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鳥ひき肉のレモン鍋と以心伝心

鳥団子の鰹レモン鍋


夏がぶり返したような暑い日が続くが、鍋を仕立ててみた。鰹出汁に鶏肉団子と玉蜀黍、白菜を放って、彩りよく仕上げる。鳥のひき肉には、レモンの皮、生姜を入れ込み、味にメリハリをつける。汁物に玉蜀黍を放り込むのは最近覚えた。和風のものにいれても、うまい具合に甘みが絡んで美味しい、何気に便利な食材である。

鰹と鶏の濃いい旨味がアチチ、アチチと口の中で合わさる。レモンと生姜の刺激が濃すぎる旨味をうまく抑える。汁を含んだ白菜をはむ。美味しい。嫁と二人、お腹いっぱいである。少々食べ過ぎた。レモンと生姜のせいか、汗をかきかき、お腹をポンポンとさする。世界にはいろんな身振り手振りがあるが、このお腹をさする動作は案外どこにいっても同じなんじゃないかと思う。

この間読んだ森有正の本から追っかけてってこの『身振り語の心理』にたどり着いた。ヴィルヘルム・ヴント、心理学を哲学から科学に仕立て直した人らしい。


感覚と経験が心の大本だと説く彼の学説は、時代的にも内容的にもなんとなく森有正の思想に色を与えているような気がするんだけど、どうなんだろう。それとも時代全般の空気のようなものだったんだろうか。

この本の中でヴントは細かく見ぶり語の起源について調べ、論じる。人類全般にみられるいろんな身振りは、情動の身体的表現がベースになっているという。例えば、考えこんで頭を抱える、悲しくて肩をうなだれる、自信に満ちあふれて胸を張る、喜びに浮き足立つ、などなど。ココロがカラダに現れる、その時の仕種が身振りやジェスチャーの起源であると述べる。

まあ、でもここまでだったらヒトではない動物でもできそうである。こういう情動表現は考えなくても自然に出てくるものだからだ。

人がすごいのは、進化のどこかの段階で、ものまね能力を獲得して、無意識に現れ出るその身体表現を、意識的に真似ることで、自分の心を意識的に伝えられるようになったことである。ある意味コトバの始まりと言ってよいだろう。


ものまねできる能力が身振り語が成り立つ上で大事らしい。では、ものまねの基盤はなんだろう。ひとつは自分と他人の区別ができるということである。自分と他人を区別出来なかったら、当然他人のモノマネはできない。


じゃあ、自分と他人の区別ができる基盤はなんだろう。自分が自分であると分かることである。あたかも自分を外から眺めるように、自分を俯瞰できることである。

自分が俯瞰できるということはどういうことだろう。そんなもの電気信号の副産物、自分なんて意識は幻だよという人もいるし、カラダの外にココロがあるのだよという人もいるし、いやココロしかないんだよ、世界は幻だよという人も言う。みな言いたい放題である。こういうのは非常に困る。

ちなみに人間が、右に行くか、左に行くか、あれにするか、これにするかを「判断」できるのは、この自分を俯瞰できる能力があるからだろう。

そう考えると「判断力」とは自分を俯瞰的にみる能力だとも言える。自分を遠くから見たり、近くから見たり、未来から見たり、過去から見たり、俯瞰的に自分を見れる、この能力によって怒ったり、悲しんだりという情動のくびきをわずかに逃れ出ることができるんだろう。

それはさておき、鍋と食べたらお腹いっぱい、眠くてしょうがない。座布団を丸めて、つい横になってしまう。ああ、このまま寝てしまうんだろうなあと思いつつ、もうだめである。まるで自分を俯瞰できていない。情動のくびきから全然逃れ出ていないのだ。わたしはまだヒトとしての修行が足りないようだ。まあいい、今日の修行は夢の中でしよう。悪夢じゃないことを祈りつつ、おやすみなさい。


ヴィルヘルム・ヴント 中野善達 監訳『身振り語の心理』福村出版 1985年

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