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「成功」を追い求め過ぎると不幸になる理由

巷には数々の成功法で溢れ返っている。
私がそう感じるのはおそらく読書が趣味ということもあるだろう。
あるいはYouTubeの影響かもしれない。
「成功するには〜〜」、「成功者が語る〜〜」そんなニュアンスが溢れている気がしてならないのだ。
正直、かなり鬱陶しい。
その言葉を見たり聞いたりした瞬間、本を読む気が失せることもある。
あるいは動画を見る気が失せることもある。

私は「成功」という言葉が嫌いだ。
「成功」は聞こえがいい言葉に感じる人も少なくないかもしれないが、「成功」という虚構を求めると不幸になることに気づいたからだ。
個人的な意見としては「成功」は、人と比較する言葉に感じてならない。
本来、成功っていうのは人それぞれの感じ方次第で、自分が成功と思えば成功なのだ。
なのにプロスポーツ選手だの、大企業の社長だの、タレントだの収入という名の「富」や「名声」を手に入れた人だけが成功者ともてはやす。

パンピーとして楽しく暮らしていては成功じゃないのか。
冗談じゃない。
むしろそいつらより富や名声がなくたっていくらでも幸せになれる。
ヒエラルキーの頂点に見える人たちだけを崇拝するのは良い加減やめた方がいい。
多くの人がそれに影響されて不幸になる。

こういう世間体になってしまったのは世の中のほとんどは「競争社会」であるということもあるだろう。
競争は楽しいこともあるし、競争するのが悪いとは言わない。
競争が世界を進歩させてきたのは確かだ。
だが一方である側面で見れば経済や技術を進歩させてきた一方で環境を退化させたということも言える。
あるいはAIやテクノロジーが進歩した一方で人間の精神が退化したかもしれない。
他者に勝つことで頭がいっぱいだからだ。
両立やwin-winというのは難しくどこかでジレンマが発生しがちだ。
それは置いといて競争の悪い点はどうしても他者と比較しなければならないことだ。
「勝者」がいれば当然「敗者」もいる。

だけどピラミッドの頂点に行けるのはほんの一握りだ。
その他大勢は負けることが確定しているのだ。
そこそこ勝てれば満足できるかもしれないが「成功」、「勝ち」、「負け」といった概念を捨てないと負けた時に不幸になる。
いつも上には上がいて、頂点だけが輝いて見えて、みんなそうなることを夢見て、いざ手に入れてみると満足できなかったり、なんか違うと思ったりする。
それは本当に欲しいと思っていたものではなくただの見栄だからだ。

親や友達に限らず他者に認められたいという承認の欲求は誰にでもある。
他人に認められれば自分を肯定できるからだ。
では大勢の他者に認められたら成功なのか。
別にそんなことはないだろう。
それぞれのやり方で楽しくできればいいじゃないか。
自分のやり方で幸せを見つければいいじゃないか。
それで十分だ。
それで成功だ。

成功しているように見えても不幸なやつなんていくらでもいる。
大勢の人が何かを得ないと幸せになれないと思ってる。
幸せになるっていうよりははむしろ気づくことだと思う。
すでに持っているのに当たり前すぎて気づかない。
より多くを求めようとするから気付けない。
いくら多くのものを手に入れても結局満足できないのに。
だってそうだろう。
「インスタのフォロワーランキングTOP100」があるとする。
ランキングに入れもしなかった人が急に10位になったとする。
その時は当然興奮していい気持ちかもしれないが数日経てば以前と同じだ。
人は刺激に慣れる生き物だ。
だけど上には上がいるから一向に幸福にならない。
「成功」を求めると不幸になるとはそういうことだ。
おまけにランキングが下がればもっと不幸だ。
貧乏人が宝くじを当てて、一瞬幸福だけどそのあと不幸になるのと一緒だ。
これじゃ他人に踊らされているだけだろう。

以前私も同じような経験があった。
私は小学校〜高校までサッカーに取り組んできた。
小学校の時はただただ純粋にサッカーが楽しかった。
日々上達していくのがわかったり、試合に出られるようになり進歩や成長を感じられることが何より楽しかった。
当時、勉強が嫌いでサッカーに虜になった少年はプロサッカー選手になるという夢を持った。
中学でもそこそこサッカーそのものを楽しめて試合に出ることができた。
高校サッカーに憧れて、「一年生で試合に出てやる」と意気込んで入部したが三年間一度もトップチームで試合することは叶わなかった。

高校では純粋にサッカーを楽しめなかった。
先輩からの威圧や絶対的な上下関係という伝統が残った環境で萎縮して伸び伸びできなかったこともあるが、
自分がグラウンドに立って応援されている姿や親から褒められる姿を求めていたからに違いない。
本来、トップチームで出られなくれも好きなサッカーをすることはできるのだから楽しめるはずだ。
でもサッカーが楽しめなかったのは「試合に出ている自分」や「1年生でレギュラーになった自分」を求めて手に入れることができなかったからだ。
そもそもサッカーが好きで始めたのに「成功した自分」ばかりイメージしていたばかりに純粋にサッカーや成長を楽しめなかった。
そこでようやく自分はプロになることが夢だったのではなく「成功した自分」を求めていたことに大学生になって初めて気付くことができた。

中学生〜高1くらいまでは承認欲求からやはり「いいね」や「フォロワー」欲しさからTwitterやインスタの投稿もやっていた。
でもあるとき、時間の無駄だと気づいた。
それなのに先述したように「成功を求める自分」と「プロになりたい自分」の区別がつかなかった。
SNSが全て悪いとは言えないが、私のようにただ「いいね」や「フォロワー」を求めていることに気づいたら即やめるべきだ。
はっきり言って時間と神経の無駄遣いだ。

ここで結論に入るが、なんとなく「人と較べるな」という言葉くらいは聞いたことがあるはずだ。
「成功という虚構」を求めていては本当の幸せは手に入らない。
高級車やブランドの服を買ったって大して幸せにはならない。
そう気づいたとき、もう無駄な物欲はなくなるだろう。
重要なのは本当に大事なものに気づくこと、あるいは今ある幸せに気づくことだ。
でもそれは案外簡単じゃない。
第一、自分の中の本質に気づくには自分と向き合わなくてはならない。
自分と向き合うためには時間や生活にゆとりが必要だ。

「成功を求めること」はすなわち他人の期待の世界を生きることだ。
そこに「真の自分」は存在しない。
不幸から遠ざかるにはまず「成功至上主義─成功を囃し立てる世界」から脱することだ。
これはすなわち他者との比較をやめることに他ならない。
だが先にも述べたようにこれは自分と向き合う必要があるし、多くの場合無意識であるため意識して脱するしかない。
脱することができたとき、自分の世界を生きることができるだろう。
そして「幸福」=「自己肯定感」が成り立つならば自分を磨くことだ。
それは筋トレをして身体を鍛えるのもでもいいし読書をして思考を拡張させることでもいい。
自分が好きで不幸なやつなんていないだろう。
他者の世界を脱して自分と向き合い自分を磨こう。
そうすればもうInstagramの画面を開かなくなるだろう。



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