国家主義・人種主義等の争いの世紀は、なぜどのように起こったか

19~20世紀の世界を総括すれば、国家主義・人種主義等の争いの世紀といえる。

今でも世界を見渡せばまだ、そういった紛争は残っているが、前世紀と比べれば随分と落ち着いた様相である。

このような争いがなぜ全世界的に起こっていたのか?なぜ当時の人々はそこまでそれにこだわっていたのか?

それについての総括が必要だろう。彼らに無くて我々にあるもの。そしてその逆、そこに起こった変化と原理も知っておく必要があろう。

いつものとおり、回りくどい話より結論から。結論に違和感を感じる者が速やかに記事からフェードアウトできるようにね。

前世紀の人間が異常なこだわりを見せた、国・人種・血・文化といったものへの信仰・執着・せめぎあいは、それを構成する、自国・個人・家系・自分自身といったものが、他のそれによって容易く塗りつぶされてしまうほどに、次元が低いものだったから、である。

そこから恐怖が生まれ、恐怖が偽りの結束を生み、結束が戦争を生んだ。

そして戦争の果てに超大国を生んだのである。

そしてそのさらに先に、ワン・ワールドなんちゃらなどと称する、天下統一w(いかにも前時代的で古ぼけた、かつガキ臭い目標だなww)を目指している者たちがおり、彼らが滑稽で無駄な頑張りを見せてそれが叶うか叶わないかのところで、その前提ごと崩壊しているのが今だ。

話を戻すと、結局のところ、今の時代の人間ならば大勢が気付ける、「国・人種・血・文化」へのこだわりの異常性を、前時代の人たちが気づけず、争いに明け暮れていたのは、彼らの次元が低く、臆病だったから、戦う以外に身の安全を守る方法が分からなかったからである。

さらにいえば、彼らの説いた「国・人種・血・文化」などに関するものは、本当にそれらが素晴らしかったから等では断じてなく、世界に存在する別の「「国・人種・血・文化」に対して常に怯えなければならないほど、言い換えれば、簡単に盗って代わられるほど、レベルが低く、価値も低かったからだ。

本当に成熟した人々で構成された社会というのは、他の侵入・占領・支配等の余地がないものである。武力の必要性以前に、不可能だからだ。

侵入・占領・支配等をする動機になるのは、金銭的にメリットがある、経済的にメリットがある、というのが主たるものである。

つまり、端的にいえば、侵入・占領・支配等によって、そこにいた一人ひとりの人間が「いうことを聞く」ようになり、「奴隷」に類するものとして、思い通りに動いてくれるから、それによって、はじめて金銭的・経済的メリットが生まれるわけだ。

そこに付け加えて、他国民に言語や文化を普及させ、生活や思考の土台ごと、自分たちのように変化させる行為によって、疑似的な「神」「優越者」の気分を味わえるということもあろう。文化やイデオロギーのせめぎあいとはそういうものだ。

こんなことで「神気分」を味わうなどおめでたい勘違いだが、実際にそこに次元の差があれば、そういったこともできたわけである。すなわち、支配する側・される側もどっちもどっち、目くそが鼻くそのお手本になり、なるようになったというだけのことw

例えば戦後のアメリカナイズは実際にそれに魅力があったから、感化された側の文化がそれくらいしょぼかったから、である。自分の文化を守りたければ、それに勝る魅力があればいいだけのことだったのだ。

古ぼけた汚い老人が、自分らの生活様式を守るためだけに、それを文化と言い張り、汚いつばを飛ばして他国の文化を追い出そうとするが、そんなことはつゆ知らず、というか逆にそれを反面教師に、若者はどんどんと他国文化に流れていく。自国を侵略した他国の人間をかっこいいといい、若い女も股を開くw

こんな滑稽なことが、全世界で起こってきたことなのだw

逆に高い精神的な水準の者たちが、いうことを決して聞かなければ、資源の採掘を除いて、侵入・占領・支配等によるメリットなどほぼ何もないことになる。

つまり、戦争による支配の動機、それを招いているのは、人の弱さである

支配する側も、される側もだ。

生きるために強い者に従うという構造自体が、支配を招き、支配ための戦争を招いているだけのことだ。


これは、まさに、私たち日常における個人間の争いと、まったく変わらぬ原理である。

誰かが誰かをバカにする、駆け引きをする、いじめる、支配する、支配を受け入れる、妥協する といった構図と何も変わることはない。

人間的に次元が高くなると、不思議なことに「争い自体に巻き込まれない」のである。それはなったことがある人だけが分かる感覚だ。これは国家だろうが、会社だろうが、家族だろうが、何でも同じである。

武力があるから、だけでも、知力があるから、だけでも、怖そうだから、だけでも、優しいから、だけもない。それら単独で高くても、毎日のように争っている人間はざらにいる。 

争いが起こりやすいかどうかというのは、人間トータルで、次元が高いかどうか?だ。 国も同じである。

つまり、個人個人の未熟さが転嫁された結果が、社会の未熟さであり、

個人個人の次元の低さが、国の次元の低さであり、

前世紀の、国家主義・人種主義、そこで語られてきた「国・人種・血・文化」などというのは、それら次元の低さの反映に過ぎず、

それらが必然的に戦争を起こしてきた、ということだ。

今なお右翼的思想などが、そういう者たち構成員の自分自身の存在のみじめさを誤魔化す装置として使われているのである。

前世紀と比べて、私たちの次元が上がって、個人個人の争いも減り、戦争の必要性が減ってきた。

他人から塗りつぶされることを恐れる必要がなく、他人を塗りつぶす必要もなくなったとき、争う必要性もまたなくなっていくのである。







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