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君は愛されるため生まれた

救いの証

イエス様の御腕に抱かれ続けて50年
イエス様の十字架の贖いに預かって50年の感謝の記録   – joyfulthreejoy@yahoo.co.jp-

救いの証し
私たちの教会では、数年前終活セミナーを教会創設以来始めて開催しました。私がエンジングノートの第一号の提出者です。その中の証しの部分の書き替えのために70年6ヶ月生かされて、幼いときからずーと思い起こして書きました。

“神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。”
ローマ人への手紙 8章 28節

“多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。”
ヘブル人への手紙 2章 10節

“すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。”
ローマ人への手紙 11章 36節

“また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。”
使徒の働き 17章 25節

“『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。あなたがたのうちのある詩人たちも、『私たちもまた、その子孫である』と言ったとおりです。”
使徒の働き 17章 28節

私は1950年12月14日に四国の愛媛県松山市で男ばかりの四人兄弟の三男として生まれました。
私一人だけ眼球振盪という目の病気を持っていました。今は、その事のゆえにほんとうに心の底よりイエス様に感謝しています。
なんと素晴らしいイエス様からのプレゼントでしょう。
矯正視力は、0.6がやっとでした。メガネが嫌いで裸眼でずーと生活しました。
小学生時代は私の70年6ヶ月の人生で最暗黒の時でした。
あの頃の男の子は、昼休み給食後、野球を当然のようにしていました。私はボールがよく見えないのと運動神経が悪くて(いつも運動会は、ビリでした。)、そのなかにはいれませんでした。ですから、ひとりぼっちでした。遠足の時もそうでした。
イエス様を信じてからは、どんな重荷もイエス様と一緒です。私の下には永遠の腕があります隠れ家があります。全く委ねきり安心して生活できます。あの頃はただ時間の過ぎるのを待つしかありませんでした。今思い起こしても胸が痛くなります。
あと、夜、恐ろしい夢を、見ました。どこまでも、どこまでも堕ちていく夢でした。

私の将来の夢は車のデザイナーでした。ある時トヨタ自動車に手紙を出しました、「デザイナーになるにはどうすればなれますか。」返事は「美大に行ってください」でした。4人兄弟の三男で母は刺繍の細かい内職を毎日していました、美大なんて口がさけても言えませんでした。そんなことから、これからの事、人生の目的を探求し始めました。

高校時代のエピソード
—–[高校時代、味村先生という授業中に他の人の悪口ばかり言う先生がいたのですが、余りに頭に来て[ぶっ殺すぞ]と立って叫んだことがありました。刃物でも近くにあったら危なかった思い出です。しかしそのことで校長室に呼ばれたり注意されたりしませんでした、その先生は、悪口を言わなくなりました。]—–

 それからのことを思い巡らしました。食べて、寝て、食べて、寝て学校出て就職、結婚、子供と奥さんの為にせっせと働いて55才で定年、それから再就職、しばらくすると老人ホームに入れられて(老人ホームに入る場合非常にお金と待ち時間がかかることまで計算しなくてよかったです。)お葬式、私の人生の目的は、老人ホームがゴール   これはたまらん、どうせ一回限りの人生なんとか悔いのない人生にしたいとおもいました(イエス様の憐れみによって)高校卒業して大阪に二年設計関係の仕事をしました。
 夜はデザイン専門学校、お休みの日は、若い根っこの会に入会していろいろな人と人生のこととか話しました。でも、人生の目的は、わかりませんでした
 今度は絵の勉強をしたら人生の目的がわかるかなと思って西武線の鷹の台にある武蔵野美術大学の通信教育を受けようと上京しました、朝日新聞の専売所だけははっきりしていましたがどこにしようかと、フリー切符を買って、中央線に乗って三鷹に近くなったとき、緑が急に多くなって三鷹に決めて朝日新聞の専売所の鷹聞社の面接を受けて、内定をもらって一度松山に
かえって
 東京にきたのが1971年3月下旬でした。その専売所の相部屋の住人が生まれて始めてあったクリスチャンの18才の浪人生でした。
 その人は、私の田舎から、ミカンが送られてきたとき少し分けてあげるとすぐ教会に持っていくようなクリスチャン青年でした。その兄弟に誘われて冷やかし半分で教会に出席したのが1971年5月の連休中の特別伝道集会でした。最初に心にきたのは、
 ここだ、ここにいままで求めてきたものがある。という感覚でした。
それから毎伝道会に出席して6月6日招きはありませんでしたが、自分から「救われたい。」と幸茂先生に導いていただいて、小さな光に従って悔い改めイエス様の十字架の
あがないを信じ、受け入れました。
 それから50年ただ、ただイエス様の憐れみと、恵みによって今まで生かされて来ました。イエス様が私の為に払われた代価は、あまりにも高価ではかり知れません。

英語の讃美歌に

I don’t know about tomorrow
I just live for day to day
I don’t borrow from the sunshine
For it’s skies may turn to gray

I don’t worry o’er the future
For I know what Jesus said
And today I’ll walk beside Him
For He knows what lies ahead

Many things about tomorrow
I don’t seem to understand
But I know who holds tomorrow
And I know who holds my hand

Ev’ry step is getting brighter
As the golden stairs I climb
Ev’ry burden’s getting lighter
Ev’ry cloud is silver lined

There the sun is always shining
There no tear will dim the eye
At the ending of the rainbow
Where the mountains touch the sky

1 私は明日の事はわかりません。
私は一日一日生かされています。

私はこれからの人生が、雲に覆われても、主の[わたしはあなたと共にいる。]と言われる約束に信頼して歩ゆみます。イエス様は、明日の事を知っておられる御方だからです

折り返し

私は明日の多くのことは、わかりません。
しかし、誰が明日を支配しておられるかを知っています。どなたが、私の手を握っているのか知っています。

2 すべての道に光がさしています。天国に向かって一歩一歩明るくなっています。

主の臨在のもとで。すべての重荷は去り、
すべての雲は虹のように輝いています。

御国に帰る時、すべての涙がぬぐわれるのです。

折り返し

私は明日の多くのことは、わかりません。
しかし、誰が明日を支配しておられるかを知っています。どなたが、私の手を握っているのか知っています。

3 私は明日の事は知りません。たとえ、明日貧しくなるとも、一羽のスズメを養ってくださるのは、イエス様です。

 これから、火のような試練、洪水のような艱難に会うとも、主の臨在は私の前を行きます
そして私は彼の血で覆われています。

折り返し

私は明日の多くのことは、わかりません。
しかし、誰が明日を支配しておられるかを知っています。どなたが、私の手を握っているのか知っています。
(私はイエス様の永遠の御腕に抱かれ横たわって憩います。)

 最近日本語の讚美歌を発見しました。

※歌詞――明日を守られるイエスさま――
  1  明日はどんな日か 私は知らない
     晴れか、嵐か、曇りになるか
     私は明日を心配しない
     イエスが私を守られるから
  (繰り返し) 明日は私にはわからないけど
          明日を守られるイエスがおられる
  2  日々の歩みは 日々に明かるく
     肩の重荷は 次第に軽い
     輝く太陽  涙乾かし
     仰ぐ空には 虹の架け橋
  (繰り返し)
  3  明日はどんな日か 私は知らない
     どんな道筋が 先にあるのかも
     だけど私は心配しない
     イエスがおられる私のそばに
  (繰り返し)

私の葬儀の時、独唱していただきたいと願っています。
ただイエス様の血だけが、私の避け所です。

英語の讃美歌に
平和も、信仰も、愛もイエス様からの贈り物という曲があります。
心臓は、1日10万回鼓動するそうです、肺、膵臓、腎臓、動く手、足、全てイエス様からのプレゼントです。イエス様を信じるまで、あたりまえだと思っていました。
一呼吸一呼吸酸素を取り込み二酸化炭素を排出する肺、その酸素が血液の中に挿入され身体中を行き巡り心臓に帰ってくる、イエス様の憐れみによって生かされています。

  神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。”
使徒の働き 17章 25節

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。”
ローマ人への手紙 8章 28節

こころの底からこのみことばどおりであったことを感謝します。

追伸
最近、若い人たちが、白血病とかにかかると「何々頑張れ」「がんばれ応援しています」
私はこういうふうに言いたい、「下には「永遠の腕」があります、全部の重荷ごとおまかせしてください。頑張らないで下さい。どんなに頑張っても死には、勝てません。イエス様の血の中に憩って下さい。」

 最後にイエス様の[真実]によって義とされる事を声を大きくして知ってもらいたいと願っています。
 参考文献

ピスティス・イエスゥ・クリストゥ論争とキリストの像

ピスティス・クリストゥ論争とは?
ピスティス・クリストゥ論争については、多くが語られてきました。簡易に整理いたします。ローマ人への手紙3:21に「しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました」、そして続く22節に「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です」(新改訳2017)とあります。

イエス・キリスト「を」信じるとは、原語では「イエス・キリスト『の』ピスティス」となっているだけです。新改訳2017の注には「イエス・キリストの真実」と原語そのままの別訳が掲載されています。「ピスティス」は、新約聖書では「信仰」の意で用いられていますが、本来は、真実・信実・誠実を意味する言葉です。イエス・キリスト「の」という属格は、対格的(目的格)用法で訳されるのが一般的と言えるでしょう。つまり、「イエス・キリストを信じる信仰」(新改訳)、「イエス・キリストを信じること」(新共同訳)、「イエス・キリストへの信仰」(岩波訳)と。

この対格用法に異論を詳しく唱えたのが、カール・バルトでした(『ローマ書』第二版)。バルトは「の」を、対格ではなく主格的用法で訳しました。「神の義は、イエス・キリストにおける『神の』信実によって啓示される」と(『カール・バルト著作集14 ローマ書』、新教出版1967年、114頁)。「の」は対格ではなく、つまり人間がキリストを信じる信仰ではなく、キリストを主格とした「の」、つまりキリストの真実、あるいは神がキリストにおいて現された真実(信実)と考えたわけです。ですから、聖書協会訳共同訳では
「イエス・キリストの真実」と訳されています。

バルトの論
では、なぜバルトはそのように考えたのでしょうか。私たちが神に対して、イエスに対して明確な信仰を示すべきことは聖書に明らかです。マリアは、主によって約束されたことは必ず成就すると信じ切った人です。イエスは湖の嵐におびえた弟子たちに、「まだ信仰がないのですか」(マルコ4:40)とお叱りになり、信仰の成長と確立を求められました。長血を患っていた女は、「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」(マルコ5:28)と信仰を行動へと奮い立たせました。

しかし、ひたむきな信仰が聖書に多く記されていながら、逆に人間の信仰の弱さをも聖書は明らかにします。民の信仰はそんなに強固ではありません。「あなたがたの真実の愛は朝もやのよう、朝早く消える露のようだ」(ホセア6:4)。イエスも人間の信仰を憂えておっしゃいました。「人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」(ルカ18:8)。

同じピスティスでも、「人の神への信仰」と「神の人への真実」、どちらに重きが置かれているのかと問うならば、やはり「神の真実」が「人の信仰」にまさって、前者が後者を支えていると言わざるを得ないでしょう。「実に、私たちは滅びうせなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は偉大です。」(哀歌3:22-23)。

バルトは、人の信仰のもどかしいまでの弱さと、神の真実の確かさとの関係を、あの悪霊につかれた息子を癒やしてほしいと願った父親の言葉に見て取りました。「信じます。信仰のない私をお助けください」(マルコ9:24)。

一体信仰が欠けていない人がいるであろうか。一体誰が信じることができるのであろうか。・・・信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。・・・『わたしは信じる』と彼が言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助けください』という願いの中でのみ、その願いと共にであろう。(K.バルト「福音主義神学入門」『カール・バルト著作集10』、289頁)

人間がイエスに手を伸ばすというよりは、鉄くずが磁石に吸い付けられていくように、人間の方がイエスに引き寄せられていきます。人間が理性や判断を駆使してイエスを明確に捉えるのではありません。これが、私たちが誰しも体験している「信仰」だとバルトは考えました。

さて、ここで言われる信仰は、単なる神への信仰ではなく、罪人を義とする信仰です。私たちがまだ罪人として霊的に死んでいたとき、神はキリストにおいて私たちへの真実と愛を示してくださいました。それがキリストの受肉・十字架・復活という確固たる出来事です。

先のローマ書3:22をバルトがイエス・キリストのピスティスを「イエス・キリストにおける神の信実」と訳したとき、それは次のような意味があります。神の信実を実現するイエス・キリストは僕の姿を取り、十字架へと赴きます。それは神に見捨てられるような裁きでした。なぜ神の信実は十字架に現れたのでしょうか。バルトは「福音と律法」の中で次のように記しています。

罪に対する神の答えは「われわれは死なねばならぬ」という肉としてのわれわれの存在である。・・・しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。・・・救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われた者であると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくて神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給もうことによって、肉において服従を確証し給もうことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給もうことによって)引き受けるということ――これが恩寵本来の業である。(「福音と律法」『カール・バルト著作集5』、154~155頁)

端的に言えば、私たちが担うことのできない罪の代価を、キリストが僕の姿を取り、死に至るまで従順に神に従い、罪の裁きをその身に引き受けたことに神の信実が現れた、というのです。ですから、救われるのは、神の信実(恵み)のゆえなのです。

バルトは、後に扱いますガラテヤ2:16の「イエスのピスティス」も、ローマ3:22と同様に、「キリストを信じる信仰」ではなく、「キリストが信じる信仰」「キリストの信実」と訳すべきだと記しています。ガラテヤ2:19以下、私たちは、御子イエスに対する「私の信仰」によって生きているのではなく、実際は「御子キリストの信仰」の中に招かれ、御子の信仰の中にあって生きている、というのです。私たちの信仰の根拠は私たちの内側にあるのではなく、ただイエス・キリストにあります。

さて、こうしたバルトによる「私の信仰」ではなく「イエスの信実」が私たちを救うという論理は、プロテスタントの原点であるルターやカルヴァンから外れているのでしょうか。いや、むしろ、その真髄を捉えていると言えるでしょう。宗教改革の基点となった、いわゆるルターの「塔の体験」は、自らの信仰の弱さと罪の重荷にあえぐところから始まりました。1545年、自身の著作集がヴィッテンベルクで出版された際、老齢のルターが昔を振り返って、ローマ書1:17の「福音には神の義が啓示されている」という一文をどう理解すべきか苦しんでいたことを述懐しています。当初彼は、神の義とは、神がそれによって罪人を裁く審判の正義(能動的な義)であると考え、そのような厳しい神に憎しみさえ抱いたというのです。ところが、ある時ルターは、神の義はキリストの十字架のゆえに罪人を義人とみなす、そして人間の側からは受動的に与えられる義であると理解しました。受け取る手段は「信仰のみ」による。その信仰とは、人は乞食の手のように、何も神に対して差し出すことはできず、ただ空っぽの手を差し出して賜物を受け取るに過ぎない、と。そしてその信仰さえも、人のうちに働かれる神の御業である、と。これらすべてに働いているのは、神の信実です。

義は私たちのうちにあるのではなく、ただキリストのうちにあることをカルヴァンも強調しました(『キリスト教綱要』Ⅲ.1.23)。私たちはあくまでも「自分自身の外に(extra nos)義を求めるべきである」(同)とは、宗教改革のキャッチフレーズとなります。義認は、キリストの神が私たちの罪を数えず、信仰の服従におけるキリストの義を私たちの「勘定に加算する」(同)ことによって起こるわけです。

さて、宗教改革者たちはみな、信仰もまた神の働きであることを強調しましたが、決してそれは人間の無力さだけに終わるものではありません。人は信仰によって「キリストの体に接ぎ木され、彼と一つになる」(『キリスト教綱要』Ⅲ.11.10)とカルヴァンは考えました。私たちの義は、外なるキリストの義であったとしても、そのキリストは私たちから遠く離れて立っているのではない。私たちは信仰によってキリストの義を着て」(ガラテヤ3:27)、「キリストの香りを匂わせ、我々の悪徳をキリストの完全によって覆いかつ埋没させる」(『キリスト教綱要』Ⅲ.1.23)、と。ルターもまた、信仰が私たちとキリストを結びつけることを教えました。キリストに結び合わされると、そこに神秘的な交換が生まれます。信仰者の罪と死がキリストのものとなり、キリストの義といのちが信仰者のものとなります。

さて、そのように考えますと信仰者の「生」は、キリストに結びついて、「キリストの信仰」、すなわち「キリストの神に対する真実な・信実な姿」の中に深く入り込んでいくことになります。ルターは次のように記しています。

このパン種は、突然すっかり発酵するのではなく、巧妙に慎重に時間をかけて、我々を、全く自分のものとにし、新しくし、神のパンとするのである。・・・このような生活は・・・存在ではなく、生成であり、休息ではなく、訓練である。・・・すなわち、進行中であり、行われているのである。(「大勅書に対するルターの弁明と根拠」『ルター著作集第一巻4』、聖文社。30~31頁)

それは、キリストの信実がキリスト者の生を変貌させ・形成していく過程です。そして、この過程の根底にあるのが、「人は神の像によって創造され、キリストの像に贖われる」という考え方です。

キリストの像(imago Christi)
人間は神の像(imago Dei)として創造されたとは、聖書に一貫して響いている、人間論の中核です(新約聖書ではヤコブ3:9、Ⅰコリント11:7)。しかし、新約聖書は創造論における人間よりは、一旦そこから堕落して、キリストにあって贖われた「新しい人間」に話を集中させます。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)。

「神のかたちであるキリストの栄光」(Ⅱコリント4:4)、「御子は、見えない神のかたち」(コロサイ1:14)、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」(ヘブル1:3)と聖書が語るとき、こうした表現は、イエスこそが神がどのようなお方であるかを具現化している神の像である、ことを語っています。しかし、それだけではありません。イエスこそが、人間の本来的な姿を完全に現している神の像です。

アダム以来、人間は神のあり方を映し返すことを拒み、神に逆らい、神の似姿を失ってしまいました。神に逆らい、神の似姿を喪失してしまった人間のただ中に、神に呼応・対応している人間が出現した、それがキリストです。バルトが、「人間の存在論的規定は、イエス以外のあらゆる人間の真中に、イエスというひとりの人間がいるという中に基礎づけられている」(KD III/2, S.158、邦訳版『教会教義学』273頁)と言ったとき、それはこういう意味です。堕落した人間は、もはやだれも神の栄光を映し出すことはできない。しかし、その人間のただ中にイエスが来られ、神の像はイエスの人間性において見事に回復している、ということです。T. F. トーランスも次のように述べています。「キリストにおいて神と直面する再生させられた人間という立場からだけ、我々は、人間が神の像に創造された、という事実の意義を理解することができる」(『カルヴァンの人間論』、47頁)。神に呼応するただひとりの御方において、事実上、神に呼応していないすべての人間が、神に呼応する本来の人間性に立ち戻ることができるのです。この出来事をパウロは「義認」と考えたというのです。

しかし新約聖書は、キリストが真に神の像であるというメッセージだけで終わりはしません。十字架につけられた方の復活の中で、神の像が輝きだしました。その光は、神に背を向けている私たちを映し出し、あらためて神の像に作られた人間がどのようなものであるべきかを教えています。キリストが神の像であるということは、その事実を失ってしまった人間を再び神の像に与らせ、新しい人間性へと造りかえ、創造の時からの神の意図を成就するという聖化の方向性を内包しています。「神はあらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定めておられたのです」(ローマ8:29)。この方に接ぎ木されることによって、私たちもまたキリストに似た者と変えられていきます。それが聖霊によってなされる聖化です。「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3:18)。

ですから、パウロはキリストを第二のアダムと呼びます(ローマ5:12-19、Ⅰコリント15:45-49)。罪を犯したアダムの代わりに、神の声に喜びをもって耳を傾け、それに従う人間がキリストとして出現しました。このイエスの信実において、失われた神の像は、完全に回復しています。私たちがイエスを救い主として信じ、「私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰」(ガラテヤ2:20)によって生きるとき、それは「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」(同)ことになります。

すると、キリストにある私たちの心も行動も具体的に変わります。私たちがキリストとの交わりの中に生きるとき、「キリストの心」、すなわち「神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、・・・十字架の死にまで従われた」(ピリピ2:6-8)姿勢が私たち自身のものとなり、私たちは不平や疑いに囚われず(同14節)、「自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みる」(同4節)、遜った人・愛の人へと変えられていきます。「キリストにある」という私たちの生は「キリストが現れたときに、キリストに似た者になる」(Ⅰヨハネ3:2)とあるように完成を迎えます。「キリストをありのままに見る」(同)、そしてありのままにキリストを反映するという終末(ゴール)を目指しながら、私たちも「イエスが歩まれたように歩」んでいきます(同2:6)。こうして私たちは、本来的な人間性をキリストの心と生の中に見いだし、それを自分のものとしていきます。

リチャード・ヘイズの貢献
日本でピスティス・クリストゥ論争に大きく貢献したのは、2015年に翻訳出版されたリチャード・ヘイズの『イエス・キリストの信仰:ガラテヤ3章1節―4章11節の物語下部構造』(河野克也訳、新教出版社)です。この本はヘイズの博士論文ですが、1981年当時における、そしてその後における「主格的属格」を支持する膨大な

ローマ書3:22と共に指摘した「イエス・キリストの信仰」は、ガラテヤ2:16に出てきます。新改訳2017では、「ただイエス・キリストを信じることによって義と認められ」と、ここも対格(目的格)的属格で訳されていますが、注には「イエス・キリストの真実によって」と別訳を掲載しています。

イエスは神への徹底した従順を貫いたただ一人の人間であり、その真実は十字架にかかることによって自らのいのちを死に明け渡したことに極まっています。それが「イエスのピスティス」です。これは同時に「神のピスティス」でもあります。「『イエス・キリストの信仰』という表現は、イエスの死が、神に対する人間の忠実な行為であると同時に、人類に対する神の忠実な行為であることを示している」(39頁)。

さて、ヘイズの強調は、ここに働くイエスの人としての「代表」性にあります。イエス・キリストは私たちの代表であり、私たちの救いは、この代表者キリストに「参与すること」である(333頁)、と。洗礼を受ける時に、キリストと結び合わされ、キリストの命を共有するとき、私たちは神の命に与ることになります。

ヘイズは新約学者として、この手紙を分析することによって上記のことを明らかにしようとしますが、拙論ではその解説には入らないことにします。ただ、ガラテヤ人への手紙で「キリストのピスティス」を考えますと、以下のような論理が見えてきます。福音書が記される前、パウロがガラテヤの諸教会の人々に語ったイエスの物語が、この手紙の背後にあります。その物語がどのようなものであったのかは、パウロがガラテヤの教会の人々に語る次の表現で、人々はすぐに思い出したというのです。「ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか」(3:1)。言うまでもなく、十字架のイエス・キリストを描いたのはパウロ自身です(81~85頁)。このキリストを信じ、結び合わされるとき、それは単に私たちの罪が赦されるだけではありません。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(2:19~20)と、キリスト者はキリストのいのちに参与します。

さらに、私たちは「キリストの信仰から(ek pisteōs)生きる人々」(3:7)となります。私たちは「キリストにつくバプテスマを受け」(3:27)、聖霊を受けます。この聖霊に導かれて、私たちはイエス・キリストの「生」のパターンに従って生きる者となります。ヘイズは、キリスト者の生は、イエスにおいて啓示された信実のパターンの再演である(362頁)と記しています。

ヘイズのこうした考え方は、彼も用いる「物語」の概念(前回、説明しました)に基づいています。キリストの生は、まさに人間にとってのプロト物語です。プロト物語が私たちの前に現れたとき、それは私たちの人生(プレ物語)と対峙し、私たちを招き入れ、私たちはその招きに応じてキリストの物語の中に入り込み、この世にあってキリストの物語を再演すると者と変えられ、さらにキリストの運命を相続する者とされている。これこそが、パウロの救済論の全体像であることを、ヘイズの著書は「キリストのピスティス」がいかなるものであるかを考察しながら、明らかにしています。

新しい讃美歌を発見しました。

君は愛されるため生まれた
君の生涯は 愛で満ちている

永遠(えいえん)の神の愛は
われらの出会いの中で実を結ぶ
君の存在が 私には
どれほど大きな喜びでしょう

君は愛されるため生まれた
今もその愛受けている



今日を生きるみことば
No16 わたしはあなたとともにいる。

“恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
見よ。あなたに向かっていきり立つ者はみな恥を見て辱められ、あなたと争う者たちは無いもののようになって滅びる。
あなたと言い争う者を探しても、あなたは見つけることができず、あなたと戦う者たちは、全く無いもののようになってしまう。
わたしがあなたの神、主であり、あなたの右の手を固く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言う者だからである。
恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。──主のことば──あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。”
イザヤ書 41章 10〜14節
“だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。
あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。
恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東からあなたの子孫を来させ、西からあなたを集める。”
イザヤ書 43章 1〜5節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

今日を生きるみことば
No15 目標を目指して走っているのです。

7 しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。
8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、
9 キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。
10 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、
11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
13 兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、
14 キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。
15 ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。
16 ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。
17 兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
18 というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
19 その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。
20 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
21 キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。
ピリピ人への手紙 3章 7〜21節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

今日を生きるみことば
No14完成させてくださる。

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。
ピリピ人への手紙 1章 6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よあなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。
詩篇 138篇 8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私はいと高き方神を呼び求めます。私のためにすべてを成し遂げてくださる神を。
詩篇 57篇 2節
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今日を生きるみことば
No13 わたしの霊によって

 彼は私にこう答えた。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる。
ゼカリヤ書 4章 6節
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今日を生きるみことば
No12 すべてを益に

28 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
29 神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。
30 神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。
31 では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
32 私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
ローマ人への手紙 8章 28〜32節
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今日を生きるみことば
No11 我が恵み汝にたれり(文語訳)

9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
10 ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
コリント人への手紙第二 12章 9〜10節
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G714 十分(ギリシャ語)

オリジナル:ἀρκέω

文字変換:arkeō

ふりがな:ar-keh’-o

セイヤーの定義:

絶え間ない強さを持っていること

強くなる、十分になる、十分になる

守るために、追い払う

満足する、満足する

起源:明らかに主要な言葉[しかし、おそらく障壁を上げるという考えによるG142に似ています]

TDNTエントリ:08:44,8

スピーチの一部:動詞

ストロングの定義:明らかに主要な動詞です(ただし、バリアを上げるという考えから、おそらくG142に似ています)。 適切に回避する、つまり(含意によって)利用する(比喩的に満足できる):-満足し、十分であり、十分であり、十分である。

今日を生きるみことば
N10 主のあわれみが尽きないからだ

私の苦しみとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。
私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。
私はこれを心に思い返す。それゆえ、私は言う。「私は待ち望む。
主の恵みを。」実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。
それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。
主こそ、私への割り当てです」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。
主はいつくしみ深い。主に望みを置く者、主を求めるたましいに。
主の救いを静まって待ち望むのは良い。
人が、若いときに、くびきを負うのは良い。
それを負わされたなら、ひとり静まって座っていよ。
口を土のちりにつけよ。もしかすると希望があるかもしれない。
自分を打つ者には頬を向け、十分に恥辱を受けよ。
主は、いつまでも見放してはおられない。
主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。”
哀歌 3章 19〜33節
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今日を生きるみことば
No9 私の隠れ場

詩篇
91篇
1,いと高き方の隠れ場に住む者その人は全能者の陰に宿る。
2,私は主に申し上げよう。「私の避け所私の砦私が信頼する私の神」と。
3,主こそ狩人の罠から破滅をもたらす疫病からあなたを救い出される。
4,主はご自分の羽であなたをおおいあなたはその翼の下に身を避ける。主の真実は大盾また砦。
5,あなたは恐れない。夜襲の恐怖も昼に飛び来る矢も。
6,暗闇に忍び寄る疫病も真昼に荒らす滅びをも。
7,千人があなたの傍らに万人があなたの右に倒れてもそれはあなたには近づかない。
8,あなたはただそれを目にし悪者への報いを見るだけである。
9,それはわが避け所主をいと高き方をあなたが自分の住まいとしたからである。
10,わざわいはあなたに降りかからず疫病もあなたの天幕に近づかない。
11,主があなたのために御使いたちに命じてあなたのすべての道であなたを守られるからだ。
12,彼らはその両手にあなたをのせあなたの足が石に打ち当たらないようにする。
13,あなたは獅子とコブラを踏みつけ若獅子と蛇を踏みにじる。
14,「彼がわたしを愛しているからわたしは彼を助け出す。彼がわたしの名を知っているからわたしは彼を高く上げる。
15,彼がわたしを呼び求めればわたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて彼を救い彼に誉れを与える。
16,わたしは彼をとこしえのいのちで満ち足らせわたしの救いを彼に見せる。」

今日を生きるみことば
No8 希望

わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
エレミヤ書 29章 11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

ローマ人への手紙
5章
1,こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
2,このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。
3,それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、
4,忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
5,この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
6,実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。
7,正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。
8,しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
9,ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。
10,敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。
11,それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。
12,こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に──
13,実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ罪は罪として認められないのです。
14,けれども死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々さえも、支配しました。アダムは来たるべき方のひな型です。
15,しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。
16,また賜物は、一人の人が罪を犯した結果とは違います。さばきの場合は、一つの違反から不義に定められましたが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。
17,もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。
18,こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。
19,すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。
20,律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。
21,それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。

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