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いま起きている事を理解するために⑦フェミニズムの戦後史を早足で

 むかしはやったジョーク。 ロンドンに来たソ連の経済学者が途方に暮れて言った。 「教えてください。ロンドン市民にパンを供給する責任者はどこにいるのですか?」 そんなのいなくたって市場原理に任せておけばいいんだよ、という話。
 ソ連がまだあったころだけど、そんなに昔でもないはずだ。イギリスはww2中、食料は配給制で、これは戦後しばらく続いたはずだ。当時は政府に責任者がいたはずだからね。
 このジョークを修正してみよう。 「教えてください。今の日本に次の世代の日本人を供給する責任者はどこにいるのですか?」 このまま子供の数が増えなきゃ人口が減って日本は滅びる。これは市場原理に任せておいて解決するんだろうか。
 マルクスは労働者が家庭内で食べたり飲んだりすることを労働力の再生産と定義した。 のみならず、妊娠・出産・育児は次世代の労働力、人類という種の再生産であるとした。 これは社会的有用労働であるが、賃金労働ではない。 家庭内では賃金のやりとりは無い。
 近代経済学は貨幣によって媒介される交換のみを経済活動とした。 ところが実際は貨幣によって媒介されない非市場領域に人類の社会に決定的に重要な部分があった。 市場領域=社会のすべてとする近代経済学はイデオロギーである。 これがマルクスの経済学批判。
 種の再生産労働は、そのほとんどすべてを女に依存している。この視点はとうぜん女性差別問題に非常に重要なものだけど、当のマルクスはこの点にかんしてはほとんどなにも言っていない。 女性差別は妻も私有財産とみなすブルジョワの文化で、ブルジョワジーの支配がおわれば男女関係も人間的自然をとりもどす。そんな感じだったか。 まあ階級闘争一元論っていうか。 とくに女性解放の戦いは必要ないと。
 戦後、日本では直前まで抑圧されていたものが一気に解放された。女性の選挙権が実現した。同時に共産党も合法化された。 女性運動は女権拡張運動なんて呼ばれた。そのもっとも重要な部分が婦人参政権。 フランス革命の延長線上にある、まだ未完成の近代を完成させろっていう、しごく分かりやすい話。 1945年でやっとかよ、と思うけど、これは日本だけじゃない。スイスなんて国政は1971年、地方じゃ1990年になってからだ。

 社会にはいろんな対立軸がある。それぞれに保守・革新とか、反動・進歩とか、右か左かってのがあるわけだけですべての問題で同じ側に立つとは限らない。 女性差別の問題をみると、このことがよくわかる。
 個人的にそれぞれの言葉の意味をどう理解しているかというと・・・ 保守・革新ってのは政党の分類に使われる。 左翼は社会主義・共産主義なんだけど、議会主義の政党以外の思想・運動に使われる。 右翼は過激な民族主義。とくに天皇を重視する。
 進歩的ていうのは戦前までの価値観、国家主義・民族主義・封建主義といった古い、遅れたものとして否定し、個人主義・自由主義をあたらしい良いものとして肯定する、戦後の日本の知識層のほぼすべてに共有された幅の広い傾向。
 これだと反天皇制で個人主義で自由競争の資本主義支持、つまりブルジョワ民主主義は進歩的だけど左翼じゃない。 まあ無数の組み合わせができちゃう。

 あるときある女性が「女の敵は男社会主義者だ!」と言った。なんでこうなるのか。 戦後、日本の労働運動は活発になるけど(2000年以降はボロボロになるけど)その家庭観は「男は仕事、女は家庭」てやつで、女の労働者もいつか家庭に入るものという前提だった。
 法律上も、女の深夜労働だけが禁止されてた。これだと、自分も男並みに深夜も働いて出世して高い収入と地位が欲しい!て女は腹立つわけだ。 これをささえるイデオロギーとして、女は弱いから強い男がまもってやらなきゃ、なんてのがあるわけだけど・・・女が「これは差別だ!」と言うと男が「何言ってんだ。これは保護だ!」と言い返すなんてよくあったけど、保護だから差別じゃないなんてことないんだよね。
 もっとも女のほうでも「弱い女は守ってもらって当然」て考えは広く共有されてたし、女性運動も、女はともかく、子供を産んで育てる母親は保護されるべきだっていう思潮はある。 1918年(ちょうど明治のおわり・大正のはじめ)には母性保護論争なんてのが起きてる。
 母性中心主義の平塚らいてうは青鞜社をつくり、雑誌「青鞜」を発刊した。発刊の辞が有名な「元始、女性は太陽であった」てやつ。 バッハオーフェンの母権論に基づくこの思想は母性原理主義とも呼ばれる。

 対する与謝野晶子は「女は国家にも男にも依存すべきではない」という。まあブルジョワ個人主義・自由主義の典型ってゆーか。 自立したきゃ子供うまなきゃいいでしょ、と。
 とうぜんすべての女がそーゆー選択をすると人類は滅びるんだけどね。

 日本は明治民法で家制度ってやつが民法で法制化された。最年長の男を戸主として大きな権限を与えるこの法律は1947年には新民法が出て廃止されたけど、観念は残った。遺制ってやつね。日本ではこういう前近代的な意識は封建的として進歩派の攻撃の的になった。
 ところが性別役割分業に関しては、これは当然とする考えが多くて、労働運動でも問題視しなかった。 むしろ一部の進歩的な経営者は有能なら女でもどんどん登用して働いてもらいたかった。 結果、(一部の)資本主義のほうが社会主義より進歩的ってことになった。
 まあ資本主義は封建主義よりは進歩的なわけで・・・封建的な社会主義よりは進歩的な資本主義のほうがいいと考えても不思義じゃない。
 女たちが男性優位社会を家父長制と定義して攻撃はじめたのがいつからか知らないけど、戦後の日本みたいに、もう法律はない、観念・意識が問題だってことになると この攻撃はかなりやばい領域にはいってくる。
 この問題がはっきりしてくるのはアメリカの性革命以降、ウーマンリブってよばれた運動からだろうね。 象徴的なのは「個人的なことは政治的である」て言葉。 いままで反体制・反権力の運動が対象にしてこなかった、個人的とされた領域、もろに性に関する文化の領域が攻撃された。
 
戦後、日本じゃ自由ってもんの価値が跳ね上がった。まあ直前までほぼゼロ、いやマイナスだったかな? この自由って何よ、というと、明確な定義がある。 「他社の権利を侵害しない限り何ごともなしうる事」。 侵害しちゃいけない権利を法律で決めて、国家はこれを守る。
 それ以外は何やってもいいよと。つまり国家は悪いことを定義して「やるな」と言う。これが自由主義的国家。 ところが国家が良いことを定義して国民にこれを信じろ、実効しろと強制することがある。これが全体主義的国家。

 全体主義には、右も左もある。左翼全体主義といえばもちろんスターリン主義が代表格だけど、じつはフランス革命からはじまったという説がある。
ロベスピエールの恐怖政治。人権宣言なんてだしたばっかなのに、というか人権を絶対的正義とするがゆえに、反対派を処刑しまくった。
 
 日本はドイツとともに自国・自民族のための正義の全体主義からは解放されたけど、じゃあ人類全体の正義の全体主義ならいいのか。

 これは戦後、文学者のあいだでの論争、「政治と文学」てやつで問題になるわけだけど・・・

 つづく。

 

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