罰的軍事行動を行う用意があることをアメリカ合衆国大統領のジミー・カーターに示唆していた」そうな。(ウィキより) ま、実際、2月17日には侵攻開始。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%B6%8A%E6%88%A6%E4%BA%89#

 3月6日には「ベトナムへの軍事的懲罰の完了」宣言とともに、中国軍は撤退。戦争はおわった。 ま、中国とベトナムはその後も何度も紛争になってるけど・・・
 2002年、ベトナムを訪問した江沢民中国共産党総書記に対し、ベトナム側が中越戦争を「中国の侵略行為」として謝罪を求めたが、江沢民は「戦争の原因はベトナムのカンボジア進攻」として、謝罪を拒否した。さらに江沢民は、ベトナム側首脳に対して、「もう過去のことは忘れよう」(wiki)だってさ。(笑)


1980年代の中国の日米安保に対する立場はこんなかんじ。 「また1982 年 1 月、鄧小平も「日 本の米国との同盟関係強化を歓迎する」と述べた。」

防衛研究所ニュース 2011年1月号(通算150号)
https://www.nids.mod.go.jp/publication/briefing/pdf/2011/briefing_150.p

 


 ま、こーいったわけだから日本のマスコミが「ポルポトの虐殺なんて嘘だーーーー!」になっちゃったんだよね。 まあこういうリアルな国際政治の力学とは別に、なんで文革が「魂に触れる革命」なんてことになってウケちゃうの、て問題もあるわけだけど。
 


といったことをひさびさにnoteに書こうかとおもったけどメンドーでとりかかれない。 まあとりあえず、ここまで。

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