自己嫌悪が未来に導いてくれた話
つまらない人生なんて生きたくない
そう心の中で呟くのは、もう何度目だろう。
昔から、自分一人の世界は存在した。
孤独で、深い深い闇の中。助けを呼ぶことなんて物心をつく頃には諦めていた。そのことについて、寂しいと思ったことはなかった。
誰かと遊んで、夢中になって、喧嘩をして、泣いて。
そんな日々を送る中でも、やっぱり自分一人の世界は存在した。
そんな自分の世界を自覚してから、もう20年が経とうとしている。
「色んな人と出会い、たくさんの喜びを知り、一人の世界から僕は手を伸ばし、新しい絆を得た」
みたいなそんなサクセスストーリーを物語りたいわけではなくて、僕はこのずっと嫌いで仕方なかった一人の世界を実は好んでいて、これからもずっと共に生きていくんだなと思った話をしたい。
***
昔から、衝突したときの逃げ場は、いつも一人の世界だった。不安や怒りに怯えた時は、いつも殻に閉じこもってしまう。
外の世界では、言いくるめられ、抵抗もいつしかしなくなっていたけれど、外の世界で口数が減るほど、心の中は昼休みの教室のように、ざわざわうるさくなっていった。
外の世界はいつも輝いていた。
憧れの人がいる。
憧れの生き方と出会う。
外の世界を魅力的に思えば思うほど、
自分が自分であることを嫌う。
自分で生まれたことを妬む。
心の内側の憤りを、何にぶつけていいかもわからず、
外の世界ではいつも、温厚な少年を演じていた。
「優しいね」とよく言われた。そう接すれば、人を傷つけないと知っていたから、常にそう接するように心がけていただけ。
普通の家庭に育って、普通に勉強ができて、普通に恋愛をして、普通に生きる。そう生きたらいいと、いつからか法律を守るような感覚でいた。内と外にいる自分はまるで別人で、でも人として生きるってそういうもんだと思ってた。
誰かの正解を常に振る舞うこと。そうやって生きていたから、色んな人と会えば会うほど、憧れは増えていき、その度に自分を嫌いになっていった。自分を痛めていた。
当時はそんな人生を、中身がからっぽの人生だと思ってた。そこに自分らしさなんてものはない。小さな選択はたくさんしていたんだろうけど、あんまり自分の未来にわくわくして、希望を抱いた事はなかった。そんな幻想、抱いたって破り捨てられる。
小学生の時に書く「将来の夢」なんて、親が納得する答えを確かめる指標かなくらいに思っていて、手堅い職業をとりあえず書いていた記憶もあるくらい。
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ずいぶん過去の経験をひどく言葉にしたような気がするけど、別にこれまでの人生を否定したくてこんなことを書いてる訳ではない。むしろ、この面倒な性格と環境を、案外気に入ってるということを伝えたい。
先にも書いたように、昔はずっとこういう自分を嫌いだったし、素直に生きた記憶はほとんどなかったから自分なんてものはないと思ってた。でも、違和感を抱く日々を何十年も続けた結果、自我が育ってきていたんだろうことにやっと気づいた。
自分の世界という殻を嫌い、つまらない人生だなと思えば思うほど、心の中では生きたくない人生が明確になっていた。裏を返せば、自分の生きたい人生がかなり繊細に研ぎ澄まされていたんだと思う。
最近生きたい未来がかなり言語化されてきた気がする。
それはきっと、何度も「自分の人生がつまらない」と思った結果なんだと思う。周りの人にも恵まれるようになって、とてもあたたかく過ごせる時間も増えているし、その幸せはちゃんと噛み締めていたい。
ただ、そうやって外側の世界が満たされていても、「一人の世界」と表現した自分に悪態をつく内側の自分は、たぶん今後も消える事はなく、自分の中で宿続けるし、つまらない人生を過ごしていたらすぐに悪態をついてくれるんだと思う。
こういうそこはかとない灰色の感情があるからこそ、「どうせ生きるならやってやろう」と思って生きてこられた。
自分のことをダサいとかイケてないと感じ、その度にひどく自己嫌悪をしたあとは、だいたい転機が訪れた。だから僕は、完璧に生まれなくて良かったと思ってる。
だから、自分への負の感情はこれっぽちも無駄じゃなくて、自分の本当の希望をより繊細なところまで教えてくれて、人生の転機を教えてくれる。
そんな自分の世界が、これからも続いていくんだと思う。
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