風々

"どんなに世界が変わっても、風は自由に飛びまわるのだろう。"
-辻麻里子 著 『6と7の架け橋』より-

 わたしは風です。わたしはあなたたち人間には見えません。でもあなたはわたしを感じられるはずです。風は静かに吹きぬけてゆくこともあれば、勢いよく駆けぬけてゆくこともあります。そして突然立ち止まって姿を消してしまいます。
 消えた風はあなたのなかにいます。もしあなたが自分のなかに消えた風を感じることができれば、その風が再び動きだすときにも感じることができます。あなたたちはこの瞬間を“心が踊る”と表現しています。
 動きだした風は赴くままに流れてゆきます。行き先を決めていないがために、風は透明です。風は透明ですが、自分を感じることができます。仲間の風を感じることもできます。大きな風、小さな風、強い風、優しい風、色々な風がいて、それぞれ世界の感じ方が違います。感じ方が違うからこそ、色々な風がいるのかもしれません。もしだれもが世界を同じように感じるのなら、風はひとつの方向へだけ流れていくでしょう。それはなんとなく恐ろしいことですが、幸いにも風は色々な方向へと流れていきます。そして不思議なことに、最期にはみんな同じところへ行き着くようです。どうしてこのようなことが起こるのか、もしかしたらこの地球が円いからなのかもしれませんが、実際のところはわたしにはわかりません。もちろんそこがどこにあるのかも…。
 ではちょっと立ち止まって、わたしがこの地球で見たり聞いたりしたことのなかで、とくに印象に残っていることをいくつか、ひとりの風であるわたしの感じ方でお話しします。

 まずは鳥たちのことです。
 ある晴れたぽかぽかした朝のことです。わたしは海の上の空の高いところから、白い波が行ったり来たりしている浜辺へとひと息に降りてゆきました。するとそこには小さな鳥たちがいて、波を見ながらなにごとか相談しています。しばらくするとある一羽が打ち寄せてきた波にぴょこんと跳び乗りました。それに続いて他の鳥たちも次から次へと波に跳び乗り、浜辺からどんどん離れていきます。まるでみんなでだれかを追いかけているかのようです。もう少しで沖へ出て、浜辺へは戻れなくなってしまいそうなところまで行きました。するとだれからともなくくるっと向きを変えて、今度は一斉にもときた浜辺へ向かって波に乗りながら帰ってゆきます。このようなことを何度も繰り返しているのです。飛ぶこともできるのに、彼らは浜の近くの水の上を、波にゆられながら何度も行ったり来たりしています。そうしながらときどき嘴を素早く水につけています。突然じゃぶんと海に潜るのもいます。なにか大切なことをしているようです。
 波にゆられている彼らをよく見てみると、その群れのなかにいくつもの二羽ずつの組みがあり、その二羽ずつの番いがもとになって群れが形作られているのがわかります。ある二羽をよく見てみると、嘴同士が見えない糸で優しく結びついているかのようです。その糸が切れないように、お互いを感じながら波にゆられています。他の番いにもそれぞれの雰囲気があります。もっとよく見てみると、たった一羽で浮かんでいるのもいます。わたしたち風の仲間にもそんなのがいます。一度こういった一羽をみつけると、その一羽から目が離せなくなってしまいます。
 群れはゆれる波の上で、行ったり来たりしながら花を咲かせるように広がったり、蕾に戻るように集まったりしています。また、少し離れたところにも別の大きな群れが浮かんでいるのも見受けられます。そこにもそれぞれの関係があり、群れ全体が様々な形に移ろっています。なぜ彼らがこのような番いや群れを成すようになったのか、おそらく彼ら自身にもわからないでしょう。でもそれでとてもうまくいっているようなのです。起こるべくして起こる現象には曼荼羅のような美しさがあります。
 個体としての鳥にも美しさが凝縮されています。鳥はあの小さな体で、その美しさを精一杯表現して、大空と大海、そして大地を行き来します。あなたたち人間は文明によってそれらを可能にしましたが、鳥には本来からしてその力が宿っていました。そんな鳥に、その美しく自由奔放な姿に、人間はずっと憧れてきました。
 文明の力を手にし、勇気をふりしぼって大空や大海、世界の涯へと自己を拡大させた人間は、その広大な世界で勇気は人間だけのものではないことに気づかされました。大自然の本質である地球にも心があり、その勇ましい心、それをこそ“勇気”と呼ぶということに気づきました。つまり人間の勇気と地球の“勇気”は少し違っていたのです。地球の“勇気”には力みがありません。地球は常に自然体です。その“勇気”が自転と公転の原動力となっているのです。自然と調和している精神、肉体や物質を自然体といいます。人間が自然体であれば地球とも宇宙とも調和し、征服や支配といった概念から解放されます。これこそが自由な魂の本質で、あるがままの生命のかたちで楽しみ、満足できるようになります。
 鳥たちは勇気をふりしぼって羽ばたいているわけではありません。呼吸をするように、生命の円環という風に乗って羽ばたいているのです。

 つぎにある木のことをお話しします。
 わたしがその木と出会ったのは冬の夜のことでした。冬ですからわたしたち風はとても冷たくなっています。その冷たい風のなかを木はどこかへと急いでいるようでした。わたしは思わず声をかけてしまいました。
「どこへ?」
「春を探しています。」
「なにか当てはあるのですか?」
「ありません…でもきっと春はどこか暖かいところにいます。あなたは春がどこにいるのか知っていますか?」
「わたしは春がどこからくるのか知りません。それよりも、あなたは葉っぱがなくて寒そうです。葉っぱはどこへ行ってしまったのですか?」
「葉っぱは枯れて落ちてしまいました。落ちた葉っぱは土の上で朽ちたり、あなたたち風に飛ばされてどこかへ行ってしまいました。もしかしたらいくつかの葉っぱは、もう春をみつけているかもしれません。」
「春は探さなくても来てくれると思います。」
「わたしは探すのが好きなのです。それに探すから来てくれるような気もします。探すと少しだけ早く来てくれるような気もします。きっともう春はこちらに向かっています。わたしを探しているはずです。もしかしたら、少し遅れているのかもしれません。でも出会えないほうが良いのかもしれません。そうしたらずっと探し続けることができますから。それが生きる力になっているような気もします。いづれにしても、わたしはただ立っているということができませんでした。でも木がただ立っているということは、なんと素敵なことなのでしょう。あの姿にはすべてが込められています。立っている仲間を眺めているとうっとりすることがありました。」
「“恋木”という、人間のこどもたちが森のなかでする美しい遊びを知っていますか?」*
「いいえ、知りません。」
「それはこんな遊びです。森の木々から恋人をみつけるのです。その木を恋木(こいぼく)といいます。まず森のなかでひとりのこどもが目隠しをします。もうひとりのこどもが、その目隠しをしたこどもの手をとって、森のなかのある一本の木へそのこどもを導いてゆきます。どの木へ導くのかは、目隠しをしていないこどもが決めます。そのこどもが、目隠しをしたこどもにぴったりの木を、辺りを見渡して森のなかからみつけてあげるのです。みつけたら、その木へ向かって、目隠しをしたこどもを導いて歩きだします。目隠しをしたこどもは、周囲はもちろんのこと足元も見えませんので、目隠しをしていないこどもが“あと三歩先に水たまりがあるから右に避けて”、“ここからしばらく枝が生い茂っているから頭を低くして歩いて”などと言って目隠しをしているこどもの歩行を助けてあげます。そんなふうにしながらなんとか目当ての木に辿り着きます。ふたりで木の前に立ったら、目隠しをしていないこどもがその木に"こんにちは。あなたはとっても素敵です。わたしの友だちにぴったりです。彼の恋人になってくれますか?"とお願いします。そして心の耳を傾けて、木が"うん"と言ってくれたのが聞こえたら、今度は"彼があなたにふれてもいいですか?"ともう一度お願いします。木がふたたび"うん"と言ってくれたら、目隠しをしたこどもの手を導いてその木にふれさせてあげます。それから“あなたたちは恋人同士です”と宣言します。目隠しをしたこどもは、その木にふれて幹の太さや温かさ、手ざわり、その木のもつ香りや声といったものを体いっぱい感じます。もちろん目隠しをしたままです。そうやって目隠しをしたこどもがその特別な木に親しんだら、また来たときと同じように、目隠しをしていないこどもに導かれながら出発地点に戻ってゆきます。来たときと同じ道を辿っても、違う道を選んでも構いません。出発地点に着いたら、目隠しをしたこどもはそれをとって森のなかを見渡します。そして今度はひとりで、先程親しんだ恋木をみつけに行くのです。歩きながら、そのこどもは目隠しをしていたときに感じた森の形状や気配、導いてくれたこどもの言葉や気配り、自分の心に焼きついた恋木の面影、そういったものをたよりに実在の恋木を探します。たくさんのなかから、たったひとつをみつけなければなりません。森のどこかに自分を待っている木がいるのです。そしていよいよ“この木だ”と思った木をみつけたら、その木にふれます。そしてお互いを身体いっぱいに感じあうのです。最後に“さわらせてくれてありがとう”と言って恋人たちはまた離ればなれになります。」
「もしかしたら春もそうやってわたしを探してくれているのかもしれないですね。目隠しをした春が一度わたしにふれたことがあったのかもしれませんね…」
「そうですね。春はもう目隠しをとって、ひとりであなたを探しているのかもしれませんよ。」
「でも、こどもが自分の木をみつけられなかったということもあるのですか?それに…わたしはどこへ行けばよいのでしょうか?どこにいればよいのでしょうか?どこで待てばよいのでしょうか?」
「どれもわたしにはわかりませんが…ところであなたはどこからきたのですか?」
「楽園から逃げてきました。」
 わたしはもうなにも言えませんでした。わたしの沈黙に耐えられないかのように、木は走り去ってゆきました。
 わたしはただ静かに、その木が春をみつけて、春に駆け寄ってゆく光景を感じてみました。

 最後にある少女のことをお話しします。
 少女がお月さまと話しているのをわたしはそばで聞いていました。少女はまだ自分の名をみつけていません。でも少女は、だれかに呼ばれるのを待っています。
 お日さまは昼間いつも少女を照らしています。花がお日さまのおかげで元気でいられるように、少女が気づかないところでお日さまは少女の気持ちを支えています。
 お日さまが見えないときには、かわりに雨が降って少女の気持ちに潤いを与えてくれます。でも雨の日には、なぜか少女の気持ちも哀しくなって、一緒に涙を流してしまいます。
 夜はお月さまが寄り添ってくれます。昼間明るいときに俯いてばかりの少女も、夜だけは空を見上げます。きっとお月さまの光の具合が少女の気持ちにしっくりとくるのでしょう。
 ある夜少女はお月さまに話しかけてみました。
「お月さま、お月さまって毎日少しずつ形が変わるのね。丸くなって、半分になって、それから段々もっともっと小さくなっていって…欠けていくのって苦しくないの?」
 お月さまは言いました。
「苦しいことなんかないわ。お日さまに対して、あなたの地球とわたしがそれぞれどこにいるかで、わたしを照らす光の具合が変わっているだけだから。光がどうなろうとわたしはわたし。あなたには見えないかもしれないけれど、いつもしっかりと真丸なの。それに丸いのも、半分なのも、もっと小さくて消えそうなのも全部わたし。たとえ消えてしまってもそれはわたし。わたしはそこにいます。あなただって毎日心に光がさしていろんな形に変わっているのよ。それと同じ。」
「でもわたしは色々変わるから苦しいの。いつも丸いお月さまみたいに、満ち足りてそれがずっと続けばいいのに…」
「変わることは素敵なことよ。あなたは欠けてしまったかのようなわたしも好きよね?丸いわたしとは違った美しさだと思わない?夜空から見える満ち欠けするあなたの心って、まるでわたしみたいでとっても素敵よ。」
「そうなの?わたしも素敵なのかな…わたしもお月さまみたいなのかな…」
「そうよ。それだけでなくてあなたはわたしのお月さまよ。」
「わたしはお月さまのお月さまなの?」
「そうよ。」
「この世界にはふたつのお月さまがいるってこと?」
「そうね。」
「大きなお月さまと小さなお月さま!」
「そう!」
「ふたつはとっても仲良しで…」
「そう、それから?」
「わたしはお月さまが大好きだから、きっとわたしという小さなお月さまのことも大好きなのかな?」
「わたしもあなたが大好きなの。」
「なんだか素敵ね。」
 少女はお月さまに、おやすみなさい、を言って目を閉じました。そして可笑しくて楽しい夢をみました。お月さまが踊っていて、お日さまが笑っていて、雨が唄っていて、風が吹いています。それからだれかが少女を呼んでいます…。

*地域によって名称や内容に多少の差異はあるかもしれないが実際にこのような遊びがある。尚、本作品中の"恋木"という名称は筆者180°がつけたもの。

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