グロテスクな自由

自由の意味をはき違えた臆病者たちの末路


この世の彩り、生まれ持った個性、後から花開いた個性、そういうもの同士が掛け合わさって生まれるもの 美しさ

誰もが深くから望んでいること

ところが、現世はそれが難しいようになっている

色の塗り潰しあい、抑え込みあい、汚しあい

いつしか自由を忘れ、恐れから身の安全を第一に考えて生きる

身の安全から寄り集まり、安心と強さを手っ取り早く手に入れたつもりになる。

安心と強さをとりあえず補給した者たちは、抑圧していた自由を少しずつ小出しにしながら周囲の様子キョロキョロ確認しつつ、表現し始める。

自由を表現する挑戦、それ自体とても良いことだ。

だが、安心と強さの基盤になっていたはずの「仲間」が一番の足かせになっていることにそのとき、気づく。いや、気づきかけた瞬間、そのあまりの恐ろしい事実が確信に変わる前に瞬時にそれを抑圧する。

自分がある何かを自由に表現したとき、それにケチをつけられたりバカにされたりするイメージに恐怖する。

「調子乗っちゃったね」、「それ似合ってないよ」「年甲斐もなくそんなの着て」「~の癖に」「すべってるよ」そういった言葉、空気感、表情を何よりも恐れ、それを恐れている自分に気づかないふりをする。

自分の内面にはそんな葛藤なんてないよ?無縁だよ?いつも人から普通に受け入れられるよ?そういう人が悪いんじゃない?というふりをする。

それが人生の最下層の基盤となり、その欺瞞・臆病・こずるさが内面の輝きを急速に奪っていく。

そして多くの場合、自分自身が他人にそれをしているから余計にそれが恐ろしくなる。

そういう恐怖を抱え合ったまま、小出しに小出しに、キョロキョロと様子を伺いあい、集団内の権力が強い者には自由の範囲が広く、ここまでは許されるだろう、といったガチガチの状態でなんとか自由を表現しようとする。

ところが、それは「この世の彩り、生まれ持った個性、後から花開いた個性、そういうもの同士が掛け合わさって生まれるもの 美しさ」といった真実性を持った精神とは逆の臆病でずるい方向性を持っているので、ずるくグロテスクなものになる。

芸術、ファッション、スポーツ、仕事、あらゆるもので同じだ。それは一流と二流を分けているものであり、100年残るものと1年しかもたないものの差でもある。

それは、ある種の「調子に乗った集団」として不快感ばかりを与える存在として社会で目立つようになる。

皮肉なことに構成員の「調子に乗ること」を卑しく監視する集団ほど、その抑圧の反動で、全員の方向性が揃ったときに、タガが外れたように激しく調子に乗る傾向がある。

彼らは、真の自由を抑圧し、そんなことより手軽で傷つかず、手軽でちゃっかりと、浅ましく人からの評価を得ながら自由のまがい物を得ようとしていることで、グロテスクな自由にたどり着く運命にある。








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