見出し画像

くら寿司の「極み熟成まぐろ」をやっと食べてみた

以前、『ジョブチューン』の人気コーナーで放送され、「せいをおかげにエピソード」として、コラムとしても取り上げました。

1月18日に放送されたのは二回目の挑戦で、その半年前に一度挑戦していました。そこで、看板商品の「熟成まぐろ」は、7人いる審査員から全員不合格をとなってしまい、そのリベンジとして、1月に再挑戦しました。全員不合格という悔しさから、東大の大学院と共同研究開発をして完成させた「極み熟成まぐろ」は、今度は7人全員合格という、真逆の結果となり、まさに「せいをおかげに」したエピソードとして、コラムに取り上げました。

そして、先日、やっとくら寿司に食べに行く機会ができたので、「極み熟成まぐろ」がどれ程のものなのか、実際に味わってきました。

まずは写真を。

画像1

以前の「熟成まぐろ」がない為、比較しようがないのですが、見た目は普通に美味しそうな感じで、みずみずしさは感じました。

早速口に入れたら、口当たりは柔らかく、筋感もあまりなくてとても食べやすかったです。回転すしのまぐろは、筋が引っかかったり、味気なかったりするところが多いような気がしますが、しっとりとしていて、食べやすく、美味しいまぐろでした。

ちなみに、この時は、最初と最後を「極み熟成まぐろ」をチョイスしましたが、くら寿司に行ったら、ぜひ食べたい一品じゃないかと思います。


「極み」という冠

これはあくまで私個人の考えなんですが、「極み」とか「究極」っていう冠をつけることってありますよね?

まぁ、この熟成まぐろも然りなんですが、映画などの煽り文句で、「これぞ、究極の愛」みたいな宣伝って聞いたことないですか?

私はそれが本当に嫌いで(笑)、そう言われたら逆に観たくなくなるんですよ。天邪鬼と言われればそれまでですが、「究極」の意味って、「物事を突き詰めた最後の到達点」という意味なんですよ。二つの「きわみ」を合わせた言葉なので、相当ですよね(笑)

仮に、本当に「究極」だったとしましょう。そうなると、もうその作品以外では物足りなくなってしまうんですよ。

「磯田園のお茶」って知ってますか?愛知県民なら知っているかもしれませんが、ちょっとこのCMの動画を観てみてください。

究極だと、こういう現象が起こるわけですよ(笑)

それに、実際の話、「究極」なんてものは存在しないと思うんですよ。誰もが「究極」だなんて思うものはないだろうし、あったとしても、価値観は人によって違うと時とともに移ろいゆくものです。なので、「究極」は存在しないと、私は思います。まぁ、人それぞれに究極だと思うものはあるでしょうから、「究極」なものは無いし、在るとも言えます。


失敗こそ、進化の種

哲学的な話になりかけましたが(笑)、「極み熟成まぐろ」と銘打ってしまったので、くら寿司においてこのネタを超える「熟成まぐろ」を生み出すことはもうできないかもしれません。なぜなら、「極み熟成まぐろ」を生み出したのも、全品不合格の屈辱を味わったからです。合格に"失敗"してしまったからこそ、全員合格するほど美味しいネタができました。しかし、「極み」にしてしまったことで、これ以上美味しいまぐろを生み出すことはできないかもしれません。

なぜなら、「極み熟成まぐろ」で成功してしまったからです。成功したら、変える必要はないし、超えるものを作ることはできないでしょう。

失敗やマイナスの経験ほど、その反動で価値があるものを生み出すきっかけになるものです。目を逸らさず逃げずに、受け入れて向き合えば。

「"せい"を"おかげ"に」というものも、「"たられば"を"からこそ"へ」というものも、失敗や間違いが前提になっています。間違ったり失敗したからダメなのではなくて、そのままにして進化できなかったらダメなんです。

先日、チュートリアルの徳井さんも4ヶ月の謹慎から復帰しましたが、現状は賛否があっても、今回の問題があったから、後々大きな"おかげ"になる可能性だってあります。道楽家として、失敗や間違いをしてもそれを"せい"にして終わらせるのではなく、"おかげ"になったと言えるように、究極なんて言わずに進化していたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?