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いま起きている事を理解するために⑥真木よう子発言を手がかりに

 真木よう子って存在も知らなかったんですが・・・ 女優さんですか。 「過去のことを謝罪したかった。私が日本人だという事実が恥ずかしかった」 この発言で炎上してると。 11月9日の発言か。もう旬はすぎてるかもしれないけど、これをテーマにする。

 まず「恥ずかしい。謝罪したい」ってのは彼女の内面の問題で、ほんとにそう感じたことを発言したなら、嘘でも間違いでもない。 なぜそう感じたかって根拠の事実性には、そりゃ議論の余地はあるだろう。
 日本は朝鮮半島を近代化しようとした。インフラつくった。これは事実。いっぽう実質的には植民地だったんで、ヒドイこともやってる。 
 ヒドイことなんて一切やってない!ていうなら、もうしょうがない。議論の対象としない。
 でもヒドイことをやったって前提でも、もちろん、事実は認めても「私は恥ずかしくない。謝罪しない」てこともありうる。
 ふつう人は家族とか親しい人がヒドイことすれば恥ずかしいし、ヒドイ事されれば怒る。 日本人は日本国にたいして同じような感情をもつべきではないのか? と言ったら、これは戦前までの日本のナショナリズムで、保守・反動の立場のはず。
 これに対して、国家・民族と個人は別だ。家族でもないんだってのが戦後の進歩的・民主的立場・・・のはず。
 リベラル左派を自認する中嶋哲史ってひとがこんなことを言ってる。
 「そもそも日本の植民地支配、慰安婦問題、戦場での残虐行為等々について、ぼく自身はまったく「恥ずかしい」という思いがないので、それを隠蔽したり歪曲したり修正したりする必要性を感じないのだ。日本無謬論にも神聖論にも立たないし、帝国主義的支配と戦争の人類史上の一コマに過ぎないのだから、淡々と事実を認めればよいだけのことだ。重要なのは過ぎてしまった事実についてくよくよすることではなく、未来へ向けてどのような歴史を創造していくかだろう。」
 まあ、ここまで言い切れる人も少数なんじゃないか。 ある程度は、日本・日本人と自分を同一化してるってのが普通なんじゃないの。 俺自身、何も感じないわけじゃないし。
 
 ところでちょっと前からトーイツ協会って団体の話で盛り上がってるけど・・・ここって日本人の韓国への罪悪感をあおって資金集めやってたとか。

 日本で人権侵害があり、裁判が最高裁までいったらそこでオワリ。でももちろん加害者・被害者がそれで納得するとは限らない。 日本は戦争犯罪については裁判がひらかれた。判決がでて、刑も執行された。 ほかに二国間の交渉もあった。日韓は、日韓基本条約が結ばれた。
 さんざんもめたわけだけど、賠償金にかぎると、韓国側は6億ドル出せという。日本側は1.5億ドルに値切った。結局3億ドルで妥結。 このとき日本側が値切るのは悪いことなんだろうか。 裁判で被害者側の言い分を100%通すべきだなんて言う奴は、さすがにいないと思うが。

 ある時期から(1970年代以降?)日本のマスコミで差別語狩りなんて呼ばれることが頻繁に起きるようになった。あまりにムチャな要求をするのに、マスコミ側が有効な反撃ができず、言論人の不満が募っていった。 それが爆発したのが筒井康隆断筆だったんだけど。
 マスコミ側がおされっぱなしだったのはキューダンするがわが「弱者の論理」を振りかざしたからだ。被差別者という、弱者の印が特権化され、異を唱える者に差別者のレッテルを貼る。差別が悪いってことは戦後の日本では当然の規範になったし、差別に反対するのは言論人のとうぜんの役目とかんがえられていた。マスコミ界の人間も多かれ少なかれこの考えを内面化していた。 でも、もちろん被差別者・ないしそう自認する者の言い分が常に正しく、その要求を100%のむのが常に正しいわけでもない。

 こんな裁判があったわけですが・・・提訴は1975年。

https://t.co/paJUtXyqjj

 
 1977年。田中克彦という言語学者がこの裁判の原告を支援する集会によばれて、講演した。 その時の話。

 私はこの講演の中で、「あなた方が、ほんとに、母国の言葉の発音で読まれたいと思ったら、カンジをつかってはいけません。朝鮮人に日本語を学ぶギリが無いと同様に、日本人にも朝鮮語や、朝鮮でのカンジの読み方を学ばなければならぬという理由はありません。日本人に、朝鮮人の名前をその発音通りに読ませるためには、あなたがたはカンジをやめてカタカナだけで名前を書いてください」 と言ったところ、まあたとえてみれば、私は「袋叩き」のような状態になってしまった。中におなかの大きな女性がいて、その人は演壇上の私をキッと見すえて、「私はこのおなかの中の子に、立派なカンジの名前をつけてやります」と言ったものだ。私はあまりのキハクにちょっとこわくなって、そそくさと壇をおりた。司会者のチォエさんが、「田中さんは、決して悪い考えで言われたのではないのです。私たちの味方です」ととりなしてくれたが、会場はおさまらなかった。 しかし、わたしにとってこんなことはめずらしくはない。頼まれてタダで、あるいは安い報酬で出かけて行って、そこでめちゃくちゃにやられてしまうことがある。しかし、講演というものはギロンを引き出すためのものだとすれば、こういう結果を引き出す私の講演はすぐれているのだろうと思う。が、やはりそれはつらく、さびしいことだ。

 この田中克彦ってひとは差別主義者でも歴史修正主義者でもない。もちろんネトウヨでもない(笑)1977年にまだインターネットはない(爆) 社会言語学が専門で、ことばと国家・差別の問題を扱ってた。そのテーマの本をいくつも書いてる。
 さいわい、この話にはこんな続きがある。 そのことがあって四年後、桜井登世子さんという、未知の女性から「海をわたる雲」という美しい装丁の、一冊の歌集を送っていただいた。 講演を聞いた主婦が(たぶん)自費出版した歌集をおくってきた。そのなかのひとつ。

 言語学者の説くしずかなる声ありき 真理ひとつを支えむために

 あの時の私のやるかたない思いが再びよみがえってくるとともに、その時の私の姿を歌にとどめている人がいたことに私はたいへんおどろいた。そして、この歌と、添書きにあった「感情を排除した」、「冷徹な」講演であったという、桜井さんの印象が、あの時の私の意図そのものであったことで私は満足したのであった。 (「ことばの自由をもとめて」田中克彦・福武書店)

 弱者の論理は、外交上の武器として使われる事もある。 イスラエルが建国されてしばらくして、土着のパレスチナ人が迫害されていることにヨーロッパが気付いた。 これを批判されると、イスラエルはきまってこう反応した。「それは反ユダヤ主義だ!」
 ユダヤ人の迫害の記憶を持つヨーロッパ人は沈黙した。 「それとこれとは話が違うだろ」と言えるようになるのに、時間がかかった。 そのころにはおおくのパレスチナ人は難民となっていた。

 さいきんついいた上で、フェミニズム対トラジェンのバトルが発生してる。フェミニストが差別主義者としてキューダンされている。 差別にもステージがある。 フェミニストはさんざん弱者の論理で男社会・男マスコミをキューダンしてたが、よりステージのたかい被差別者・トラジェンにおなじ武器で攻撃されてるわけだ。
 俺もトラジェンはヤバイと思ってるけど・・・ フェミニストは有効な反撃ができるだろうか。

  つづく

 


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