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心の声の在り処

何か大きなことがあったわけではないはずなのに、その沈んだ感情は唐突に顔を出した。

ここ最近はやりたいことの中でも、自分だけの作業時間や勉強時間を増やしたいという感覚があって、人と会うよりも自分だけの没頭する時間を多く取るようにした。 そのおかげで、精神的に落ち着けることも多くなってきた矢先だったから、余計になぜこのタイミングで?と思ってしまった。

今回の沈んだ感情というのはちょっと特別で、少し落ち込んだり、焦ったりと数ヶ月単位でやってくる”いつものアイツ”ではなくて、もっと”大ボス”みたいな重みのある感じ。

何か特定のことについて悩んでないときもずっと、胸の内に、ほんの数百グラムくらいのオモリが付いている。いつも通りの生活シーンなのに、胸のざわめきが自分でも分からないタイミングで急に呻き出す。

そのオモリは、思考や行動に過敏に反応する。
これまでやりたいと思っていたはずのことですら、それを予定に入れようと考えただけで、大きなガードを張って拒否反応※を起こしてしまう。
全ての予定ではない。全く拒否反応を起こさずストレスフリーなものもある。でも、やらされ感でやってたことについてはもちろん、つい先日まで熱を持ってやりたいと思ってたものすらも遮断してしまう。

そんな厄介なオモリを、ここ数週間ずっと感じながら生活してる。

そんな見えないオモリを携えて過ごしている中で、過去に似たような感情を抱いたことを思い出した。 

ちょうど3年前くらい。進路を考え出したタイミング。
その時は、突然抜け出せなくなったマイナスの感情に焦って、どうしようもなく、どうにかしようとしていた。

自分の声のどれが本当か分からない。答えを探そうとすればするほどぬかるみにハマっていく感覚があって、進むことが嫌になる。でも止まっている自分も嫌になって、ただそこに存在するだけで苦しくなっていく。

そんな毎日の中で、それまで見えていた光はどんどん失われていった。

自分にとって至福だったはずの時間も全然楽しめない。面白いなと思えば笑うし、遊ぶのに夢中になることもあるのに、ふと我に帰って、本当に自分は楽しいと思ってたのかなという自問自答を始めてる。

何が正解かわからない。誰に正解を求めていいのかもわからない。目の前のほんの一歩先すらどこに歩を進めていいかもわからず、苦しんでいた。

その時のことを思い返すと、今のしんどい状況を少し前向きに捉えられるような気がする。

自分が何を楽しいと感じるのか。リラックスできるのか。心の声は何を言ってるかをちゃんと聞いてあげることができる。そしてその声が言うことをきちんと理解してあげて、すぐにではなくても叶えてあげることができる。

怖さゆえに何も信じられなかったあの頃にはなかったたくさんの安心感や信頼感のおかげで、なんとかバランスを保っている。

だから、今は昔ほど絶望に打ちひしがれることはない。「前向きに沈んでる時期」という言葉を今日もらったけれど、その表現がとてもしっくりくる。

心のわがままを全て叶えてやることは難しい。
けれど、くたびれた心のわがままを少しずつでも叶えてやりたい。

それが社会的にどうだとか、客観的評価がどうだとか気にしてしまう気持ちや周りの声があるのも重々承知だけど、心がこんなにも苦しんで叫んでサイレンを鳴らしているのに、それを社会的な基準や客観的判断で「よくない」とか「もう少し辛抱強く頑張れ」という言葉で全てを否定してしまえば、心が潰れてしまう。
それはもはや、誰の命を生きているのか。

**「あなたは今、あなたの人生を生きていますか」 **

とても大事にしてる問いを思い出す。
「生きる」という選択をしているからには、自分の心を感じていたい。自分の人生を生きたいと思う。客観的なもの全てに耳を塞ぐ訳ではないけれど、こんな時くらい心のわがままを優先してやりたい。それが自分を強くするし、自分という最大の味方を信頼していけると思う。

これからもう少ししんどい時期は続くだろうけど、明日は晴れることを願いながら。


さいごに
自分がこんな風に脆くも確かに立っていられるのは、絶対誰にも認めてもらえないと怯えていた自分の心の声を、あたたかく受け入れてくれた方々のおかげ。そう思うと、感謝が尽きないです。


※語弊がないように記しておくと、拒絶反応は「本当はやりたくないこと」というよりかは、
人が大勢いてちょっと周りを気にしなきゃなぁとか、ちょっと自分が背伸びしてしまいがちな会話とか、「成果を求められてる」と自分が思ってしまう場とか、真実はそうではなくても僕が勝手にエネルギーを使うなぁと思ってしまうこと(無意識に含む)に対する反応だと思うので、「今まで無理してやってた」とかではないことは記しておきます。

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