見出し画像

突然亡くなるということ

知り合いが亡くなってしまった

つい先日、「死んだ夢を見た」というコラムを配信しました。

ただの夢で、自分が死ぬ夢を見たのですが、奇しくもその翌日、お世話になっている方の旦那さんがお亡くなりになりました。

奥様は、私にとっては第二の母のような方で、今までも色々と仕事をしたり、婚姻届の証人にもなっていただいたり、仕事でもお世話になっています。その裏にいつもお父さんがいて、お父さん無くしてお母さんなし、というような感じでした。一時期はよく会っていたこともあり、このご夫婦との出会いが無ければ、今の自分はない、と言える出会いでもあります。

どんなカメラを買ったらいいか、と相談を受けたこともあったり、先月には、映像を作って欲しいと、仕事の打ち合わせをしたばかりでした。

最後に会ったのは、『ナマケモノ物語 其の参』で、千葉県の東金にある「ねこのす」という、ナマケモノがいう保護動物カフェを紹介しました。


コラムを読んでいただければわかりますが、「ねこのす」というお気に入りのお店に出会えたのは、このご夫婦に結婚の報告をするためでした。

ご夫婦が住んでいる近くに、ナマケモノがいる動物カフェがあったことを知り、せっかく近くに行くなら、妻を紹介しようと思って約束したものの、当のナマケモノは別の店舗に移っていた。そこで一度は、別の日にしようかと悩んだのですが、予定をズラすのも申し訳ないと思い、気持ちを切り替えたことで、「ねこのす」を知ることができました。それを、「せいをおかげに」というエピソードとして紹介しましたが、今思えば、予定を変えなくて本当に良かったと思います。もしかしたら、もうお父さんと会えなかったかもしれません。

その時に言われた言葉が、最後のメッセージになってしまいましたが、書き記しておきたいと思います。

「何事も、物事を深く考えることが大事です。
 何か一つでも、じっくりと深めていくといいんじゃないかな」

その時は、何となしに聞いていた言葉ですが、私にとっては遺言のようなものになってしまいました。書き記しておくことで、忘れないように心に刻みたいと思います。


突然の死でのお別れ

ということで、昨日が告別式だったので、参列してきました。

訃報を受けた時、経緯を聞いていませんでしたが、どうやら、突然お亡くなりになったそうです。お父さんは71歳でしたが、特に 大病を患っていたわけではなく、亡くなるような兆候もなかったそうです。
急に苦しみだして、救急車で搬送されたものの、病院について手術する間もなく、お亡くなりになったそうです。いわゆる、「突然死」ですね。

事前に連絡をいただいていたものの、横たわるお父さんを見て、事実としては理解できても、感情や頭が追いつかず、事実が受け入れられませんでした。
そこにいるのに、数日前までは元気にしていたはずなのに、全く動かない姿を見て、言い方が悪いかもしれませんが、モノのようにも感じました。魂がそこにはない、ということだけはわかり、生きていたことが嘘のように思いました。

私でそう思うのですから、ご家族の方にとっては、尚更でしょう。

苦しみだしたとは言え、死ぬなんて全く思っていなかったそうです。おそらく、苦しみだして数時間。受け入れがたい事実を突きつけられても、そうそう受け入れられるものではありません。ましてやご家族なのですから。

私の父は、一年半の闘病の末、亡くなりました。訃報があった時は、信じられませんでしたが、病気だとわかったことで、覚悟はしていました。それでも、そう簡単には受け入れられるものではありませんでした。
ただ、「死」を覚悟する病気だった「おかげ」で、死を受け入れる準備もできたし、向き合うこともできて、伝えたいことを伝えることもできました。
そういう意味では、病気というものは、辛いし大変なものではありますが、その役割としては、とても大きな意味があると思っています。


突然死の苦しみ

しかし、「突然死」となると、話は別です。

『君の膵臓をたべたい』という作品や、

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の神回である第10話では、

命について描かれていて、作品としても大きな感動があり、私にとっても大きな影響を受けた名作です。

特に、『君の膵臓をたべたい』では、余命わずかであるにも関わらず、通り魔に遭い、余命を全うすることもできないという悲劇を描いていますが、人間に寿命があるとしても、その通りに生きられるとは限りません。

どちらの作品も、余命幾ばくの少女と母親が描かれていましたが、突然死となると、話は別です。通り魔に遭ったり、事故や災害に巻き込まれて亡くなった場合、向き合う時間がありません。長寿を全うして、家族に囲まれて死ぬことができれば、それに越したことはないでしょう。ですが、思い通りに生きられないように、思ったように死ぬことは、おそらく誰にもできないでしょう。

だからこそ、「死」を受け入れて生きることが、良い人生にできる秘訣だと思っています。とは言っても、中々簡単なことではないですよね。数々の作品で、「命の重さ」を描いていると思います。それでも日常は、「死」へのリアリティを薄めていきます。ニュースで誰かが亡くなったり、芸能人が自殺をしたとしても、我が事とするのは難しいものがあります。

もし、私の大事な人が事故などで突然死したら、やはり簡単に受け入れられないだろうと思います。殺されでもしたら、絶対に許せないし、場合によってはやり返してしまうかもしれません。


生きているからこそできること

お父さんが亡くなっている姿を見て、話しかけても返事は当然ありません。もしかしたら、魂が近くで聞いていて、伝わっているかもしれませんが、それを知る術はありません。思いや気持ちが伝わっていると、実感することはできません。

死ぬということは、リアルに交流ができなくなるということです。思いも言葉も一方通行です。

そこで、一番大事なことは、生きている「今」の内に、思いや気持ちを伝えることです。伝えたいことがあっても、死んでしまえば、伝わっているかどうかを知ることはできません

お母さんが、「あなたと一緒に生きられて、幸せでした」と伝えていました。その言葉に、私は涙してしまいましたが、そんな、言われて嬉しいことを、生きている内に聞くことができたらどれだけ幸せなことでしょうか。生きている内に伝えられなかったことを、どれだけ悔やんでいるでしょうか

例えば、毎日のように「愛してる」と言う必要はないかもしれません。本当にそう思っているならいいですが、「愛してる」と言えばいいというものでもないですからね(^^;

何をすればいいかは、一人一人が考えることだと思いますが、感謝していることは感謝をして、したいことはしてあげられたらいいのではないかと思います。

もし、悔やむようなことがあっても、それはそれで受け入れることで、「せいをおかげに」していけることだと思います。ただ、わざわざ「せい」にしたくなるようなことをする必要もないので、後悔しない選択をして生きていきたいものですね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?